人生は痛みによってそれらしくなっていく…30歳になった同級生4人の物語 #5 世界のすべてのさよなら
会社員としてまっとうに人生を切り拓こうとする悠。ダメ男に振り回されてばかりの翠。画家としての道を黙々と突き進む竜平。体を壊して人生の休み時間中の瑛一。悠の結婚をきっかけに、それぞれに変化が訪れる……。『世界のすべてのさよなら』は、芥川賞候補に選ばれ、ドラマ化もされた『野ブタ。をプロデュース』で知られる白岩玄さんの新境地ともいえる作品。その中から、第2章「翠」のためし読みをお届けします。
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「これ、私からのプレゼント」
その一言だけ言うと、踵を返して出入口へと歩いていく。顔見知りの常連さんにお邪魔しましたと会釈をし、再びエレベーターに乗り込んでボタンを連打し、扉を閉めた。なかなかの奇天烈な行動だったぜ、と己のしたことに満足感が湧いてくる。自分でもうまく説明できなかったが、あえて言語化するならば、人の機微を理解しない若造に女心を教えてやったような気分だった。
雑居ビルを出て人通りのない道を歩き出すと、「おい翠!」と後ろから呼び止める声がした。巧は私が置いていった土産物を持ってきていた。怒っているのが表情から読み取れる。
「なんやねん、これ。つーか何しに来たん」
私は女心を教えただけだ。答えずに巧を見ていると、目の前に立っている若い男があらためて自分のタイプであることを実感した。背が高く、痩せ型で猫背。何もしなくても自然と色気が匂い立つようなところがあり、飾らない格好、たとえばパーカーを着せてフードをかぶらせると恐ろしく似合う。こんないい男とはもう二度と付き合えないんじゃないかと思うと惜しくなったが、行き止まりだとわかっている道をこのまま進み続けるわけにはいかなかった。
「ねぇ、巧は私のこと好き? 私と結婚する気ある?」
「は? またその話? それについては明日話そうって言ったやん」
「今答えてほしいの。その気がないなら別れたいから」
今までうやむやにしてきた一線を私が越えてきたことに、巧はうろたえたようだった。実際に越えてみると、なんてあっけないんだろうと拍子抜けしてしまう。巧の大きな体が、急に小さくて頼りないものに見えた。この人には私と一緒に生きていこうという覚悟がない。私といるのが楽だから、得をすることが多いから、彼女として手元に置いているだけだ。
ふつふつと怒りが込み上げてきて、私は足を踏み出すと、巧の前まで歩いていった。上半身を反らせた巧から、彼が持っていた手巻きたばこを半ば強引にひったくる。そこには鈍い痛みがあったが、悲しみの中でようやく自分を取り戻したような、まっとうさも感じていた。私が思い出していたのは、例の映画のラストシーンだ。
主人公の男は恋人と一緒に住むことになったと嘘をついて愛する友人のもとから去る。荷物をまとめて家を出るとき、共に出ていくボーダーコリーが男の顔をじっと見上げる。犬はすべてをわかっているのか、男の選択を憂えているように見える。
「Don't be sad(そんな寂しい顔するなよ)」と彼は犬の頭をなでながら言う。「人生は痛みによってそれらしくなっていくんだよ」
玄関のドアが開いて瑛一が顔を出したとき、ようやく自分の家に帰ってきたような感じがした。三十歳での失恋と新幹線による長距離移動のダブルパンチで体が鉛のように重い。最後の力を振り絞るようにして家に上がり、すがりつくような思いで食卓の椅子にどうにか座った。
はぁ、と大きな息を吐いて背もたれにもたれると、頑張って人間に化けていたスライム状の生き物みたいに、そのまま溶けていきそうだ。瑛一は何も言わずに熱いお茶を出してくれた。湯呑みからほんのりと上がっている湯気を虚ろな目で見つめてしまう。
「別れてきた」
向かいに座った瑛一は、一拍間を置いたあとで「そっか」と言っただけだった。おおげさな反応は一切しない。でもその柔らかい受け止め方が、いつも私の気持ちを楽にしてきた。
「次ができるまでキープしとけってささやく自分もいたんだけどね。私はあんまり器用じゃないから」
舌を火傷しないように注意しながら湯呑みのお茶を一口すする。そうは言ってみたものの、後悔している自分もいた。付き合ってまだ一年も経っていないのだから、ゆっくりと時間をかけて関係性を育んでいってもよかったはずなのだ。人は変わるかもしれないし、何か特別なことが起こって巧は私を愛してくれるようになるかもしれない。……いや、そういう「好き」を言い訳にした、七夕の短冊に願い事を書いているような希望的観測が、私を三十まで独りにしてきた。
