![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/38901956/rectangle_large_type_2_c63c22cbe8d293c461f9f56385162134.jpg?width=1200)
インターネットの世界だけが全てで、人との繋がりを実感できた。
5
大山正紀は女友達とカフェで向かい合っていた。彼女は世の中の理不尽に対する愚痴を喋り続けている。
正紀は聞き役に徹し、相槌を打ったり、同情や慰めの言葉を返したり、彼女のご機嫌取りに終始した。
不満の捌(は)け口にされている自覚はあったものの、文句を言ったりはしなかった。
一時間ほど経つと、彼女はすっきりしたらしく、「そろそろ行こ」とショルダーバッグを取り上げた。
正紀はテーブルに置かれた伝票を確認し、彼女と一緒にレジへ向かった。自分の分の代金──五百円を財布から取り出した。
彼女は伝票を一瞥(いちべつ)すると、わずかに眉を顰めた。
「高……」
彼女は店員の前でうんざりしたようなため息を漏らし、二千円と小銭を支払った。
二人でカフェを出ると、駅に向かって歩く道中、彼女は何かを思い出したように言った。
「そういえばあたし、いつも支払いで納得できないことがあるんだけどさ……」
不愉快そうな口ぶりだったので、正紀は警戒した。
割り勘にしておくべきだっただろうか。しかし、彼女が注文したのはパンケーキに抹茶パフェ、コーヒーだ。二千円分も食べている。割り勘では割に合わない。
だが──そういう話ではないようだった。
「女と一緒に食事に行ったら、男が奢(おご)るべきでしょ。その程度の気遣いもできない奴は一生童貞」
辛辣な言いざまについ反論の言葉が漏れた。
「いや、それはイーブンでしょ」
彼女が「は?」と顔を歪めた。「女は化粧したり、お洒落したり、そういう部分でお金がかかってんの。投資額が違うんだから、男が奢るのが当然でしょ」
漫画やアニメのヒロインなら決してそんな発言はしないのに──と思った。早く帰宅して“飯娘”の世界で癒されたい。
不機嫌の矛先が自分に向いても嫌なので、正紀は「正論!」と同意しておいた。
彼女は、ふん、と鼻を鳴らした。彼女の機嫌を損ねると、何週間もぐちぐちと恨み節を聞かされる。
正紀は話を変えようと話題を探し、ふと思い至った。
「そういや、部屋は見つかったの?」
彼女は一人暮らしするための部屋を探していた。一緒に不動産屋を訪ねたときは、話が纏まらなかった。その後、進展はあったのだろうか。
彼女はため息交じりに答えた。
「全然見つかんなくてさ……最悪」
「この前、結構いい部屋も紹介してもらってたけど、あれは?」
「あの不動産屋は駄目。三流だから」
「そうなの?」
「……事務所でお茶飲んだでしょ。覚えてる?」
真っ先に思い出したのは、スタイルがいいスカートスーツの美人の姿だった。
「ああ、美人のお茶は美味しかったな……」
しみじみ言うと、彼女は露骨に顔を顰(しか)め、舌を鳴らした。彼女の反応に正紀は困惑した。
「何か変なこと言った?」
「……時代錯誤じゃん。お茶を要求したとき、女性だけが立って、お茶淹れて」
「立場が一番下だったとかじゃない? 若かったし」
「何言ってんの。若い男はいたじゃん。男は全員座ったまま、腰を上げる気配もなかったし。昭和かよって。ああいう会社、駄目。受け付けない」
「そうかなあ……担当者は感じ良かったけどなあ」
「女性にお茶汲(く)みさせてる時点でアウト」
正紀はいまいち共感できず、首を捻(ひね)った。
「何?」
女友達の表情が一瞬で険しくなる。
「……いや、だってさ、おっさんの脂ぎった手で淹れられたお茶より、可愛い子の淹れたお茶のほうがいいじゃん」
「はあ? ありえない。何その差別。この際だから言わせてもらうけどさ、あんた、よく『嫁が──』とか言ってんじゃん。“嫁”なんて時代遅れの単語使ってる時点で、もう、あたしの中じゃ、あんたの知性は最低ランクに落ちてるから」
彼女は荒ぶるブルドッグのような顔で吐き捨てた。
──それくらい、普通に言うじゃん。
内心で反発が湧き起こった。
オタク趣味がある人間なら日常的に使っている単語を口にしただけで、他人の知性をナチュラルに見下せる人間性のほうが差別的ではないか、と思ったものの、反論は我慢した。
