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#3 謎の美女、現る…藤原竜也、竹内涼真主演で映画化決定!

謀略、疑念、野心、裏切り、そして迫るタイムリミット。それぞれの思惑が水面下で絡み合う、息詰まる情報戦の末に、巨万の富を得るのは誰か……。『パレード』『悪人』『怒り』などで知られる芥川賞作家、吉田修一さんによるスパイ小説『太陽は動かない』。藤原竜也さん、竹内涼真さんのダブル主演で、2021年8月5日に映画が公開されます。それを記念して、原作の「ためし読み」をお届けします。読んでから観るもよし、観てから読むのもよし!

*   *   *

二人が話そうとしているのは、南シナ海の油田に関するベトナム政府の発表のことだった。すでに開発済みのバックホウ油田、ランドン油田、現在開発中のフンドン油田に続き、第四の油田が見つかったという噂が囁かれ始めたのは三年ほど前からで、現存する油田の生産状況から推察される新油田の規模はこれら三つを合わせたぐらいのものになるという情報もある。

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「こっちで『CNOX』(中国海洋石油)の連中を見たか?」

少し声を落としたホワイトの質問に、キムが、「いえ」と首を振る。

「……前回のフンドンでも弾かれた中国がこのままベトナムを諦めるとも思えないがな」

「実際問題CNOXがこの案件で動いている形跡は全くないですね。ただ、CNOXの連中の代わりに、ほら」

キムが氷像の裏にいる香港トラスト銀行のアンディ・黄に目を向ける。

「いや、アンディ・黄も今回は関わらないらしい」とホワイトが首を横に振る。

「アンディ・黄もCNOXも関わらないとなると、中国勢はベトナムの油田に関心がない?」

「不思議だろ?」

「不思議どころか、逆に怪しいですよ」

「油田以上の儲け話があるってのか?」

「まさか、油田ですよ。それも自国に近い巨大な油田です。そこに中国が手を出さないはずがない」

鷹野は話を続ける二人から少し離れた。話の内容はすでに鷹野の知っていることで目新しいものはない。ちょうど通りかかったボーイのトレーからシャンパンを一つ手に取ると、アンディ・黄の隣にいる女に目を向ける。女の白い胸に輝いているのは、おそらく数千万円はするダイヤで、会場中の照明を集めたようにきらめいている。そのスタイルや身のこなし、化粧の仕方から大陸の女のようにも見えるが、もしかするとアメリカかヨーロッパ生まれの香港人なのかもしれない。

鷹野はシャンパングラスに口をつけながら、何気なく氷像に近づいた。遠目には太陽に見えたが、氷像はベトナム椿を象ったもので、会場内の熱気ですでに花びらの部分が溶け始めている。もちろんホテル内の冷房は完璧なのだが、南国の夜であることに変わりはなく、タキシードの中、鷹野の背中も汗で濡れている。

鷹野は指で氷像に触れてみた。冷たさが全身に伝わり、一瞬、背中の汗が引いたように感じる。触れた部分の氷が溶け、指先から滴が垂れてくる。

CNOX。中国の国営総合エネルギー巨大企業。

鷹野は心の中で呟いた。キムとミスター・ホワイトは当たり障りのない言葉で話していたが、この時期にCNOXの関係者が一人もホーチミンに来ていないことは尋常ではない。当初CNOXの主な生産地は中国国内の渤海沿岸だったが、現在では珠江河口沖合、海南島周辺と、確実に南シナ海に手を伸ばしており、ベトナムのランドンなど既存の油田に関しては、その当時アメリカ進出を目論んでいた経緯もあって、すっかり出遅れてしまったが、それならば尚さら今回の案件には真っ先に名乗りを上げてくると考えられていた。

当然ベトナム政府としては、開発後の客としても有望な中国と組みたいのは山々で、となれば、アメリカ進出を諦めたあと、アフリカに目を向け、ナイジェリアや赤道ギニアなどの国で大きな成功を収めているCNOXと、香港トラスト銀行という香港資本の巨大な後ろ盾のあるアンディ・黄が組み、アメリカや日本、韓国各国がそこについてもらう形が、ベトナムにとって最も有利に開発を進める道筋になるはずだ。

しかし今現在CNOX、アンディ・黄と、その両者の顔が全く見えてこない。

CNOXに関しては、最近も日中で共同開発に向けた合意文書の締結交渉を進めることで合意していた東シナ海の白樺ガス田で、幹部が独断で「すでに生産段階にある」とコメントを出し、その後、中国政府が慌てて取り消すという事態が起こって以来、一企業であるCNOXと中国政府の亀裂は広がっており、これまでのような中央政府の動きだけを見ていればよいという時代は終わっている。

