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このままだと渋谷が地獄絵図に…アウトロー麻薬取締官が挑むノンストップミステリ #4 ヒートアップ

麻薬取締官・七尾究一郎は、製薬会社が極秘に開発した特殊薬物「ヒート」によって起こった抗争の捜査を進めていた。そんな折、殺人事件に使われた鉄パイプから、七尾の指紋が検出される。一体、誰が七尾をはめたのか……? 『さよならドビュッシー』などで知られる人気ミステリ作家、中山七里さんの『ヒートアップ』は、最後のどんでん返しまで目が離せないノンストップアクションミステリ。前作『魔女は甦る』とあわせてじっくり読みたい本書より、一部をご紹介します。

*  *  *

将にヒートを打ったヘッドの男も同じく渋谷署に留置されていた。名前は相庭亮二、十八歳。職業は溶接工という触れ込みだが、どうせ真面目に勤めてはいまい。チーム同士の抗争に火花を散らすのが精一杯だ。

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最初に年齢だけ聞いていたので、やはり将と同様に幼さの残る面立ちと思い込んでいたのだが、これは見事に外れた。

将とは対照的と言っていいほど、亮二は垢抜けた表貌をしていた。きちんと剃られた髭、滑らかな肌、さらさらと軽そうな髪。着ている服も小ざっぱりとした上等な物だ。

だが七尾はひと目見て、こいつは既に極道だと判断した。

目が異様だった。真直ぐこちらを見ていながら、実は頭の後ろに視線を向けている。他人を絶対に信用しない人間の目であり、その目に人間は単なるモノとしか映らない。今まで逮捕してきたヤクザ者のほとんどがこういう目をしていたが、亮二は殊に顕著だった。

こういう人間に緊張を和らげる世間話や見せかけの恫喝は何の役にも立たない。初めから緊張していないからだ。無駄を省くため七尾は早速本題に入ることにした。

「ヒートの売人とは、どうやって連絡を取った?」

「何ですか、いきなり。ヒート? いったい何のことです」

亮二は不思議そうな顔で聞き返してきた。

「どんな容疑か知らないけど、僕は何も知りませんよ。鳥越って男は知ってますけど、渋谷でたまに顔を合わせる程度で友人でも何でもない」

熊ヶ根が眉の端を上げた。この男が類い稀なる道徳心の持ち主というのは誇張ではあるが嘘ではない。この場所が麻薬取締官事務所なら熊ヶ根の鎖を解いてもいいのだが、生憎ここは他省庁の管轄だ。要らぬ迷惑をかけて後の協力体制に支障が出るようになってもいけない。

七尾は熊ヶ根を手で制して前に出た。

「君は目の前の地雷を踏んで行く方か。それとも避けて行く方か」

「はあ?」

「ヒートは覚醒剤でも大麻でもないが、間違いなく麻薬取締法が適用される薬物だ。譲渡、所持、使用、売買、いずれも罪になる。しかし君は譲り受けたとはいえ、自ら使用した訳ではなく、所持していた期間も恐らく長期ではあるまい。初犯だとしたら情状酌量の余地は十分にある」

亮二は真意を確かめるように、七尾の顔を覗き込む。

「だが事情聴取の際、不必要に反抗的な態度を取ったり、捜査に協力の意思を示さない場合は当然、調書にその事実を明記しなきゃならない」

「なら、協力したら無罪放免になりますか?」

「そいつは無理だ。しかし少なくとも我が身を危険に晒す可能性は少なくなる」

「……どういう意味だ」

「君は鳥越を使って相手を叩きのめしたと悦に入っているだろうが、彼が潰したのは三人だ。まだ数名の残党がいる。今度はそいつらがヒートを買って、君に復讐しようとしたらどうだ? 病院でうんうん言ってる相手の隣には君が横たわるかも知れん」

亮二の表情が次第に強張り始める。

「我々の目的は売人の確保だ。はっきり言って君のチームがどこのチームとやり合おうが全く興味はない。だが、あの売人を放置しておくと色んな方向に色んな形で飛び火する。地雷を踏むか避けるかというのは、そういう意味だ」

そこで言葉を切ると、亮二は視線を床に定めて考え込んだ。情報を開示するメリットとデメリットを比較しているのだろうが、それを試みている時点で既に七尾に懐柔されたとは思ってもみないだろう。

やがて持ち上げた顔は尻尾を巻いた犬の表情をしていた。

警察庁から照会してもらった仙道寛人の似顔絵を突き出すと、亮二は不承不承に頷いてみせた。

「あいつとは連絡の取りようがない」

「往生際が良くないね」

「本当なんだよ。こっちが呼んだ訳じゃない。あいつの方から寄って来たんだ。こういうクスリがあるから買わないかって。ヒートの話は前々から噂で聞いていたから即決さ。その場で買ったよ」

「一グラム三千円。安い買い物だったね」

「三千円? そりゃあ違う。グラム十万円だった」

「十万円。何かの間違いじゃないのか」

「カネ払った本人が言ってるんだ。間違えようがあるか。確かに去年まではあんたの言う通りグラム三千円だったらしいけど、今年になって急に値上がりした。今やシャブと同じ値段になってるよ」