「もうあんたとは会わないから」
彼女は絶縁宣言をして歩き去った。
あまりに唐突な感情の爆発に、正紀は愕然(がくぜん)とした。
帰宅してからも彼女の動向が気になり、ベッドに腰掛けながらSNS(ツイツター)の“リア垢”──現実(リアル)の交友関係を築いているアカウント──を開いた。フォロー数もフォロワー数も一桁で、知り合いと芸能人数人をフォローしているだけだ。
彼女がさっそくツイートしていた。
『お茶は男より美人の女が淹れるべきだ、なんてクソ発言されて、リアルに絶縁考えてる。何だ、あいつ』
動揺し、心音が乱れはじめた。
相互フォローだから、互いのツイートが相手のタイムラインに表示されることは知っているくせに、悪意たっぷりに印象操作して悪口をつぶやいている。
いくら腹が立ったとしても、ありえない。あえて本人に見せて傷つけるための嫌みにしか見えない。
正紀はため息を漏らした。直接反論したら口論になるのが分かり切っている。だが、黙ったままだとストレスが溜まる。
それなら──。
正紀は、好きな漫画のキャラクターから名付けた『冬弥』という“趣味垢”に切り替えた。ハンドルネームだから気兼ねなく好き勝手にツイートできる。性癖丸出しのツイートでも何でも。
『おっさんと美人の女性なら、美人の淹れたお茶のほうが嬉しいし、美味しいと思うのが当たり前だと思うんだけど、女友達にそう言ったら、人間性を疑われて、差別だってキレられたあげく、相互フォローのリア垢で陰口叩かれた……陰険すぎて女怖い(震え声)』
愚痴を吐き出すと、少しすっきりした。気を取り直してスマートフォンのゲームで遊んだ。
ゲームに課金し、キャラクターカードを引いた。目当てのカードが出ず、いらいらしはじめたころだ。突如、スマートフォンの通知音が止まらなくなり、ゲームをまともにプレイできなくなった。
何事かと思いながら確認すると、四百件以上の通知があった。慌ててツイッターを開いた。
先ほどの愚痴ツイートがあっという間に三百八十も共有(リツイート)され、二十五件も返信(リプライ)があった。
戦々恐々としながらリプライに目を通してみた。
『考え方古すぎ! 昭和脳』
『女性蔑視 最低のクソ男じゃん』
『アニメが好きなら表に出てくんな』
『あなたの存在は女性を不幸にするので、現実の女性には一生関わらないでください』
『自分が非常識な女性蔑視発言をしたくせに、それを批判されたら、陰険すぎて女怖い、とか、馬鹿だろ。死ね!』
攻撃的な中傷が刃物となって胸をえぐっていく。動揺のあまり視野が狭まり、動悸がおさまらなかった。スマートフォンを握り締める手が震えていた。
一件一件読んでいるあいだにも、どんどんリツイートとリプライが増えていく。
どうやら、先ほどのツイートが声の大きい誰かに晒(さら)し上げられ、注目を浴びているようだった。
ツイッターの世界では、四桁、五桁──あるいはそれ以上のフォロワーを持つアカウントに目をつけられ、『こんな非常識な人間がいたぞ』と断罪するコメントと共に拡散されると、同調する者たちが怒りに駆られて次々リツイートし、“大炎上”するのだ。
まさに誹謗(ひぼう)中傷のゴーサイン──。
今、自分に起こっているのがそれだった。
パニックに陥り、頭の中がぐちゃぐちゃになりはじめた。炎上した人間が反応したら、それが“油”になるのは分かっていた。当時の会話の流れや、真意を説明しようとしても、感情的になった集団には保身の言いわけにしか見えないだろう。
謝罪すべきなのか、無視すべきなのか──。
娯楽のように罵詈雑言(ばりぞうごん)の石を投げつけてくる連中も、次の炎上事件が起きれば、そっちへ流れていく。それまで黙って耐え忍ぶのが最善かもしれない。
正紀はスマートフォンをスリープさせると、深呼吸し、室内を見回した。見慣れた自室だ。漫画本や、アニメのDVD、美少女キャラクターのタペストリーなど──趣味のコレクションであふれている。
現実──だ。
顔の見えない大勢から誹謗中傷を浴びている空間ではなく、誰からも危害を加えられない場所──。
だが、誰とも繋がりはない。
動悸が少しおさまってきても、スマートフォンの通知は一向に鳴りやまなかった。
気になって確認せずにはいられず、正紀はスマートフォンを取り上げた。暴れる心臓を押さえながら一呼吸し、スリープを解除した。
リア垢のほうにも数件の通知があった。
なぜ?
