中央集権を急ぐ女王、豪族たちの反発…壮大なスケールで「日本誕生」を描いた歴史エンターテインメント #2 日輪の賦
7世紀終わり。国は強大化する唐と新羅の脅威にさらされていた。危機に立ち向かうべく、女王・讃良(さらら)は強力な中央集権国家づくりに邁進する。しかし権益に固執する王族・豪族たちは、それに反発。やがて恐ろしい謀略が動き始める……。
昨年、『星落ちて、なお』で直木賞を受賞し、一躍注目を集めた澤田瞳子さん。『日輪の賦』は、壮大なスケールで「日本誕生」を描いた歴史エンターテインメント。その冒頭部分を、ご紹介します。
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当時、「天皇(すめらみこと)」の語はまだ、この海東の小国にない。天下を掌握した大海人(おおあま)は幾度か、「大王(おおきみ)」に代わる新たな呼称を撰定(せんてい)しようと試みた。だが未曽有の内乱を勝ち抜き、古来の豪族たちを膝下(しっか)に伏せさせ、これまでにない新しい国家を築き上げた「大王」に対する崇敬の念は、それ以前に彼自身を神へと祭り上げてしまった。大海人は生ける大王であるとともに、この世に現出した現人神(あらひとがみ)そのものだったのである。
「大君(おおきみ)は 神にしませば赤駒(あかこま)の 腹這(は)ふ田井(たい)を 都となしつ――歯の浮くような阿諛(あゆ)追従じゃが、あのお方を神と讃える気持ちはわからぬでもない。よいか、わしがかような話をくどくどと申すのは、単なる年寄りの説教ではない。卑官とはいえ、大舎人は宮城の根幹を支える大切な務め。大王が如何(いか)なる世を築こうとしておられるのか、それをよく読みとり、誠実にお仕え申すのじゃぞ」
かつての名族・阿古志連(あこしのむらじ)家は、この数十年で国造(くにのみやつこ)、牟婁評督(むろのこおりのかみ)とめまぐるしく役名を変え、今日その勢力は弱小豪族と呼んでも構わぬほどである。近在の者たちはいまだ河瀬麻呂(かわせまろ)たちに厚い崇敬の念を抱いているが、紀伊国を一歩出ればその名を知る者も少なかろう。しかし温厚な河瀬麻呂は一族の頽勢(たいせい)に危機を抱くどころか、大王を中心とする支配機構に期待すら寄せていた。
「ですが父上、その大海人さまの御世も今は昔。后の讃良さまに代替わりなさってから、中央の動きはずいぶん昔に戻ったとうかがいますが」
廣手(ひろて)の賢(さか)しらな反論に、河瀬麻呂は日に焼けた腕をうむと組んだ。
「大海人さまが亡くなられたのは、十年前の晩秋。直後、讃良さまはなさぬ仲の大津王子(おおつのみこ)に反逆の疑いありとして、すぐさま王子を死罪に処してしまわれた」
「その騒動なら、僕もかすかに覚えています。大津さまは草壁(くさかべ)さまより年下ながら、病弱な異母兄上とは正反対の豪放な偉丈夫。兄弟がたの誰より、大海人さまに似ておられたとか」
息子の口調に、讃良への批判を感じ取ったのだろう。河瀬麻呂は硬い顔つきで、小さく首を横に振った。
「世人は讃良さまのご行状を指して、わが子を帝位につけんがための傍若無人、子の母というものは恐ろしいと評した。されどわしはそうは考えぬ。王女はかつて葛城さまと大海人さまの間にあった葛藤、そしてそれに続いた壬申の戦の轍(てつ)を踏むまいと、やむなく大津さまを処分なさったのであろう」
「やむなく、ですか――」
「讃良さまが守らんとされたのは、草壁王子ではない。わが子が継ぐべき、父君とご夫君の遺志だったとわしは信じておる」
大海人は十年もの間、弟として葛城(かつらぎ)を補佐してきた。だが誰もが彼を次期大王と信じていたにもかかわらず、葛城は死の間際になって、愛息・大友(おおとも)への譲位を切望し始めた。兄の変心に危険を覚えた大海人は、出家して吉野に隠棲(いんせい)。葛城の没後、東国の諸豪族の協力を得て、当時朝廷が置かれていた近江京を攻撃し、大友王子を自害に追いやったのである。
