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人生に合わせて、可能性を有限化する

言うまでもなく、人間個人の人生は有限である。

一方で、人間個人の可能性は無限大とも解釈できる。

あらゆる人間との交流、あらゆる知識の理解、あらゆる競争の勝利・・・。

これらを完全に達成できる「可能性」はゼロかもしれないが、それは裏を返すと追求の「可能性」は無限ということでもある。

ところで、この可能性の無限さ、というのは現代的に可視化されやすくなったと見ることができる。
多くの場合、自分より先を行く人がいるからそこに可能性を認められるのであって、インターネットが普及してから至る所に先人がいて、日々新しい可能性を創出している様子が見えるようになった。

話を戻すと、すべての個人は自らの人生の可能性を有限化されることになる。

この有限化が運命によってなされるのか、自ら選択的に行われるのかが重要だと思う。

有限化というのは、すなわち何かを諦めることである。
あればあるほど良いものが多すぎる現代、有限化は結構な困難である。

お金だって、あればあるほど安心じゃないか、とは言うが、何をもって安心と言えるのか。
その時にお金の可能性を追求しなかった場合の自己を適当に仮定して、適当に比較しているだけであることが多いのではないか。

お金を追求すればお金を得られるかもしれないが、反対に失うものもあるだろう。この手の議論(というほどのものでもないかもしれないが)にはその視点が抜け落ちていることが多いと感じる。

安心することが人生の目的ならそれで良いが、人間はそんな単純な生物ではないだろう。一定の安心、安定の先に、刺激を求めるはずだ。

いかなる刺激を自分は求めているのか、有限化を怠るとその問の存在さえぼやっとして、よく分からない方向に向かうのではないかと思う。

(おそらくこの辺りは哲学者である千葉雅也の議論の影響を受けている。「有限化」というワードも著書の中にあったはず。)




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玄徳
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