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シンガポールに来てほしいの…橘玲さん渾身の国際金融情報ミステリー! #3 タックスヘイヴン

シンガポールのスイス系プライベートバンクから1000億円が消えた。ファンドマネージャーは転落死、バンカーは失踪。マネーロンダリング、ODAマネー、原発輸出計画、北朝鮮の核開発、仕手株集団、暗躍する政治家とヤクザ。名門銀行が絶対に知られてはならない秘密とは……。

ベストセラー『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』などで知られる橘玲さん。『タックスヘイヴン』は、そんな橘さんによる国際金融情報ミステリー小説です。姉妹作品である『マネーロンダリング』『永遠の旅行者(上巻)』『永遠の旅行者(下巻)』とあわせて、お楽しみください!

*  *  *

「大変なことになったね」凡庸な言葉しか、牧島には思いつかなかった。

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「一昨日、シンガポールの日本大使館から電話があったの」紫帆はかるくため息をついた。「ホテルから飛び降りたんだって」

なんといっていいかわからなかった。

「同情なんかしなくていいのよ」紫帆は微笑んだ。「さんざん泣いて、現実を受け入れるしかないって覚悟を決めたから」

「相変わらず強いんだね」

「三歳になる娘がいるの。真琴っていうんだけど。母親は強いのよ」こんどは声を立てて笑うと、慌てて口を手で押さえた。そんな仕草の一つひとつがむかしのままだ。

宝石を埋め込んだ腕時計をちらっと見て、「近所の友だちに預かってもらってるから、あんまり時間がないの」と紫帆はいった。遺体の確認と引き取りのために、できるだけ早くシンガポールに行かなければならないのだという。大使館からは、死亡時の状況が不明で自殺か他殺かわからないため、現地の警察の事情聴取があると伝えられていた。

「会社のひとは手伝ってくれないの?」牧島は訊いた。

「夫は一人で金融コンサルタントみたいなことをしていたの。それにわたし、彼の仕事関係のことはなにひとつ知らないし」

「大使館は?」

「“必要なら援助してくれる団体をご紹介します”だって。一般市民のことなんてどうでもいいみたい」

電話をかけてきた日本大使館の職員からは、ホテルで自殺した場合、状況によっては遺族が損害賠償を請求される可能性もあるといわれていた。遺体を日本に搬送するのにもかなりの費用がかかるらしい。

「女ってほんとにダメよね。こんなとき、パニックになっておろおろするばっかり」こんどは大きなため息をついた。「うちの母なんてわたしよりもっとヒドくて、まるでこの世の終わりみたい。いっしょにシンガポールに行くっていうんだけど、足手まといになるだけだから、真琴を一週間預かってもらうことにしたの」

「そんな経験、したことないんだから当たり前だよ」また陳腐なことしかいえなかった。

「恥ずかしい話だけど英語なんてぜんぜん話せないし、わたし一人で現地に行ってもどうしていいかまるでわからないの」

「旅行会社に頼めば、通訳を紹介してくれるよ」

「大使館のひとからもそういわれたんだけど、たとえ通訳がいたとしても、自分だけでなにもかも決めるなんてぜったい無理」眉をひそめて首を振った。「それに、家にヘンな電話がかかってくるし」

「電話?」

それにはこたえず、上目づかいで牧島を見詰めた。「ねえ、わたしたちいまでも友だちよね」

あたりの空気が薄くなったような気がした。

「もしそうなら、わたしを助けてほしいんだけど」

息が苦しくなった。

「シンガポールにいっしょに来てほしいの」散歩にでも誘うように、紫帆はいった。

「いつ?」

「牧島くんさえよければ、明日出発したいの。今夜、実家から母が真琴を迎えに来ることになってる。航空券は緊急扱いで旅行会社が手配してくれるんだって」

「そんなこと急にいわれても……」

「そうよね。できるわけないよね」紫帆は肩をすくめた。

「いや、ただびっくりしただけだよ」

「むかしからわたし、無理なことを頼んでばかりね」そういって笑うと、右手の人差し指をかるく目の端に当てた。その瞬間、大粒の涙が溢れ出した。

「いやだ、恥ずかしい」紫帆はプラダのバッグから花柄の大きなハンカチを取り出すと、涙を拭いた。「ごめんね。くだらない愚痴ばかり聞かせて。わたしったら自分の都合ばかり……」

「そんなことないよ」牧島は慌ててさえぎった。「僕にできることならなんでもするよ」

「そんなやさしいウソ……」紫帆の涙が止まらなくなった。

周囲の客が怪訝そうにこちらを見ている。紫帆の華奢な肩にそっと手を置くと、全身が小刻みに震えているのが伝わってきた。

会計を済ませ、紫帆の肩を抱いて店を出た。ちょうどタクシーが来たので「家まで送るよ」といってみたが、激しく首を振る。

タクシーが出るまで、紫帆はいちども牧島を振り返らなかった。表参道の交差点を左折して車が見えなくなってからも、牧島はその場に立ち尽くしていた。

紫帆の髪の甘い匂いだけが残っていた。

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表参道から地下鉄で渋谷に出て、新宿で中央線に乗り換えて東小金井駅に着く頃には短い冬の日はすっかり暮れていた。駅前のスーパーで夕食のおかずにブリと豆腐、野菜サラダを買う。

