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あの女は去った、はずだが?…映画『死刑にいたる病』で注目の作家、櫛木理宇さんが放つサイコ・サスペンス #2 残酷依存症

大ヒット上映中のサイコ・サスペンス映画『死刑にいたる病』。みなさんはもうご覧になりましたか? 連続殺人鬼役の阿部サダヲさんの怪演が脚光を浴びる一方、原作者である櫛木理宇さんにも熱い注目が集まっています。

そんな櫛木さんが放つ、話題の近刊『残酷依存症』。何者かに監禁されたサークル仲間の3人。犯人は彼らの友情を試すかのような指令を次々とくだす。おたがいの家族構成を話せ、爪をはがせ、目を潰せ。要求はしだいにエスカレートし、リーダー格の航平、金持ちでイケメンの匠、お調子者の渉太の関係性に変化が起きる。さらに葬ったはずの罪が暴かれていき……。

『死刑にいたる病』にも匹敵する、残酷でスリリングな展開。あなたは読み勧めることができるでしょうか?

*  *  *

「えー、ではお手もとの資料をご覧ください」

ようやく事件概要の説明だ。あちこちから、紙をめくる音がした。

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「被害者の身元は所持品から割れました。正確には同林道に落ちていたバッグと、散乱していたその内容物からです。バッグはルイ・ヴィトンの黒革。財布はグッチ。財布には順徳大学の学生証、健康保険証、銀行のキャッシュカード二枚、R社とJ社のクレジットカードが各一枚、一万円札が二枚、千円札が四枚入っていました。またプラチナのピアスと、ダイヤのネックレスは装着されたままでした」

――では、物盗りではあり得ない。

高比良は腕組みした。

たとえ強姦目当てで襲ったとしても、犯人の多くは「もののついで」とばかりに所持金や貴金属を奪っていくものだ。とくにこの被害者は、いい身なりをしていたのだから尚さらである。万札までそのままというケースは非常にまれであった。

「えー、財布以外の所持品としては、本人名義のスマートフォン、化粧ポーチなどが見つかっています」

捜査課長は言った。

「また発見された時点で、被害者は上半身にブラジャーと濃緑色の七分袖ニットを着けていました。下半身には着衣なし。下着ならびにスカートやストッキングなどは、周囲に見当たりませんでした。では資料の二枚目をご覧ください」

全員が資料をめくった。

「正確な死因は正式な死体検案書を待たねばなりません。しかし鑑識課員によれば『おそらく死因は心不全』とのことです」

「心不全?」

声を上げたのは青梅署長だった。

「はい」捜査課長がうなずく。

「現時点で推定できる死因の筆頭はそれです。次いで可能性が高い死因は、頭蓋骨の骨折具合から見て脳挫傷および硬膜下出血。しかし外傷性ショックによる心不全のほうが、確率的に高いだろうとのことでした。つまり被害者は、長時間にわたる激しい殴打によって撲殺されたのです」

室内に、いわく言いがたい沈黙が落ちた。

捜査課長はつづけた。

「死亡推定時刻は、直腸内温度からして十二日の午前五時から九時の間。腹部と腿、顔面などに大きな内出血。確認できるだけで頭蓋骨、顎骨、鼻骨、頬骨、眼底骨が砕け、肋骨、尺骨、骨盤、腓骨などが折れていました。また右眼球が破裂。左耳殻が断裂。前歯のほとんどが砕け、破片のいくつかは歯茎や上顎に突き刺さっていました。また殴打により内臓のいくつかが破裂したらしく、腹部は一・三倍ほどに膨れあがっていました。顔面も同じく腫れ、人相の判別は困難でしたが、ほくろの位置と盲腸手術の痕により、母親が本人と確認いたしました」

「それで、心不全か」

署長が呻くように言う。

捜査課長は答えた。

「そうです。――おそらく被害者の心臓は、殴打に耐えられなかったのです」

冷静だった彼の声音に、わずかに苦渋が滲んだ。

咳払いし、捜査課長は言葉を継いだ。

「なお性的暴行の痕跡は、いまのところ確認できていません。膣、肛門ともに擦過傷および裂傷なし。精液の検出なし。ほか唾液、血液なども検出されていません」

室内に低いざわめきが起こった。

――これほどの暴行を加えながら、強姦していないのか。

という驚きの声であった。

若い女、しかも美しい女が殺された場合は、七割強が性犯罪と言っていい。強姦目当て。ストーカー。痴漢や下着泥棒を見とがめられて抵抗され、逆上した等々だ。そして残りの三割が、感情のもつれによる怨恨である。

――手口の凶悪さからして、怨恨なのは疑いなさそうだが……。

なかば無意識に、高比良は己の首をさすっていた。大なり小なりうろたえたときの癖だ。いま一度、生前の木戸紗綾の写真に目を落とす。

――こんな子が、わずか二十歳で他人から激しい恨みを買うとはな。

いや、と思いなおし、彼は内心でかぶりを振った。

いや違う。被害者側の問題ではない。

社会的精神病質者は、あらゆる身勝手な理屈を付けて相手を非難する。彼らは自己愛のかたまりだ。自分のちっぽけなプライドを守るためだけに、全精力を傾けてターゲットを追いこむ。

一般人が彼らに対抗できるすべは、ほぼない。逃げるほかない。悲しいかな、ソシオパスには“目を付けられた時点で負け”なのだ。

――なあ。きみはどこで、そんな相手と知り合った?

高比良は木戸紗綾の写真に語りかけた。

――いったいどこで、そんな不運とぶつかったんだ?