言うなれば讃良は葛城・大海人の改革と軋轢(あつれき)を、もっとも近くで見てきた生き証人。そして二人の血と志を濃く受けた、彼らの後継者ともいえた。
「壬申の大乱は讃良さまにとって、ご夫君と異母弟君(おとうとぎみ)の間に起きた戦じゃ。御心の裡(うち)を忖度(そんたく)するのは不遜じゃが、葛城さまの目指された国家を実現するのは、二十歳そこそこの大友さまには荷が重い。変革を続行し得るのは大海人さましかないと信じ、讃良さまはご夫君に従われた。そしてそんな方だからこそ、ご夫君の没後、大津さまを死に追いやられたのではあるまいか」
「どういう意味でございます」
「確かに大津王子は、駿馬(しゅんめ)の如く濶達(かつたつ)なお方であらせられた。あえて申さば、倜儻不羈(てきとうふき)。常人には律しがたい才気煥発(さいきかんぱつ)さは、なるほど大海人さまと瓜二つじゃったわい」
讃良は彼の才気を危ぶんだのだ、と河瀬麻呂は語った。
急進的な大海人の改革にもかかわらず、廟堂(びょうどう)ではいまだ、多くの豪族が勢力を蓄えている。国家の基(もとい)を定める法典もなく、大唐のそれを模した官僚制もまだまだ未完成。そんな最中、大津が草壁に牙を剥きでもすれば、世の混乱に乗じ、王位簒奪(さんだつ)を目論む豪族が現れぬとも限らない。そうなれば三十年余に及ぶ父と夫の改革、その途上で流れた数多の血は、すべて水泡に帰す。
「讃良さまは不要な戦を防がんがため、己の手を汚し、大津王子を排除なさったのじゃ。されど世の中とはうまくいかぬもの。頼りの草壁さまはあろうことかその三年後、急な病を得て薨去(こうきょ)された。珂瑠王子(かるのみこ)という忘れ形見こそおられるものの、わずか七歳の童が、王位を継げるわけがない。かくして中継ぎの大王として讃良さまが即位されたが、いくら男勝りとはいえ女子の身。さすがに夫君の如き独断専行は行えぬ。それゆえやむなく古くからの諸豪族を政(まつりごと)に参与させ、彼らの協力を仰いでおられるのが、今日の朝堂の有様じゃ」
現在讃良の廟堂は太政大臣(おおいまつりごとのおおきみ)である高市王子(たけちのみこ)、右大臣(みぎりのおおおみ)の丹比嶋(たじひのしま)、大納言(おおいものもうすつかさ)の阿倍御主人(あべのみうし)と大伴御行(おおとものみゆき)の四人によって切り盛りされている。
大海人の長男である高市は、讃良の腹心。しかしそれ以外の三人はすべて、本来であれば朝政に参与できぬ、前代以来の豪族である。
「これらの方々はいずれも壬申の乱の折、大海人さまに味方し、武功を立てた御仁。政変に乗じて権勢を振るわんとしたが、大海人さまのご威光の前では果たせず、讃良さまの御世になってようよう浮かび上がってきた面々じゃ」
「なるほど、では諸大臣がたには今日ただ今こそが、長らく待ち望んだ時節なのですね」
「さよう、豪族たちの中には表向き大王に忠節を誓いながらも、かつての権益が失われたと、改革を憎む者も多い。この三人なぞまさしくその代表といえよう」
右大臣丹比嶋は、檜隈高田大王(ひのくまのたかたのおおきみ)(宣化(せんか)天皇)の玄孫(やしゃご)。また阿倍御主人と大伴御行は、それぞれ阿倍氏と大伴氏の氏上(うじのかみ)(氏族代表)。いずれも大化以前から朝廷を支えてきた、畿内豪族の生き残りである。
言い換えれば彼らは讃良の帷幄(いあく)の臣であると同時に、最後の守旧派。葛城、大海人、そして讃良が目指す中央集権体制にとって、最後の敵対勢力であった。
それだけに表向き協力態勢を取りつつも、両者の間には早くから、顕然たる溝が存在した。四年前の春、讃良が伊勢行幸を計画した折など、三人は当時中納言だった大三輪朝臣高市麻呂(おおみわのあそんたけちまろ)を通じ、行幸中止を奏上。彼女の即位後初の、大王と臣下の全面対立となった。