この流れはCNOXだけに留まらず、他の中国大手企業グループ(特に沿岸部)と中央政府との間でも顕著に見られる。簡単に言ってしまえば、中国の企業が私利私欲に走り始め、中央政府の規律を守らなくなってきた証拠だが、そこにアメリカや日本などからの資金が流れ込み、ますます中国企業の中央政府離れを推し進めている。

とにかくCNOXは今回のベトナムに参加する様子がない。とすれば、膠着状態の東シナ海に全力を注ぎ、いよいよ本格的に生産を始めるつもりなのだろうか。一方のアンディ・黄はこの油田に手を出さず、いったい何を狙っているのか。油田よりも魅力的なものなどあるだろうか。

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ずっと氷に触れていた指先の感覚がなくなっていた。鷹野が顔を上げると、氷像の向こうに黒いドレスを着た例の女が立っており、じっと鷹野の指先を見ている。

「日本の方?」

先に声をかけてきたのは女で、流暢な日本語だった。鷹野は、「ええ」と頷いた。

「この氷の彫刻がシャンパンでできてたらいいのにって思わない?」

クープのシャンパングラスを揺らしながら、女が唐突に言う。

「シャンパン、お好きなんですか?」と鷹野は訊いた。

「シャンパンを嫌いな女に会ったことあるの?」

鷹野は「いえ」と否定した。

「そう、良かった。そんなに女運の悪い男なのかって心配しちゃった」

ずっと女の横にいた香港トラスト銀行のアンディ・黄は、いつの間にか米国大使を囲む輪に入り、賑やかな笑い声を上げている。

「ホーチミンにお住まいなんですか? それとも香港?」と鷹野は尋ねた。

鷹野を真似して氷像に触れていた女が、「あなたは?」と訊き返してくる。

「東京です。ただアジア各地を飛び回ってますけど」

「そう。じゃ、私も似たようなものよ」

鷹野はじっと女を見つめた。

「何?」

「いえ、日本の方だったんですね?」

「どうして?」

「そう見えなかったから」

「メイクのせいじゃない? 日本の女はこういうパーティーでグレー系のメイクをしないから」

女が人差し指で自分の目元をクルクルと指し示す。

言われてみれば、きつい印象を与えるメイクだった。だがそのせいで一段と会場内での彼女の地位を高めている。

「ねぇ、さっき話してた人も日本の方?」

女が鷹野の背後に目を向ける。振り返るとまだホワイトと話し込んでいるキムの姿がある。

「いえ、彼は韓国人ですよ」と鷹野は応えた。

「そう」

「……興味あります?」

「さぁ、どうかな。……どんな人?」

「どんな……。まぁ、ミスター黄と違って、しがないサラリーマンなのは間違いないですね」

鷹野の言葉を無表情で聞いた女が、「そう。残念」と本気とも冗談とも取れる舌打ちをする。

女の携帯が鳴ったのはその時で、小さなパーティーバッグから携帯と一緒に名刺を一枚取り出し、先に鷹野に渡してから電話に出る。誰かに頼んでいたフライトの予約が完了したことを知らせる電話のようだったが、いつどこへ向かう便なのかは分からない。じっと見つめている鷹野に微笑みかけた女は、携帯を耳に当てたまま会場入口の方へ歩いていく。

鷹野は手にした名刺を見た。「AYAKO」という名前と携帯の番号だけしか書かれてない。視線を名刺から会場入口の方へ戻したが、すでに女の姿はなかった。鷹野は名刺に書かれた番号を記憶した。

キムを探すと、すでにホワイトと別れ、ベトナム企業ペタンと資本提携している韓国企業の幹部と話している。

鷹野はキムの背後に近寄り、二人の会話が終わるのを待ってから声をかけた。振り向いたキムが、「お前には無理だよ」と唐突に笑う。AYAKOと話していたところを見ていたらしい。

「俺、そろそろ帰るよ」と鷹野は言った。

「もう帰るのか?」

「最後までいれば、天井から金でも降ってくるのか?」

鷹野の言葉にキムが鼻で笑う。

キムの肩をポンと叩き、立ち去ろうとして鷹野は足を止めた。

「あ、そうだ。たまには女でも紹介してやろうか? まぁ、不自由してるとも思わないけどな」

「さっきラウンジにいた日本人観光客の女たちなら結構」

「なんで? お前のこと韓流スターみたいだって言ってたぞ」

「日本の女の子は好きだけど、グループでいると、みんな石みたいに固いんだよ。日本の女の子は目の前の男より女同士の友情だろ?」

鷹野は手にしていた名刺を差し出した。

「何者だ?」

キムが名刺には触れずに尋ねてくる。鷹野は何も応えずにAYAKOの名刺をキムの胸ポケットに入れた。

「あ、そうそう。彼女、シャンパンが嫌いみたいだぞ」

「へぇ、珍しいな」

「ただ、嫌な男を目の前にすると、俄然シャンパンが飲みたくなるらしいよ」

ポケットから出した名刺を見つめるキムを残して、鷹野はパーティー会場をあとにした。