浮気される妻より愛人がいい…新しい人生へ踏み出す6人を描く恋愛小説 #5 隣人の愛を知れ
不倫と仕事に一生懸命なパラリーガル、初恋の相手と同棲を続けるスタイリスト、夫の朝帰りに悩む主婦。自分で選んだはずの関係に、彼女らはどう決着をつけるのか……? ルミネの広告コピーから生まれたベストセラー小説、『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』。7年ぶり、待望の2作目となる『隣人の愛を知れ』は、素直になる勇気を得て、新しい人生へと踏み出す6人を描いた恋愛小説です。その冒頭を特別にお届けします。
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12月26日(月) 知歌
知歌はスマホに手を伸ばし、目を凝らしてデジタル表示を確認する。
良かった。ちゃんと起きられた。
あと10分もすれば、設定していたアラームが鳴るはずだ。ベッドに入って4時間も経っていない。それでも知歌のからだも頭も、これ以上の睡眠を求めていなかった。明け方まで降っていた雨はとっくに止んだのだろう。すっかり高くなった太陽の眩しさを、知歌はくすぐったく受け止めていた。
昨夜は、美術館を出るとすぐにタクシーを拾った。向かった先は外苑前にある会員制の高級ホテルだ。関戸の言葉を、脳内で何度となく反芻してみる。
「まさたか、でいいから」
「きれいだ」
「もっとキスしよう」
からだを交わしたのは、昨夜で7度目だった。ホテルに行ったのは8度目だが、最初の夜は知歌の決心がつかなかった。
理性のある女だと、思われたかったから。
いい歳をして、ホテルの部屋までついて来たくせにと、知歌は思い出すだけで恥ずかしくなる。関戸は「ごめん、ごめん」という感じで、それ以上は求めてこなかった。不倫をすること自体は、知歌に抵抗はない。母のように不倫される妻よりも、父が選んだ愛人の方がいいに決まっている。惨めな思いをするのは、決まって妻なのだ。2回目に会ったときには、知歌に踏み止まる理性など、もうどこにも残ってはいなかった。
映画好きならば「関戸正高」を知らない人はいない。
たとえ彼の名前は知らなくても、『濁流に泳ぐ人』の監督といえば、日本人なら誰もが知っている。いや、外国人でも知っているかもしれない。カンヌだか、モントリオールだか、海外の映画祭でたしか賞も獲っているはずだ。
『濁流に泳ぐ人』が公開されたのは、知歌がちょうど二十歳のときだった。冤罪で収監された父親を助けるために、弁護士を目指す女性の話だ。なんとなく法学部に入った知歌が、司法の道にチャレンジしようとしたのも、この作品の影響が大きかったのだ。世の中の偏見や好奇に曝されても、気高く生きる主人公。そんな信念を持った強い女性に自分もなりたいと思った。15年も前の衝撃を、知歌は昨日のことのように覚えている。
暖かなベッドの中でいったりきたりと何度も寝返りを打つ。
昨夜の滑らかなホテルのシーツのひんやりとした感触を思い出してみる。いや、思い出しているのは、関戸の肉厚な手の平と、指先まで熱い大人の男の体温だった。煙草の匂いのする荒い息遣いと、くぐもった声。さっきまで一緒だったのに、すでにもう抱かれたい。アラサーとアラフォーのあわいに立つまで、知歌はこんな気持ちになったことは一度としてなかった。
突如鳴り出したスマホのアラーム音に、知歌の心臓が止まりそうになる。妻のいる男性を愛しむやましさが、心のどこかにあるからなのか。漫画みたいに反射的に飛び起きた瞬間、下腹部からジワッと液体が流れ出た感触があった。
恋とはこんなにも厄介で、恋するからだはこんなにも素直なのだ。
「離したくなくなる」と、関戸は何度も言ってくれた。
ショーツに触れてみると、指先には、うっすらと血がついている。
