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溜まっていくのは少しの不満…30歳になった同級生4人の物語 #1 世界のすべてのさよなら

会社員としてまっとうに人生を切り拓こうとする悠。ダメ男に振り回されてばかりの翠。画家としての道を黙々と突き進む竜平。体を壊して人生の休み時間中の瑛一。悠の結婚をきっかけに、それぞれに変化が訪れる……。『世界のすべてのさよなら』は、芥川賞候補に選ばれ、ドラマ化もされた『野ブタ。をプロデュース』で知られる白岩玄さんの新境地ともいえる作品。その中から、第2章「翠」のためし読みをお届けします。

*  *  *

クーラーですっかり冷え切ってしまった体にはベランダの生温かい外気が心地よかった。下腹部にはまだ熱を帯びたうずきがあり、下半身にも多少だるさが残っているけど、今は愛する人に抱かれた幸福感の方が大きい。

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夜空には欠けた月が浮かび、目の前に流れている真っ黒な鴨川からは川のせせらぎが聞こえていた。個人的な憧れが補正をかけているのかもしれないが、京都はやはり夏の宵にも、それなりの趣きがあるように思う。虫たちの鳴く声も心持ち上品な気がするし、空気に混じった湿り気のある土の匂いを、肺一杯に吸い込みたくなる。

部屋に戻ると、巧はベッドの上で壁にもたれてスマホをいじっていた。明かりの落ちた薄暗い部屋の中に、さっきまでとは違う、無表情な男の顔が青白く浮かび上がっている。足元に落ちていたクーラーのリモコンを拾い上げて電源をオフにした。ピーッと短い音がして冷たい風が出てこなくなる。

「たばこ取って」

画面から目を離さずに巧が言うので、ローテーブルの上にあったたばこケースを取り上げてベッドまで持っていった。一見長財布のようにも見えるそれは良質な本革で出来ているため、表面の革が指に吸いつく。今日は二回もセックスしたのに巧は元気そうだった。黒いTシャツにボクサーパンツ姿でだらっと座ってはいるけれど、これが若さというものだろうか、「さんくす」と微笑む顔に疲労の色は見られない。

「何? また見んの?」

私はうなずいて巧の隣に腰を下ろした。もう何度も見ているけれど未だに飽きない。たばこケースを広げた巧が、手巻きたばこを作るのを横から眺めた。

正直初めて見たときの印象はよくなかった。美大でも吸っている人がいたから手巻きたばこの存在は知っていたけれど、ガムの包み紙ほどの大きさの紙にシャグ(たばこの葉)を載せ、くるくると巻いたそれに火を点けて吸う様は、どう好意的に見ても怪しいからだ。おまけに巧の場合は、日本ではまだまだ少数派の手巻きたばこを吸っていることにどこかで得意になっているところがあるから、そういうのが前面に出てくると面倒くさかった。規制品のたばこよりも安くてうまいんだよと前に言っていたけれど、それだったらお気に入りの革のたばこケースに何万も使ったりはしないだろう。

私の好きな、細くて長い巧の指が器用にシャグを巻いていく。上下に巻紙を動かして形を整え、ハーモニカを吹くように糊の部分を舐めて接着すると、巧は吸い口の部分を太ももに二、三度当ててから口にくわえて火を点けた。たばこ自体は別に好きでも嫌いでもないけれど、この一連の作業だけは興味を持って見てしまう。たぶん大の大人がちまちましたものを頑張って巻いている姿がちょっと愛らしく思えるからだろう。

「やってみる?」

私はうなずいて革のケースを受け取った。ティッシュのように引っぱり出した巻紙を左手の人差し指と中指の上に置き、シャグを均等に載せてから、両手の指先で巻紙を上下させて形を整える。そこまでは問題なかったが、巻き込むときに巻紙がうまく中に入らず、指の先で何度押し込んでもきれいな筒の形にならなかった。手の中でいつまでも不出来な作品が踊り続ける。

「ちょっと貸してみ?」

得意げに取り上げた巧が、くわえていたたばこを灰皿に預けて「ここおいで」と自分の足元を指差した。脚のあいだに入れということらしいので、腰を浮かせて体をずらすと、後ろから抱きかかえられるような格好になる。自分より五つ年下でもときめいてしまうのはこういうときだ。巧は背が高く、痩せてはいるけど肩幅があるので抱きしめられると男を感じる。筋張っている二本の腕に包まれると安心するし、世界中にここより居心地のいい場所はないように思えてくる。

「こうして巻くときにな、ちょっと斜めにずらすねん。そうすれば巻紙の端っこが中に入りやすくなるやろ?」

同じ目線でレクチャーを受けながら私は感心してみせた。なるほどとは思うが、それよりも遥かに有益なものがここにあるから、いい加減にしか聞いていない。

「でもやっぱり難しいね。うまく巻けるようになるまでにけっこう練習しなきゃいけないんじゃない?」

「うーん、まぁ多少はな。あ、でももっと楽に巻ける方法もあるで」

巧は私の両肩をつかむと、それを支えに立ち上がってベッドを降りた。クローゼットを開け、中に入っているプラスチック製のチェストを開けてごそごそと何かを探している。ベッドに戻ってきた巧は「こういうのもあんねん」と金属で出来た銀色のケースのようなものを差し出した。