「春は百姓(ひゃくせい)にとって、農事多忙の季節。かような時季の行幸は、人民の負担を増すばかりでございます」
讃良からすればこれは、諸国の実情を検分せんがため。決して奢侈(しゃし)逸楽を旨とした巡幸ではない。
結局これは讃良が反対を押し切って出立し、高市麻呂が辞表を提出する形で落着した。しかしそれ以降も、丹比嶋たち三人の議政官は事あるごとに讃良に楯突き、彼女の変革を邪魔している。
とはいえ中央集権的な支配を推進するには、有力氏族の協力は不可欠。また朝堂の官吏の大半は中央・地方豪族の子弟であるため、哀しいかな三人を排除したくともままならぬのが現実のようであった。
「今は高市さまが双方の仲を取り持っておられるが、近いうちに必ずや、更なる軋轢が生じよう。よいか、さような折に始める宮仕え。草深い鄙から眼も絢(あや)な京に出れば、様々心惑う事もあろう。されどただ忠節のみを胸に刻み、大王にお仕え申すのじゃぞ」
(だけど、やっぱりどう聞いても、讃良さまとは奇妙なお方だよなあ)
父の熱弁をよそに、廣手は胸の中でしきりに首を傾げていた。
女だてらに大王となり、高官たちを相手に立ち回る女傑。まだ若い廣手には、彼女がそれほど讃仰に値する人物だとは、どうしても思えなかったのである。
そもそもこの国は古より、大王と各地の豪族が和合して統治してきた。その共和を破り、中央集権化を推し進める真の目的とは何なのだろう。
(国のためといっても、要はただ、権力が欲しいだけなのではないだろうか)
大海人も讃良も、つまりは自分たちが政を掌握できるよう、朝堂を作り替えているだけだと、廣手は単純に解釈していた。紀伊より他の地を知らぬ彼には、中央集権体制がこの国に何をもたらすのかもよく理解できなかったのである。
無論、倭国の統治者である大王を畏れ敬う気持ちはある。だが彼らが何を志向しているのかを理解するよりも、兄の八束(やつか)がどんな土地で生涯を終えたのか、それを知りたい思いが先に立つ。
こうしてせっかくの河瀬麻呂の説教も大半を聞き流したまま、廣手は郷里を後にしてきたのであった。
山を登るにつれて、道はどんどん狭くなってゆく。辺りは静寂に包まれ、時折遠くで鳴き交わす鶸(ひわ)の声が山間(やまあい)にこだまするばかり。腹の痛みからなんとか気を逸らそうと足元を見れば、気の早い山百合の蕾が、わずかな風に揺れていた。
「おい、狗隈(いぬくま)。この道は本当に峠に向かっているのか。さっきから細くなる一方じゃないか」
廣手の声に、狗隈は杖で山路の先を指した。
「大丈夫でさあ。見てくだせえ。ちょうどほら、あっちから人が下ってきましたぜ」
見上げればなるほど、三人ばかりの男たちが、山道をいっさんに駆け下ってくる。
界隈(かいわい)の猟師であろうか。顔に当たる小枝や道をふさぐ草を気に留めようともしない。猪のごとくこちらに突き進んでくる姿に、狗隈は誇らしげに破顔した。
「ああいう奴らが通るってこたあ、やっぱりこの道は近道なんですぜ」
そうこうする間に、男たちは真っ黒に日焼けした顔が判別できるほどまで近づいてきた。髪は藁(わら)しべでくくった蓬髪(ほうはつ)。垢じみた生麻の半臂(はんぴ)のあちらこちらにどす黒いものが染みついていると見て取るのと、彼らの手の中でぎらっと凶暴な光がきらめいたのは同時だった。
「違うぞ、狗隈ッ。あれは盗賊だ。逃げろッ」
光の正体を大鉈(おおなた)と覚り、廣手は腹痛も忘れて怒鳴った。腰の大刀を抜き放つと、狗隈を突き飛ばし、男たちに向かって山道を駆け出した。
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