予定より5日も早い。生理不順になったことのない知歌は、サニタリーショーツを手に、急いでトイレへ向かった。恋という純粋な響きが似合わない歳になっても、男女の世界は驚きに満ちている。
すっかり身支度をしてから、知歌はリビングのドアの前で一息つく。
「昨夜はどうしたのか」と、さすがに母は聞くだろう。
関戸と付き合うまで、毎晩遅くとも終電までには帰っていた。そしてそのほとんどは、残業だったのだ。結婚前から頻繁に外泊をしていた妹とは違い、あらかじめ午前半休を取ってまで用意周到に夜遊びするなど、以前の知歌には考えられないことだった。
下手な言い訳も思いつかないままドアを開くと、母の姿はなかった。
ダイニングテーブルの上には、ひとり分の朝食の用意がある。照りのある朱色は焼き鮭。クレソンのおひたし。ひじきと分葱が入った卵焼き。きっと台所には、お味噌汁とごはんがある。
わたしには絶対にできないと、知歌は思う。
この家に父がいた頃も、父が家族を捨てて出ていったあとも、母は変わらずに手間隙かけて家族のごはんを作り続けている。
父親の分を減らすことに慣れるまで、どのぐらいの時間がかかったのだろうか。
浮気される妻になるくらいなら、愛人の方がいい。
知歌はほうれん草のお味噌汁を温め、炊飯ジャーから温かいごはんをよそって、昨日、母からの電話をかけ直さなかったことに、急に後ろめたい気持ちになる。
「いただきます」
両手を合わせて、朝昼兼用となるごはんを食べようとしたとき、スマホにメッセージが入った。関戸だったらと慌てて箸を置くと、母親からだった。
〈昨夜も遅かったみたいですね。寝不足でしょうが大丈夫ですか? 知歌ちゃんは今夜も遅いですか?〉
手紙でもあるまいし、還暦前の母の世代なら、もう少しメールに慣れてもいいはずだ。母のぎこちない他人行儀なメッセージに思わず苦笑がこぼれる。
明日は事務所の忘年会だが、今夜は定時で終わるだろう。そして関戸とも、会う約束はない。それなのに、母へのメッセージには、〈たぶん〉をつけて〈早く帰れると思う〉と返していた。
12月26日(月) 莉里
今日は終業式だった。
午前中の1時間で終わって、授業はなし。だったら、先週の金曜日でおしまいにしちゃえば良かったのにと、莉里は心底思う。
そういうの、なんて言うんだっけ。
確か文房具みたいなやつで……杓子定規だ。その反対は臨機応変。四文字熟語が好きだと言ったら、子ども食堂のおばちゃんが教えてくれた。
金曜日に2学期が終わってくれていたら、クリスマスプレゼントが何だったとか、ママとケーキを焼いたとか、サンタの正体はパパだったとか、そんな話ばっかり聞かないで済んだのに。
「莉里ちゃん家は、美人サンタだね」
優奈ちゃんは言ってくれたけど、莉里はそんなに嬉しくなかった。優奈ちゃんのママも会うたびに「莉里ちゃんママはまだ20代だなんて、若くていいわね」と言うけど、ちっともいいと思ってないことは、莉里にはわかっていた。大人は、いろいろある。思っていることと反対のことを言ったりもする。莉里のママは、子どものくせに莉里を産んだって、おばあちゃんはよく言っていた。
「子どもが子どもなんて産むからよ」
ママがおばあちゃんを苦手な理由が、莉里にもわかる気がした。
莉里は学校から帰るとすぐにランドセルを下ろして、教科書を机の前の棚に並べる。背の低いのから、高い順番で。教科はぐちゃぐちゃになるが、それは特に気にならない。大きさだけは、揃えて並べないと気持ち悪い。成績表はどうしようかと、とりあえず机の上に置いたところで、
「莉里、入るよ」
ママがノックしながら、ドアを開けた。
「学校どうだった?」
ママは今日、仕事はお休みと言っていたが、いつも通りにお化粧をしている。
成績表を見せると「すご」と言って、莉里の頭をクシャクシャと撫でた。