彼の脳裏に浮かんできたのは、かつて出会った被害者たちの顔であった。小湊美玖。平瀬洸太郎。奥寺あおい。

そして、浦杉善弥。

同時に、荒川署の刑事部長であった浦杉克嗣の顔が眼裏に浮かんだ。

いまは警察官ではなくなった男の顔だ。

そう、あの事件からほどなくして、浦杉は警察を辞めた。別居中だった家族のもとへ戻った、とも耳にした。公私ともに、彼は平安を手に入れたはずだ。

しかし高比良はなぜか、それを手ばなしには喜べなかった。

さいわい浦杉の娘である架乃は、あの事件において無傷で救出された。被害者を救えなかったことや、真犯人を逃がしてしまったことは確かに無念だ。しかし架乃を救えただけでも、奇跡と言っていい事件であった。

――浦杉さんはあの事件を通じて、妻子の信頼を取りもどしたらしい。

それだけでも僥倖と思うべきだ。

頭ではそう思うのに、感情がうまく付いていかなかった。

心の底が濁って淀むような、犯人の名と存在を知った者すべてがどす黒く汚染されたような、そんな事件だった。

――いけない。集中しないと。

高比良は眉間をきつくつまんだ。

いまは『青梅九ヶ谷林道女子大生殺害・死体遺棄事件』に集中しなくてはいけない。

あの女は去った。

あれから丸一年が経ったが、音沙汰は絶えている。おそらく国外に逃亡済みだろうと、おおかたの捜査員は睨んでいた。

捜査課長の声がつづく。

「……えー、現時点で被害者の木戸紗綾が、最後に目撃されたのは十日の午後四時、大学構内においてです。『現代社会保障論』の受講を終え、大学構内の女子トイレで化粧直しを済ませたのち、同駐車場に向かって歩く姿を最後に、行方を絶っています」

壇上で彼は顔を上げた。

「スマートフォンの履歴や、遺体発見現場で採取された微物については、現在解析および分析中。中毒物においても同様です。なにか質問はありますか?」

答えはなかった。

捜査課長は資料を閉じ、机を軽く叩いた。

「ではこれより、捜査班の編成を発表いたします。地取り、敷鑑、遺留品の三班に分けますので、捜査員は発表を受けて各自――……」

3

乾渉太は、夢うつつの中にいた。

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頼りなく意識が浮遊している。ゼリー状だ。震えて、揺れている。意識だけではなく、自分そのものが、だった。ミルクのように濃い霧の中を、かたちのないなにかになって漂っていた。

――なにか?

なにか? なにかってなんだ。頭の片隅に、そんな自問自答が浮かぶ。だがひどく遠い。自分の思考のはずなのに、意識と切り離されたかのようだ。

しかしそれも一瞬だった。

彼はかたちのないなにかから、乾渉太に戻りつつあった。

自分の輪郭を感じた。次に彼は、円だ、と思った。自分は円だ。もしくは丸。

いや違う。まるまっているのだ。自分はいま胎児のごとく体をまるめ、繭に似たものに包まれている。その繭の中で、とくとくと脈打っている。

――脈。おれの脈。心臓。

その規則正しい“とくとく”は、しかし胸から起こっているのではなかった。もっとはるか下の位置からだ、と感じた。

脈。脈打つような。

(痛み)

ああそうだ、これは痛みだ。彼は思い当たった。

だが遠い。まだ遠いところにある。体のどこかに痛みがあるのに、手を伸ばしても摑めない。感覚が遠い。

なぜか、痛いはずだという意識だけがある。だがおそらく、これからもっと。

もっと。

――もっと。


次の刹那、渉太は目覚めた。

重いまぶたを持ちあげ、二、三度瞬いたのち、彼はゆっくりと己を見下ろした。

裸だ。

渉太は服を着ていなかった。グレイのボクサーパンツ一枚である。疑いなく、彼自身の下着であった。

――ええと、これを穿いたとき、おれは……。

目をきつくつぶった。

考える。記憶を掘り起こす。いまだはっきりしない頭を、舌打ちで叱咤した。

――最後の記憶は、六月……。六月の、八日。

よし、いいぞ。それでいい。間違いない。

八日だった。航平と匠と一緒だった。サークル名義で借りている借家に、今年も七月の頭ごろから世話になるべく、予定を立てていた。

だから三人で、一足早く下見に向かったのだ。納車から一月と経っていない、匠のアウディの試乗を兼ねて。

八日の朝、おれはシャワーを浴びて……そう、このグレイのボクサーパンツを穿いた。それからTシャツを着て、麻のシャツをはおり、ハーフパンツを穿いた。

おろしたての白のクロッグサンダルを履いた。ニットキャップをかぶった。シャツとニットキャップは、ネイビーで合わせた。

夏に向けての爽やかなコーディネートを目指したはずだ。

女向けの。女受けがいい。女が好きそうなファッション。

(女)

ああ、でもいまおれは裸だ。おれのシャツ。おれのハーフパンツ。どこへいった。あれはいい値段がしたんだぞ。今年の新作だぞ。

なんで脱いだんだろう。おれの服はどこだ。いやそれより、航平は、匠はいったいどこに。

――どこに。

「どこ……。こ、こは……どこだ」

突然聞こえた声に、彼はぎょっとした。

数秒置いて、自分が発した声だと気づく。同時に、よだれが己の顎までしたたっていることもはじめて知覚した。

ひどくぼやけた、覇気のない声音だ。自分の声とは思えなかった。

――でも、おれの声だ。

◇  ◇  ◇

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『残酷依存症』

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