某|ハルカ 3|川上弘美
長良さんがわたしを誘ったのは、次の次の週だった。
「あそびに行こう、週末に」
ユナと同じような誘いかたをする。わたしは承知した。ユナと出かけた時と同じ、スカートにニットの半袖ブラウス、スニーカー。でも、下着はちゃんと、水沢さんが買ってきてくれた今年の干支の柄のものにした。
長良さんは、足首くらいまであるぞろっと長いスカートをはき、上は透かし編みの極彩色のカーディガン。足もとは編み上げのブーツである。
「このブーツ、母親が若いころのなの」
ブーツはあせた緑色で、ところどころが破れていた。
「かっこいいでしょ」
うん、と、わたしは素直に答えた。教室ではどちらかといえば無視されている長良さんが、こんなに個性豊かな服装をしてくるとは、予想していなかった。丹羽ハルカ、想像力に少しばかり限界があるもよう、と、その日の日記にわたしは書きこむ。
「今日は、どこに行くの」
わたしは聞いた。
「べつに。適当にぶらぶらしよう」
そう言いながら、長良さんが向かったのは、神社だった。
「あのね、あたし、呪いをかけるのが趣味なの」
神社で呪いをかけることが可能だとは、知らなかった。
「人が死ぬほどの呪いは、やばいから、軽い呪い」
まずは、ユナを呪うのだと、長良さんは言うのだった。わたしは、一瞬ひいた。ひきながら、同時に興味しんしんでもあった。
「なんで呪うの」
「あたしがあの子に嫌われてるから」
「なんでユナは長良さんを嫌ってるの」
「あの子とあたしが似てるから」
「どこが」
「偏屈で、自分勝手。クラスで浮いてる」
「二人とも、イジメとか受けてるの?」
天真爛漫な口調で、わたしは聞いてみる。
「ううん、無視はされてるけど、それ以上のアレは、ない」
長良さんは、ぼやぼやしたくちぶりで答えた。クラス内カースト、とか、格差、とか、病院のベッドでネットや新聞を読んで得ていたいくつかの知識とは、少し違う感じである。
「どうして長良さんは、毎日ちゃんと学校に行ってるの?」
ふたたび、わたしは天真爛漫なくちぶりで聞く。
「理由は、ないよね」
ないのか。長良さんのきっぱりした言いかたに、わたしは感心する。ユナと長良さんは、なぜ友だちにならないのだろうかと、いぶかしくも思う。変わり者どうし、気が合うのではないだろうか。
「こないだ、ユナと銭湯に行ったよ」
「ああ、ユナは自分のからだに自信があるから」
「長良さんは、ないの?」
「ないよ」
結局長良さんは、神社で三つの呪いをかけたらしい。ユナと、担任と、あとは世界全体に対して、だそうだ。
「人に教えちゃうと、呪いって、無効になるんじゃないの?」
そう聞くと、長良さんは、うなずいた。それから、つけ加えた。
「無効にならないと、怖いじゃない」
長良さんは少しうつむき、あせた緑色の編み上げのブーツで神社の砂利を蹴った。
期末試験が終わり、夏休みが近くなった頃、はじめてユナと長良さんと三人で出かけた。看護師の水沢さんが、美術展の切符を三枚くれたのである。
「三人は、いや」
と、ユナは言った。
「いやだ、三人は」
と言ったのは、長良さん。そっけなさも、即座に答えたことも、やはりよく似ている。いやだと言ったわりには、少し押したら簡単に意志をひるがえしたところも、同じだった。
待ちあわせた駅の改札口から、美術館までのみちみち、ユナも長良さんも黙りこくっていた。わたしも、面倒だから、黙っていた。美術館の中でも、三人は黙っていた。美術館だから、黙っていても気まずくはなかった。一時間半くらいかけて絵を見た。それだけ時間をかけたのはわたしだけで、ユナと長良さんは、入り口近くの腰かけに、所在なさそうに座って、二人して足をぶらぶらさせていた。
「どの絵が好きだった?」
聞くと、「おじさんが椅子に座ってる絵」とユナが言い、同時に長良さんも、「椅子におじさんが座ってる絵」と答えた。
まるで二重唱のように二人の声が響くと、すぐさま二人はそっぽをむきあった。
サンドイッチを買って公園のベンチで食べている間も、その後ぶらぶら歩いている間も、ユナと長良さんは、別々にわたしに話しかけつづけた。二人の間に、直接の会話は、決して交わされなかった。
たしか、聖徳太子は、十人もの人から同時に話しかけられても、全員の言葉をちゃんと聞き取り言葉を返したのだった。でも、わたしは聖徳太子ではないので、ユナと長良さんの、たった二人が相手でも、別々の話題で話し続けるのはひどく困難なことだった。
疲れきって病院に戻った。水沢さんとすれちがったので、切符のお礼を言った。水沢さんは、どうだった? と聞いた。うーん、微妙。そう答えると、水沢さんは、にっこりと笑った。
夕飯のあと、日記を読んでいた蔵利彦が、「あっ」という声をたてた。
「丹羽ハルカと、少し重なったね」
え、どういう意味ですか。わたしは疲れたまま、ぼんやりと聞き返した。
「丹羽ハルカのことを、『丹羽ハルカ』ではなくて、『わたし』と表現している箇所が出てきたんだよ」
日記を、わたしは見返してみる。
丹羽ハルカ、ユナと長良さんと駅で待ち合わせ