額に冷や汗が滲み出る。
数人にしかフォローされていない弱小アカウントだから、数日に一件程度しかリプライが来ない。それなのになぜ?
疑問符が頭の中を駆け回り、不安に押し潰されそうになった。震える親指で通知をタップする。
『冬弥って奴の本垢、こいつだろ?』
どうしてリア垢がバレたのだろう。ハッキングでもされたのではないか、と恐れおののいた。
だが、理由はすぐに分かった。愚痴のツイートが拡散されて元凶の女友達の目に入り、彼女から趣味垢の『冬弥』に『正紀だろ、お前。なに匿名であたしの悪口言ってんの?』とリプライがあったのだ。それを見た誰かが彼女のアカウントのフォロワーを調べ、『大山正紀』のアカウントを発見した。そして『冬弥』イコール『大山正紀』だと結びつけた──。
考えてみれば、職場やプライベートの場で受けた理不尽な体験をツイートして何千、何万もリツイートされると、知り合いの目に入る可能性がある。特定されて当然だ。そんな当たり前のことに気づかなかった。
今さら後悔しても遅い。知人や同僚が見たら内容で誰か気づくバズツイートを匿名アカウントでしている人間は、実は全て“作り話”をしているのかもしれない。そうでなかったら、すぐアカウントがバレてしまうだろう。
正紀は躊躇せず『大山正紀』名のリア垢を削除した。続けて『冬弥』名の趣味垢の設定をタップする。しかし、『アカウントを削除しますか』の問いに『削除する』は押せなかった。
リア垢に未練はないものの、趣味垢は違う。
匿名で運用していた趣味垢には、四年間の思い出が詰まっている。何千も“お気に入り”をした神絵師の美少女イラストも、共通の趣味を持つ仲間との会話も──。
ためらっているあいだにも誹謗中傷のリプライは増えていく。百、百五十、二百──。
『こいつ、ツイート調べたら、「幼女」とか「ロリ」とか、すげえ。現実でも事件起こすんじゃねえの?』
『社会に出てくんなよ』
『部屋に引きこもってろ』
『アカウント削除まで追い込め!』
『お前は差別主義者だ。お前が存在するかぎり、私たちはこの先お前を批判し続ける。覚悟しろ!』
『控えめに言って死んでほしい』
自分はここまで誹謗中傷されることをしたのだろうか。
人々の憎悪がそら恐ろしく、胃壁を無数の針で突き刺されているような激痛を覚えた。
東南アジアの一国で、不倫や同性愛行為をした者に対して、石を投げつけて死亡させる“石打ち刑”が執行されているというニュースを思い出した。
正紀は自分の胸を押さえた。
もし心に形があるなら、今は群衆から投げつけられる石つぶてでひび割れ、いたるところが欠けているだろう。
正紀は覚悟を決め、『削除する』をタップした。
一瞬でアカウントが削除された。三万以上のつぶやきも、四千五百の“お気に入り”の記録も、全て無に帰した。
あらゆる思い出が消え失せ、自分が“社会”から追い出された瞬間だった。
肉体的な暴力を伴わないいじめによる自殺事件が報道されると、みんな『言葉も暴力だ』『暴言による心の傷は、体の傷と違って治らない』と声高に怒りを叫ぶのに、同じ口でなぜ“暴力”を振るうのか。
いじめでも、叱られた加害者たちは色んな理由を口にする。あいつが悪いんだ、あいつに原因があるんだ、と──。
顔が嫌い。
喋り方がキモい。
誘いを断った。
人気の男子と仲良くしている。
根暗。
オタク。
気に食わない発言をした。
第三者から見たら理不尽な理由でも、いじめの加害者は、それが相手を攻撃し、排除する正当な理由だと信じている。リアルな社会で行えば、いじめの加害者として処罰される言動でも、SNSの中では問題視されない。
趣味のコレクションに囲まれている部屋が急に色褪(いろあ)せて見えた。
ふいに涙がボロボロとあふれはじめた。
社会との唯一の繋がりを失った。
インターネットの世界だけが全てで、人との繋がりを実感できた。リアルな世界では他人とうまくコミュニケーションが取れず、常に疎外感を覚えていた。
これからどうすればいいのか。
正紀は外に出た。
ふらふらとぶらつくうち、以前にも来たことがある公園に着いた。保育園児たちが笑顔で元気よく遊んでいた。
正紀は誘われるように公園に踏み入った。
◇ ◇ ◇
プレゼント情報
全国の大山正紀さん&同姓同名さんに書籍『同姓同名』をプレゼント中!
詳しくは「同姓同名被害者の会」のサイトをご覧ください。