「何これ?」

「ローリングマシーン」

鈍く光るそれは全体がわずかに反っていて、受け取ると金属のひんやりとした感触が伝わってくる。巧は私の隣に座ると、ローリングマシーンとやらのふたを開いてみせた。コンパクトのようにふたが開く仕組みになっていて、中は空だが、ふたの裏側にべろんとした生地のようなものがついている。巧はその生地を指でローラーに押し込むと、U字形の溝を作って、そこに適量のシャグを詰め出した。左端にフィルターを置き、唾液で糊面を濡らした巻紙を、ファックスの用紙をセットするようにして上から差し込んでいる。

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「ふた、ゆっくり閉めてみ」

「ふた?」

言われた通り、開いているふたに少しずつ力をかけると、中で何かが巻き取られるような感触があり、ふたの表面にある四角い穴から綺麗に巻かれたたばこがひょっこりと現れた。

「え! すごい、何これ!」

できあがったたばこは市販のものとほとんど変わらない見た目をしている。まったく予想していなかったことが起こったので、ちょっとした手品を見せられたようだった。こんな便利なものがあるんだったら全部これでやればいいじゃないかと私が言うと、巧は「まぁな」と笑っていた。

「でもなんか、これやと手作りの楽しみがないのよな。巻き方で微妙に味が変わるから面白いんであって、全部一律になってもうたら既製品でええやんって話になるから」

「ふーん、そういうもんなんだ」

「うん。自分で巻く方が旨く感じる」

巧は灰皿に預けていたたばこを取り上げると、私の頭を避けるように口をつけて、煙を横に吐き出した。手元に残った不出来な方のたばこが不憫になって、なんとなく指でもてあそぶ。自分が手塩にかけたものを愛しく思うのは人の習性みたいなものなんだろうか。だったら相手に尽くすより、相手から尽くされるように仕向けた方が幸せになれるのかもしれない。

「あ、そろそろ出る準備せな」

巧がそう言ったので、親密な時間を急に断ち切られたような気持ちになった。でも事情が事情なので仕方がない。巧が働いているバーの店長がぎっくり腰でカウンターに立てないため、どうしても出なければならないのだと事前に伝えられていた。

「ごめんな、翠が泊まる日に仕事入れちゃって」

「ううん、いいよ、大丈夫」

できた年上の彼女を演じて微笑みを浮かべる度、貯金箱に小銭を入れたように私の中でちゃりんと音がするのがわかる。溜まっていくのは少しの不満で、でもいっぱいにならない限り平然とした顔をしていられるし、我慢しているのを相手に気づかれることもない。貯金箱のことは忘れて、せめてきれいな顔で送り出そうと洗面所に行くことにした。

中に入って明かりを点けると、化粧がすっかり取れてしまった自分の顔が鏡に映って愕然とする。いつも頑張って隠しているシミとくすみが目立っていた。暗くてよく見えなかったことを願いたくなる。

「次、いつ来るんやっけ?」

部屋から飛んできた巧の声に「再来週」と答えて化粧を直した。前にも言ったんだけどな、と思いはするが、巧が私の話をあまり聞いていないのはいつものことだ。そのいい加減さが彼の魅力のひとつになっているところもあるのだけれど、私が京都まで会いに来る日を記憶していないのは、それがそんなに重要じゃないからなのかと、ついついネガティブな想像をしてしまう。

歳をとるということが、どういうことなのかがわかるようになったのは、二十代の半ばくらいだっただろうか。この国のロリコン主義が私の意識にも確かな圧力をかけているのか、女の賞味期限などというおぞましい考えにいつからかとらわれるようになってしまった。

もちろんまだ三十だし、世の中にたくさんいる魅力的な女の人たちを見ていれば、いくつになっても自信を持って生きていけるような気持ちになることもある。でもそれは干ばつがひどい土地を歩きながら、遠くに虹を見るようなものでもあって、「あの虹のふもとまで!」と頑張って歩いているうちに心が折れてしまうこともしょっちゅうだ。知らないからそんなことが言えるのかもしれないが、もっと自立した女性をおとしめない国、たとえばフランスなんかに生まれていれば、私の人生はもう少し違っていたんじゃないかと思うこともある。

職場のデスクの散らかりようが、なけなしのやる気を奪っていくようだった。週明けの月曜日は本当に働く気がしない。特に巧と会うために京都まで行って帰ってきた次の日は、体力とお金が消費されて、心だけが半分ほど回復している状態だ(しかも厳密に言うならば、回復するのは会っているときであって、すでにゲージは減り始めている)。

でも自分が何を求めているのかを考えると、たとえ体が疲れたり、お金が飛んでいったとしても、心が満たされることを選んでしまう。体は寝れば回復するし、お金は働けばまた貯まるけど、心だけは自分一人ではどうにもならない。

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