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東京駅界隈 日本工業倶楽部会館への道

東京駅丸の内本屋

今回は、東京駅丸の内界隈をお散歩いたします。
思い出したのですが、私は若い時、5年間丸の内のOL(とはいわんか。男はなんというのだ? 丸の内のOB、のはずないな)ではなく、とにかく丸の内で働いていた。毎日、東京駅丸の内南口から通っていたのである。
これは別の機会に。

言わずと知れた、東京駅は立派ですね。今では、国指定の重要文化財となっています。
ご存知のように、大正12年(1923年)の関東大震災ではほとんど被害がなかった東京駅ですが、東京大空襲により3階部分やドームが焼失し、創建時の姿に戻ったのは2012年。そこにもドラマがあります。創建時と同じ天然スレートで屋根を葺こうとして宮城県産で作っていたら、東日本大震災の津波被害にあったなんて。詳細は以下のリンクの下部のビデオがわかりやすいです。

《復元された南口のドーム部分》
わずかな部分だが、色が違うレリーフは、焼け残ったものを使っているという。
東京ステーションホテルの窓が見える。
以前から、窓に人影が見えることがあって、「川端康成がとまったんだな」と思っていた。
駅にホテルがあるのは、イギリスからのようで、インドに行った時にガヤの駅でホテルを見学し、インド人と仲良くなりタダでシャワーを使わせてもらったことがある。

今回知った驚きは、東京駅は、ほとんど東京最後の駅だったということ。
日本の最初の鉄道は新橋・横浜間であることはよく知られているが、新橋はその後もずっと終点だった。
上野から青森までの東北線が開通しても、上野・新橋間は鉄道がなかった。
上野・新橋間は、最初は徒歩・人力車でつなぎ、次に軌道馬車、さらに路面電車でつないでいた。
その証拠が、1904年の東京の鉄道路線図。
新橋から伸びた官設鉄道は、1889年(明治22年)に神戸駅まで全通したにもかかわらず、西南戦争で財政が窮迫して、以降、民営企業が鉄道を敷設していた。
そこで、「中央停留所」が計画され、新橋・上野間を最初から高架鉄道として作り、1914年(大正3年)に「東京駅」として現在の形で開業した。

驚きました? 知っていた人は驚かないだろうけれど、私は驚きましたね。今回は、これくらいしか驚きはありませんよ。

本日の目的は東京駅ではありません。
東京駅丸の内北口からすぐに見える、日本工業倶楽部会館です。
こちらは、重要文化財の一つ下のランクの、「国指定有形登録文化財」です。関東大震災では相当崩れたらしく、そのまま修復したので、平成15年に耐震構造を強化し、西側部分を保存、内装材も保存活用して再現したという。うしろの三菱UFJ信託銀行本店ビルとともに一体改築された。
「日本工業倶楽部」といえば、知る人ぞ知るお金持ちの社交クラブ。大正6年(1917年)に設立され、その創設は現在の経団連の前身、「日本経済聯盟会(大正11年)」より早い。もちろん現在も活動している。
内部は趣があり、テレビの「下町ロケット」で帝国重工の会議室として登場するという。(たぶん、3階大食堂)

《日本工業倶楽部会館》
屋上の坑夫と織女の像は、当時の石炭と紡績産業を象徴する。
オリジナルを材料としているという。

なぜ、ここに来たかと言うと、先日、「三菱1号館美術館」を見たら、ここのことを思い出したのです。
実は私はここの中で、20年ほど前に、民間企業を対象とした「障害者雇用セミナー」を4,5回開催しています。当時は、障害者自立支援法や精神障害者の障害者雇用率算入をひかえて、毎月のようにセミナーなどのイベントをいろいろな会場でしていましたが、ここで実施した回数が最も多かった。
もちろん、行政がお願いしたからといって貸してくれるわけもなく、当時、セミナーは日本経団連と共催だった。
ある時、準備が終わって、急いで昼食を取らなければならず、食堂で食事ができないかをたずねた。すると、「申し訳ございません。T様がご一緒でないと、食堂の利用は」と言われた。いや、当然である。そういうところなのだから。(ちなみに、ラウンジは会館利用者は使えた)
と、同時に、日本経団連が共催だからここを借りられているのではなく、そのT氏が会員であるから借りられていることを知った。
たしかに、そのT氏からは、「内装のレリーフなどの飾りは、もう作れる職人がいないので、以前のものを使っているのです」と聞いたことがある。
昼食は道をはさんだビルのコンビニに急いだ。
http://www.kogyoclub.or.jp/photo/bldg3.jpg  (ラウンジ HPから)

ここで行ったセミナーは評判がよく、いつも満席だった。
正直、案内された企業の担当者だって、日本工業倶楽部に入ってみたいだろう。私なら、手を上げる。
セミナーはなるべく企業を驚かせるものを企画した。
ひとつだけ紹介すると、全盲の視覚障害者がPCを使ってどの程度の仕事ができるかを実演してもらった。
PCの発達は視覚障害者にとって、スムーズに職域を拡大するものではなかった。考えてみてください、晴眼者にとって、アイコンを使った操作(GUI)は便利だが、視覚障害者にとっては逆なのだ。テキストだけだった方が、読みあげソフトで使いやすかった。Windowsになって、当初、うまく読むことができるソフトがなかった。
http://www.kogyoclub.or.jp/photo/bldg2.JPG (2階大会堂 HPから)

一方、全盲の視覚障害者の職域として、「あん摩、マッサージ、鍼灸」が思い浮かぶ。しかし、資格を取っても、戸建てでなければ開業できないため、東京では自宅開業が難しい。そのため、企業に「ヘルスキーパー」として雇用を勧め、企業従業員のために施術している企業はあった。
これも、全く採算が合わず、雇用できる企業は限られていた。それに、視覚障害者だからと言って、「あん摩、マッサージ、鍼灸」をやりたい人ばかりではないだろう。
そのため、PCを活用した事務的領域の仕事への職域拡大がどうしても必要だった。
そのうち、Windowsソフトで、グループウェアのロータスノーツを読むソフトが偶然見つかり、どんどん改良されていった。今では、Webも大きく改善されている。

当時、全盲の視覚障害者で事務職として働いている人は少なかったが、ある会社で人事担当者として働いている人を紹介してもらっていた。
彼は、PCを読みあげソフトで読ませて処理をしていたのだが、そのスピードは速く、われわれには何を言っているのか、まったく聞き取れない程だった。
それを企業の人事担当者の前で、解説しながら実演してもらった。
彼は、人事部として新規学卒者の対応をひとりで、ほとんどWebでしていたのですが、「たぶん、相手は私が目が見えていないというのを知らない」と言っていた。
反響はすこぶるよかった。「あんな人を雇いたい」との声は多かった。
まあ、私は腹の中で、「いいから、ごたごた言わずに雇え」と思っていた。

実は、うしろの三菱UFJ信託銀行と一体となっている。




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