モンスター患者を相手に…現役医師が描く感動のヒューマンミステリ #2 ディア・ペイシェント 絆のカルテ
内科医の千晶は、日々、押し寄せる患者の診察に追われていた。そんな千晶の前に、嫌がらせをくり返す患者・座間が現れる。彼らのクレームに疲幣していく千晶の心のよりどころは、先輩医師の陽子。しかし彼女は、大きな医療訴訟を抱えていて……。現役医師、南杏子さんの『ディア・ペイシェント 絆のカルテ』は、現代日本の医療界の現実をえぐりながら、医師たちの成長と挫折をつづったヒューマンミステリ。その一部を抜粋してお届けします。
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ひどい言い方だが、外来患者には上中下、いやS・M・Lがあるという。この病院に来て教えられたことだ。
Sとは、「スムーズ」のS。要領よく病状を伝えてくれて、こちらの説明もすぐに理解してくれる患者。
Mは、「まだるっこしい」のM。病状説明の手際が良いと言えず、世話の焼ける患者だ。たとえば、いつ熱が出たかとか、どんな薬を飲んでいるかとか、聞かれて当然なことを、いちいち首をひねったり、答えられなかったりする。また、処方した薬をきちんと飲まなかったり、勝手に中止したりするのもこのタイプに入る。それでも悪気はないはず――と千晶は思う。
問題はLだ。Lとは「Low pressure」のL。雨や風をもたらす低気圧の意味だ。来院した瞬間から災厄を振りまく台風そのものといったタイプの患者もいれば、知らぬ間に急速な発達をとげて、気づいたときには手に負えないほどに成長するケースもある。最初から「何かあれば訴えてやる」と身構えている患者もこのタイプだ。
初めてS・M・Lの分類を聞かされたときは、患者を侮辱していると感じた。けれど、この半年間を経てそう考えたくもなる医師の気持ちも分かってきた。
医療訴訟の件数は、全国で年間約千件にのぼる。すべてのケースは患者や家族らによって提起されたものだ。裁判には長い時間がかかり、毎年何千人もの医師たちが診療の場を離れて被告席に座らされる。S・M・Lは、その計りしれないリスクを警戒した医師たちによって作られた分類なのだ。
千晶は静かに目を閉じた。今朝も、もう引き返すことはできない。
「――じゃあ、外来始めるね。ちょっとフライング気味だけど」
少しでも早く外来をスタートさせれば、診察時間を長くとることができる。診察開始の三分前だったが、千晶は患者を呼び入れた。
「調子はいかがですか?」
「先生、今日は悪いのよお」
最初の患者は、六十八歳の浅沼知恵子だった。高血圧と高コレステロール血症のため、佐々井記念病院に通院中だ。現在は降圧剤と、スタチンと呼ばれるコレステロール値を下げる薬、それに便秘薬を処方されていた。
調子が悪いと言って始まるのは、毎度のこと。話を聞き出すのに時間はかかるが、かわいらしいものだ。例の分類で言えば、「Mの上」といったところか。
「どんなふうに悪いんですか?」
知恵子は、待ってましたとばかりに両手を差し出した。
「ほら、指がむくんでる」
千晶は、知恵子の手を取って診察に入った。圧痕は付かず、皮下組織に異常な水分がたまっているような所見はない。
目の下の皮膚を少し下げて結膜の色をチェックし、口の中も観察した。喉にある甲状腺を触診しても問題は見つからない。
続いて聴診に移る。
「では、胸の音を聞かせていただきますね」
胸に聴診器を当てる力を加減しながら、チェストピースを移動させる。千晶の持っている膜型聴診器は、チェストピースをそっと当てると低音成分が、ぴったり押し付けると高音成分がそれぞれ聞き取りやすくなる。
エンジニアが精密機械を点検する際、特に目を向ける部分が決まっているように、心雑音でも、チェックすべき部位が四か所ある。それは肋骨と肋骨の間のくぼみで、上から順に番号が振られてマッピングされ、第二肋間胸骨右縁、第二肋間胸骨左縁、第四肋間胸骨左縁という名前がついている。四か所目は、心尖部と呼ばれる左乳頭の下あたりだ。四か所のどこで異常音が聞こえるかにより、病気の種類が異なる。だが、知恵子の胸の音は問題なかった。
肺の聴診に進む。
「何回か深呼吸を繰り返してください」
肺を上から下へ――上肺野、中肺野、下肺野の別を意識しながら左右交互に聞いてゆく。胸側が終われば背側も。肺の部位や、吸気と呼気のどちらのタイミングで雑音が聞こえるかによって、やはり疑われる病気が違ってくる。ただ、これも問題はない。
知恵子に横になってもらい、腹部の診察を行う。まずはそっとチェストピースを当て、臍の周辺を何か所か移動させた。腸の動きを示す蠕動音が正常か、どこか閉塞しているような狭窄音がないか、あるいは動きが乏しくはないかに注意を傾ける。
今度は腹の触診だ。痛みの有無をチェックする。問題なし。背後から腎臓の部位を軽く叩いて痛みの有無を確認したが、ここも異常は見つからない。さらに脛骨の上を押しても、浮腫を示す異常所見はなかった。