「ねぇ、瑛一」
「ん?」
「ちょっと処分してほしいものがあるんだけど」
私は隣の椅子に置いていた自分のバッグのファスナーを開けると、中からビニール袋に入った大量の手巻きたばこを取り出した。別れたことを報告しても驚かなかった瑛一が、これにはちょっとぎょっとしている。手巻きたばこが好きな人だったのだと私は瑛一に説明した。いろんな種類のシャグや巻紙をプレゼントとして買ったのだが、なんだか自分ばかり尽くしているような気がしたので、全部巻いて無駄にしてやったのだと私は言った。
「でもなんでわざわざ持って帰ってきたの?」
「いや、最初は彼にあげようと思ったんだけどね、なんかこんなのを置き土産にして相手の記憶に残りたくなかったのよ」
瑛一が納得したのか笑っている。自分で言うのもなんだけど、私らしい行動だったと思う。普段我慢することが多いからこそ、爆発するとこういう訳のわからないことをしてしまうのだ。「でも面白いよ。僕はすごく好きだけど」と瑛一は私を支持してくれた。その一言にちょっとだけ救われる。
「こっちで処分するのは簡単だけど、預かっていいの?」
「うん……あ、待って。瑛一ってたばこ吸えるっけ?」
大学時代に少し吸っていたと言うので、私はビニール袋の結び目を解いた。大量に入っている手巻きたばこから一本選ぶよう瑛一に言い、自分も袋に手を突っ込む。かさかさした紙の感触が肌に触れて気持ちよかった。どんな味かは吸ってからのお楽しみなのがおみくじみたいで面白い。
「お別れの儀式。付き合ってくれる?」
瑛一は自分の部屋から灰皿を探してきてくれた。私も二十歳ぐらいの頃、彼氏の影響でちょっとだけ吸っていたことがあったので、ライターでたばこに火を点けると懐かしさでいっぱいになる。巧の言っていた通り、手巻きたばこは既製品のたばこよりもおいしかった。たまたま私が当たったのがそうだったのかもしれないが、苦みが少なく、煙もまろやかで後味がすっきりしている。
「思ったより旨いね」
私は無言でうなずいた。意外と涙は出ないものだな、と冷静な頭で思う。でも言うまでもなく悲しみはこの胸の中にあった。これから当分この行き場のない悲しみと暮らしていくのかと思うと今から気が重くなる。
「ねぇ、翠。答えたくなかったら答えなくていいんだけどさ」
「何?」
「今回別れたのって、悠の結婚のことも、二割くらいは影響してるの?」
私はびっくりして瑛一の顔を見た。
「どうしてわかったの?」
「いや、翠が悠のことを昔好きだったのは知ってるからさ、今は未練がないとはいえ、そういう人が結婚して、自分が将来の見えない相手と付き合ってると不安になるんじゃないかと思ったから」
瑛一にいろいろと相談するのが楽なのは、私が表に出さないことを彼が大抵察しているからなのかもしれない。もうこの際隠さずに明かしてしまおうと、このあいだ悠に言われたことを話した。俺らにはそれが必要なんだよ。共に人生を生きていく覚悟を感じさせる言葉を、私も誰かから言われたかった。
「変に刺さるっていうか、人の心に無意識に入ってきて杭を打ち込んでいくようなところあるよね。あいつのそういうとこ嫌い」
瑛一は付き合いが長いからこその理解を示して笑った。
「わかる気がする」
気がつくと自分の気持ちになんとなく区切りがついていた。たばこも短くなっていたので、最後の一口を吸ってから火種を灰皿に押し付ける。それを見た瑛一が同じように灰皿に手を伸ばした。頼りなく立ちのぼっていた煙が消え、痛みは変わらずそこにあっても、静かで居心地のいい沈黙が体に染み渡っていく。
「ありがと。瑛一がいなかったら、私、とっくにつぶれてる」
「そっか。つぶれなくて何よりだよ」
自分と真剣に生きてくれる人がいなくても、限りなくそれに近いくらい私のことを受け入れてくれる人がいてよかった。瑛一との友情がずっと続けばいいなと思う。瑛一は悩みを口にしないから多少一方的な関係ではあるけれど、彼が困ることがあったら私は全力で助けたいし、できる限りのことをしてあげたい。
「ビールでも飲む?」
そう訊いた瑛一が椅子から立ち上がったので、私は「うん」とうなずいた。ずっと閉じられていた栓が開いたみたいに、急に喉が渇いてビールが飲みたくなってくる。本当に欲しかったものはそれだったのかもしれないと思ったほどだった。
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