牧島は静岡県内の高校を卒業すると、東京の私立大学の理工学部から大手電機メーカーに就職した。最初は大分の工場に配属され、一年の本社勤務ののち、ホーチミンの合弁工場の立ち上げを支援することになった。その仕事の目処がつくと上司からインドネシア駐在を誘われたが、それを断って五年前に退職した。それからは技術書やビジネス書の翻訳をしてなんとか食いつないでいる。

雑然とした駅前広場を抜けると閑静な住宅街になる。近くに公園とキリスト教系の大学、インターナショナルスクールがあり、その先に広大な墓地が広がっている。牧島が住んでいるのは2DKの木造モルタルアパートで、両隣の住人はどちらも外国人だった。

部屋に戻ると石油ストーブをつけ、米をといで炊飯器をセットした。パソコンを立ち上げてメールをチェックする。

出版社から、翻訳の進捗状況について問い合わせがあった。社内体制が変わって刊行予定を全面的に見直すことになったから、作業を一時止めてくれないかという。はっきりとは書かれていないが、この企画はボツになったということのようだ。「がんは福音だ」と説く本から解放されて、牧島はほっとした。

飯が炊きあがると、パックからブリの切り身を一枚取り出し、醬油、みりん、日本酒でたれをつくって照り焼きにした。野菜サラダと冷蔵庫にあった惣菜、インスタントの味噌汁、豆腐と納豆が今夜の夕食だ。

食べ終わると食器を洗い、インスタントコーヒーを淹れる。ずっと携帯を隣に置いていたが、いちども鳴らなかった。

九時過ぎにダウンジャケットを羽織ってアパートを出た。夜になって気温は急に下がり、吐く息が白い。しばらく歩くと私鉄の線路で、そこを越えると公園のなかを流れる狭い川と出合う。川沿いに遊歩道があって、格好の散歩コースになっている。

月のない夜で、空にはオリオン座がくっきりと浮かんでいた。かじかむ手で毛糸の帽子をかぶり、ネックウォーマーを巻く。左手は携帯を握りしめたままだ。

紫帆はたまたま牧島のことを思い出したようにいっていたが、それが嘘なのはわかっていた。明日いっしょにシンガポールに行ってくれと頼まれて、ふたつ返事で引き受けるような暇な人間はそうはいない。牧島がまだ独身で、会社を辞めてからは無職にちかい生活をしていることを紫帆は知っていた。

思えば高校の頃から、紫帆はずっと牧島に無理難題をふっかけてきた。雑誌で気に入った店を見つけると、それが東京や横浜でも、「牧島くん、こんどの日曜、あたしここに行きたいの」という。ディズニーランドから鎌倉の古寺巡りまですべて思いつきで、そのたびに牧島は振り回され、友人たちからは「女王様の奴隷」と揶揄された。東京に出て、地元の大学に進んだ紫帆と疎遠になって寂しくもあったが、自由になった気がしたのも事実だ。

紫帆から一三年ぶりに呼び出されたとき、なんとなく予感はあった。

真冬の夜の公園。外灯のない遊歩道にひとの姿はない。そのまま歩きつづけると大通りに出て、右に曲がるとスポーツグラウンドとサッカースタジアムが見えてくる。東京都が米軍施設の払い下げを受けて再開発した地域で、小さいながらも飛行場まである。左手は国立天文台、そのまま真っ直ぐ進むと植物園だ。

携帯で時間を確認する。いつの間にか十時を回っていた。

表参道のカフェで紫帆と会っているあいだ、牧島はずっと奇妙な感覚に戸惑っていた。

目の前にいるのは高校生のときの、制服姿で走り回っていた桐依紫帆とはまったくちがう、高価なブランドもので身を包み、あか抜けて魅力的な、ファッション雑誌のグラビアから出てきたような成熟した女性だった。目元や口元に、年齢相応のかすかな皺があることにも気がついた。しかしそれでも、わずかな仕草とか、語尾の上げ方とか、そんなちょっとしたことの積み重ねで、五分も経たないうちに高校時代に引き戻されるような感覚に襲われた。そんな気持ちは想像もしていなかったから、牧島は自分に驚いた。

駿河湾を見下ろす高台にある公立高校で、牧島は紫帆と出会った。入学直後のホームルームで学級委員を決めることになったのだが、誰も立候補しないので、教師が入学試験の成績で一方的に牧島と紫帆を委員に指名したのだ。ホームルームが終わると紫帆がやってきて、「きみ、西中の子でしょ。あたし、桐依っていう苗字が好きじゃないの。だから紫帆って呼んで。よろしくね」といった。

タクシーのなかで紫帆は、強張った表情でじっと正面を見詰めていた。別れてからずっと、その横顔を思い出していた。

着信履歴を表示させると、牧島は発信ボタンを押した。

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