こうした一連の診察動作の最中に千晶は、もうひとつ別の感覚を研ぎ澄ましていた。
それは、気配だ。
病人には特有の気配がある。風邪や皮膚病など、見た目や症状が分かりやすい疾患では感じるまでもない。だが、心不全、肝疾患、腎臓病、癌といった外からは分かりにくい病気でも、ふっと気配を覚えるときがある。
目の前の知恵子には、診察所見はもちろん、何の気配も得られなかった。
「胸やお腹にも異常はありませんし、心配なさそうです。少し様子を見ましょう。ところで、塩分を摂りすぎていませんか?」
知恵子の血圧だけは気になった。このところ少しずつ上がってきている。
「やだ先生、疑ってるの? ちゃんと減塩醬油にしてますよ」
患者が突然、不快そうな顔になる。毎回尋ねられて、うんざりしているのだろう。だが、確かめない訳にはいかない。
「お蕎麦のつゆは、どうされてますか?」
「もちろん蕎麦湯で薄めて、薄味で飲んでるわよ」
知恵子は、得意そうに小鼻を膨らませた。
「いくら薄めても、全部飲んでしまえばたくさん摂ったのと同じことですよね」
「どういう意味?」
知恵子が目を大きく広げた。時計を見た。もう三分経っている。そろそろ締めにかからなければ、三分半で終われない。
「トータルの塩分摂取量を減らしてほしいのです。味噌汁やラーメンのスープ、ひと月でいいですから控えてみませんか」
「ラーメンの汁はやめるけど、味噌汁も? 味噌って発酵食品で、体にいいってテレビで言ってたわよ?」
千晶に対する疑念がヒートアップしつつある。ここは引き下がることにした。
「では、お味噌汁の方は、できる限りということにしましょう。血圧の薬は続けてくださいね。また一か月後に……」
カルテを閉じようとしたとき、知恵子が改まった声を出した。
「たまには血液検査をしてくださいませんか?」
「検査したばかりです。特に異常はなかったですよ」
患者は、きょとんとした表情になった。
「いつ検査したかしら?」
「先々週、ほら、こちらのデータをお見せして、同じものを持って帰ってもらいましたが」
「あらいやだ、忘れてた」
退室を促すタイミングだ。「では、お大事に」と言いかけたところで、知恵子が目の前に両手を突き出した。
「そうだ先生。この頃、指にむくみがあるんですけれど……」
初めと同じ主訴が繰り返された。短期記憶障害か。千晶は認知症を疑った。
「ええと、浅沼さんはおいくつでしたっけ?」
「歳は……たくさん! 嫌なことは、忘れることにしてるから」
知恵子は含み笑いをしつつ目を逸らした。時間がオーバーするが仕方ない、本格的に認知症の検査をしなくては。千晶は、デスクの引き出しから認知症の検査シート「長谷川式簡易知能評価スケール」を取り出した。
「浅沼さん、これは検査ですから、頑張って答えてくださいね。今日は平成何年か、覚えていますか?」
三分半での診察終了は絶望的だ。他の患者で時間を短縮できればいいけれど。
「平成? 平成十……」
平成二十年代に入ってから、九年が過ぎている。
「では、何月何日か、分かります?」
「今朝は忙しくて、ニュースを見る暇がなかったから……」
言い繕う言葉はすぐに出てくる。これも認知症でよく見られる症状、取り繕い現象だ。
「ここは、どういうところか分かりますか?」
患者は急に険しい表情になった。
「分かってますよ! 先生は認知症を疑ってるみたいですけど、ありえません。今朝だって、ちゃんと家から車を運転してこられたし。メルセデスですよ、メルセデス。なのに、こんな失礼な先生とは思いませんでした。もう、結構です」
知恵子は、顔を真っ赤にして立ち上がった。千晶は、検査シートに「拒否のため中止」と記入しつつ、声をかけた。
「次の受診では、ご家族も一緒に来てもらえませんか?」
「マー君を巻き込まないで! 感受性が強い子なんだから。あの子には、あの子の生活があるの!」
カルテの「家族関係」の欄を見ると、結婚していない四十歳の息子と二人暮らしだった。
知恵子の認知症が進めば、いずれ息子の生活はおびやかされ、どこか医療機関にかからざるを得なくなるだろう。できれば、その前に家族とコンタクトを取れればいいのだが。
それにしても知恵子の最初の印象は「Mの上」、そんなに悪い人ではなかった。認知症のせいだろうか。あるいは、自分がもっと別の言い方をすればよかったのか。
知恵子がものすごい勢いで閉めたドアは、まだ小さく震えていた。
それをぼんやりと見ながら、実家の診療所ならドアが壊れていただろうなどと考える。いや、落ち込んでいる暇はなかった。最初の患者は、まだ一日の始まりに過ぎないのだから。
看護師は無表情で、次の患者のカルテを千晶に差し出した。
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