七尾は熊ヶ根と顔を見合わせた。およそ三十三倍の値上がり――通常では考えられない上げ幅だ。言い換えれば、売り手側に尋常ならざる事情が発生した可能性が高い。

「ただ、それだけ値上がりしても需要は多いよ。誰にしたって十万円で相手チームを潰せるなら、こんなに安上がりな投資はないからな」

「しかしそれにしても、どうして君らのような子供にしか近づかないんだ。カネ払いなら、そこらのヤクザの方がずっといいだろうに」

「ああ、それはさすがに怖いって本人が言ってたな」

「怖い?」

「本チャンのヤクザにまで販路拡げたら、こっちの身が危ないって。まあ、見掛け普通のオッサンだったから、どっかの製薬会社に勤めてるリーマンだろうって当たりはつけてたんだけど」

「他のチームが彼と接触した話は知らないか」

「それは知らない。壊滅したチームと敵対していた奴らを捜すってのも手だろうな。たださ、あいつに接触したチームに事情聴取したって得られる手掛かりは俺と同じようなもんだぜ。ブツのやり取りは対面だけど名前もヤサもケータイの番号も知らされない。これってさ、下手にネットを介した売買より跡が残らないんだよ」

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「ヒートの価格急騰の件、どう思いますか?」

渋谷署を出てから、熊ヶ根がそう訊いてきた。

「スタンバーグ社はとっくに日本市場から撤退している。その際、日本支社の社員のほとんどが消息を絶っている。それなのに医薬情報担当者の仙道だけはまだ渋谷近辺に出没している。これは何らかの意図でスタンバーグ社がヒートのサンプル採取を継続しているか、さもなければ仙道が単独行動しているかだ。そこでヒートの価格急騰となると解答は自ずと明らかになるんじゃないか」

「仙道の資金稼ぎ……」

「恐らくはね。日本支社撤退の際、仙道は本社の捜索から逃れ果せた。元々、医薬情報担当者というのは外回りが主業務だから逃げやすいポジションにいた訳だ。ただ、身柄を拘束されなかったのは良しとしても収入源を失った。生活の糧を得るためには手元に残ったヒートを売るしかない。それもできるだけ高値で。局地戦用戦略兵器という性質を考えたら、グラム十万円という価格はむしろ割安だと思う人間は少なくないだろうね」

七尾の推論を聞くと、熊ヶ根は合点のいった様子でしきりに頷いていた。七尾自身にも当たらずといえども遠からずの感触がある。

だが七尾の懸念は別のところにあった。ヒートが高値で売買されることに特段の支障はない。理屈は需給バランスによる経済原理だからだ。

問題は仙道がストックしているヒートがどれだけの量なのかという点だった。数十グラムか、それともキロ単位なのか。それによって今後の展開が大きく変わってくる。事の成り行き次第では、渋谷を中心としたヤクザどもの戦争にまで発展する可能性を秘めている。そうなれば弾き出される弾丸の数も流れる血の量もチーム同士の抗争とは比較にもならないだろう。

ヒートの効能は嫌というほど知悉している。その兵器が暴力団同士の抗争に投下された場合、渋谷がいったいどんな様相を呈するのか。警察の締め付けで新宿が浄化された分、渋谷界隈は相当キナ臭くなっている。いったん戦端が開かれれば恐らく一般市民を巻き込まずにはおかないだろう。

その地獄絵図を想像し、七尾は怖気をふるった。

事務所に戻って鰍沢の作成した報告書に目を通していると、ビジネスホンが着信を告げた。

「はい、七尾です」

『外線です』

声の主は調査室の菅野だった。

麻薬取締官事務所に警察のような専用回線は設置されていない。外部からの電話はまず調査室が受電して各部署に振り分けられるようになっている。そして受電した際も決して組織名を名乗らない。電話の相手がこちらに探りを入れている可能性があるからだ。

「誰から?」

『男です。ヤマザキとしか名乗りません。七尾さんを出してくれって』

ヤマザキ。記憶の棚を検索しても出てこない名前だった。とりあえずは応対して様子を見るしかない。

「代わりました」

『七尾さん?』

「そうですが、あなたは?」

『ヤマザキ。ヤマザキタケミという者です』

「そのヤマザキさんがわたしに何の用でしょうか」

『ヒートについて相談したいことがあります』

思わず受話器を握る手に力が入った。

「あなたは何者なんだ」

『そりゃ勘弁してくださいよ。電話で詳しく話せる内容じゃないし、聞いても多分信用してくれそうにない』

もったいぶった物言いだがハッタリではなさそうだ。長年、情報提供者からの言葉を聞いていると、口調だけで情報の信憑性を推量できるようになる。

「会えますか」

『そのためにお誘いしている。どうせ事務所の近くまで来ているから、場所を指定されたら伺いますよ』

面会場所を振ってきたのはこちら側に主導権を持たせて安心させたいがためだ。つまり、それほどまでに先方の事情が逼迫している事実を示している。

会って損はない――。そう判断した七尾は最寄の喫茶店を指定して事務所を出た。

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