ママの仕事は、銀座にあるジュエリーショップの店員さんだ。日本でいちばん高いダイヤモンドも売っている高級ブランドだという。それなのにママは、ジュエリーには興味がないみたいで、普段はなにもつけていない。
「莉里、パンケーキ食べに行こうよ」
莉里は、うんうんと勢い良くうなずいて賛成の意を表す。
「甘いの食べるなら、夜より昼のがいいし。デブりづらいから」
きっとママは、昨夜のクリスマスケーキが売り切れで買えなかったのを気にしているのだ。サンタクロースじゃなくても、ごはんを作るのが苦手でも、帰りの遅い夜が続いても、莉里には大した問題ではない。そのぐらいママのことが好きだった。莉里はセーターを脱いで、お気に入りのピンク色のモコモコパーカーに着替える。
「じゃあママも、お揃いのピンクにしちゃおっかな~」
べビーピンクのハーフダウンをハンガーから外そうとして、
「でもこんなん着てくと、姉妹とかまた言われたらウザいわぁ」
ママはお揃いをやめて紺色のダッフルコートに変えてしまった。
パンケーキが人気の五反田駅の近くのカフェは、今日はめずらしく並ばずに入れた。
それでもほぼ満席の店内は、「イブどうだった?」「プレゼントなんだった?」「大晦日どうする?」みたいな話で、盛り上がっている若い女性客ばかりだ。小学生は莉里しかいない。男の店員さんに窓際の席に通され、ママが「ラッキーだね」とメニューを受け取った。
莉里はいつものホイップクリームと苺がたっぷりのったパンケーキを注文する。大きなお皿を前にした莉里を、ママはいつも写真に撮ってくれるのだ。
そのときのママの顔は莉里よりも嬉しそうで、「かわいいよ」ってシャッターを切るママの顔こそ、写真に撮りたいと莉里はいつも思う。
「ママはいいの?」
メニューを開きもせず、ママはいつもレギュラーコーヒーしか頼まない。
「莉里が残すのをもらうからいいよ」
コーヒーにミルクを入れて、スプーンでゆっくりとかき回しながら言った。
苺をフォークでママに次々と渡して、苺のブツブツは実は種じゃないのだと莉里は説明する。小さなブツブツこそが苺の実であり、果肉だと思って食べる赤い部分は「偽果」と呼ばれる茎が肥大した部分なんだと、子ども食堂のおばちゃんから聞いたことをそのまま伝えた。
「マジか。ってか、苺は莉里が食べなよ」
莉里が「おしゃべり好き」なのは、おばあちゃんに似たのかもねとママは言う。
ママはあまり喋らない。ママは朝に弱くて、夜はだいたい疲れている。顔はおばあちゃんよりもママに似ていて良かったと思う。莉里の背が高いのは、誰に似たのだろうか?
ママは婚約指輪を売る担当なのに、お店に来た男のお客さんから、食事やデートに誘われたりするらしい。保育園のときは、友だちのパパにストーキングされて問題になったこともある。
「独身男はめんどくさいと思ってたら、既婚もめんどいわ」
そんな話を、ママが誰かと電話で話しているのを聞いたことがあった。莉里はママが怒っているところを見たことがなかったし、ママが泣いているところも見たことがない。
「このあとさ、彼がうち来るけど、莉里はどうする?」
「恋人?」
「まぁ、そうかな」
その恋人は、イケメンだ。
ママに恋人が何人いるのかは知らないけど、家まで来る人は滅多にいない。来てもいつもふたりでママの部屋に入ったら出てこないから、莉里と顔を合わせることはほとんどなかった。なんとなく、扉を開けてはいけない気がしたし、莉里はイケメンには特に興味がない。
「わたし、図書館に行く」
悪いね、というように、ママは顔の前で片手を立てた。
区立図書館は20時まで。子ども食堂は18時から。
こんな大きなパンケーキを食べたら、夜ごはんが食べられるか、莉里はちょっと不安になった。
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