という部分の少し後に、
わたしは聖徳太子ではないのである
と書いてある。
なるほど、わたしは着々と丹羽ハルカと同期しつつあるようだ。
「治療は、じゃあ、うまくいってるんですね」
蔵利彦に聞くと、蔵利彦は肩をすくめた。
「まあ、ぼくにもよくわからないんだけどね。でも、性染色体は今のところXXに固定されているよ」
夏休みが始まり、ユナと長良さんと会う時間は少なくなったが、メールのやりとりはひんぱんにしていたので、丹羽ハルカとしての自意識がとぎれてしまうことはなかった。八月の終わりごろには、ユナや長良さんとメールをしたり実際に会っている時でなくとも、病院の中で一人でいる時でも、わたしが自分のことを丹羽ハルカだと実感する時間は、増えてゆきつつあった。
二学期になった。わたしはふたたび、ユナと長良さんのいる教室に通うようになった。
不思議なことに、夏休み中病室でユナや長良さんとメールのやりとりをしていた時よりも、教室で直接顔をあわせている時の方が、二人を遠く感じる。
「ひさしぶり」
と、顔をあわせた時に言ったのは、ユナである。たしかに会うのは久しぶりだが、毎日のように画面上で言葉をかわしていたのだから、わたしからすると久しぶりだという印象は薄い。
「どうも、おひさしぶりです」
と言ったのは、長良さん。夏休みの間に、ていねいな言葉に戻ってしまっている。
こうして生身で対面するのと、メールで対するのとは、どうやら違うことのようなのだった。
日記に書くことは、あまり増えなかった。学校に行く。授業を受ける。ユナとお昼を食べる。または、長良さんとお昼を食べる。また授業を受ける。病院に帰る。土曜日か日曜日は、たまにユナ、たまに長良さん、ごくまれにユナと長良さんと共に、ふらふらと過ごす。
「ねえ、毎日、楽しい?」
一度だけ、ユナに聞いてみたことがある。ユナは何も答えなかった。聞こえなかったのかと思い、もう一度聞くと、ユナはまっすぐにわたしの顔を見て、
「ハルカは、楽しいの?」
と聞き返した。しごく不機嫌な表情で。何かが、よくなかったらしい。念のため、長良さんにも同じ質問をしてみたが、こちらはごくそっけなく、
「質問の意味がわかりません」
と答え、すぐにそっぽを向いた。
単調な毎日だったけれど、日記にその単調さを書きとめることは、さほど退屈なことではなかった。朝に聞いた鳥の鳴き声。授業でわからなかったこと。長良さんのお弁当に入っていた山椒の実を食べさせてもらったら、ひりひりと辛かったこと。わたしのお弁当のなかみが、いやに体によさそうだとユナが言ったこと──病院の厨房で患者用に作っているお昼を弁当にしてもらうので、なるほど、体によさそうなのは当然である。
美術の先生が、時おりひどく暗い顔をすること。けれど、たぶん生徒たちは誰もそのことに気がついていないこと。ユナがこのごろ銭湯に行きたがらなくなったこと。長良さんは、あいかわらず私服が奇抜なこと。この前は、自分で編んだのだという、写実的な総理大臣(二代前の)の顔が編み込みになっている半袖のセーターを着てきたこと。
「このデザイン、どう思う?」
と聞かれ、
「少し、こわい」
と答えたら、長良さんは笑い、
「あたしもそう思う。でも、せっかく編んだから、ちょっと意地で着てみた。ユナには絶対に言わないように」
と頼んできたこと。
花壇に植えられた小さな花が咲き、また散ってゆくような、日々のそのようなたわいのない営みを記した日記を、蔵利彦は、読み飛ばさずいちいちていねいに読んでいった。
九月が過ぎ、十月も半ばになった。久しぶりに長良さんとユナと三人で博物館に行ってきた土曜日の夜のことだった。
「そろそろ、失踪しましょう」
蔵利彦が言った。え? と、わたしは聞き返した。失踪する。言葉の意味は、わかる。けれど、どんな状況が「失踪」の後に出来しゆつたいするのかが、わからない。わたしが、記憶のない人間だからわからないのではなく、生まれた時からの記憶をきちんと持っている人間にだって、わからないだろう。
「丹羽ハルカの日記は、停滞しています。つまり、次の段階に治療を進める時が来たというわけです」
というわけです。わたしはまた、蔵利彦の言葉を頭の中で繰り返す。
「へえ、もう次に、うつるんだ」
いつの間にかやってきていた看護師の水沢さんが、からかうようなくちぶりで言った。
「丹羽ハルカは、もうおしまいなのね。次は、どんな者になるの?」
水沢さんはそう続け、わたしの顔をのぞきこんだ。水沢さんの、薄い色の黒目に、わたしがうつっている。電灯の光を反射して、水沢さんの瞳は、とてもきれいだった。
次は、男がいいですかね。ええ、男がいいような気がしますね。蔵利彦と、水沢さんが言いあっている。丹羽ハルカは、それでは、そろそろおしまいなのだ。わたしはぼんやりと思う。丹羽ハルカという人間でいることにさほどの執着はなかったが、首のつけねのあたりが、ほんの少しだけ、心細いような心地だった。
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