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シャニアニへ愛を叫ぶ

 シャニアニが好きです。こう言うと、この発言をシャニマスというコンテンツに対する信仰や、緩急のない間延びしたストーリーではなく出来の良い3DモデルやMVの完成度に対する好意であると捉える向きがあるかもしれませんが、そうではなく、俺はシャニアニの物語が面白いと感じているが故にシャニアニが好きです。忌避も韜晦もなく真正面から。
 物語が面白いなどと言っておきながら、ここで言う「物語が面白い」というのはストーリーラインそのものを指すわけではありません(展開自体に面白みはないので)。俺が感じるこの作品の面白さは、掲げたテーマを高い完成度で描き切っている、ということに終着します。自分が観測する限り、この「テーマ」というのは真乃の成長譚であるとか、1stライブの、或いはシャニマス1年目の再演だという意見が多く、それらがシャニアニのやりたかったことであるというような言説が定着している気がしますが、個人的にはこれは不十分であると思っています。無論、そういった面もありますが、1stの再演はあくまで手段であり、シャニアニ制作陣が描きたかったことはもっと"アイドルマスターシャイニーカラーズ"の根底に通ずるもののように感じます。
 今からその「テーマ」を軸に俺が感じたシャニアニの面白さについて書いていくわけですが、俺はシャニマスが好きでシャニアニが嫌いな方にこそこの記事を読んでほしい。別にその方の意見を変えたいだとか変えることができるとは思っているわけではなく、制作陣がシャニアニで成そうとしたことを、そこに込められた愛を少しでも多くの方に知ってほしいからです。俺が初めてそれに気付いたとき、滂沱と流れる涙が横浜一帯を海の底へと沈めました。それほどの愛がこの作品にはある。少なくともそれがあるということを知ってほしい。無論、これはただの一視聴者の解釈であることは言うまでもなく、盛大に的を外している可能性も大いにあります。また、俺がこれから語ることが多くの視聴者にとっては自明のことかもしれない。そう感じられるのであれば一笑に付し、馬鹿にしてください。この記事はシャニアニを12話まで見ていることを前提としています。

 シャニアニの面白さについて語る前に、まずはなぜシャニアニがつまらないと言われているかを説明し、その観点から逆説的に面白さへの説明につなげようと思ったのですが、先日シャニアニがつまらないという理由を簡潔に説明しているツイートを見つけたので記載しておきます。

 この方の「どうして面白くないのか」は、俺もおおむね同意で、意見が異なる点を挙げるならば俺は「問題提起」を「テーマ」に読み替えていることなのですが意味はほとんど同じです。つまり、シャニアニが何を描こうとしているのかというマクロな視点がぼんやりとしているが故に、各話で描こうとしていることの意味が分からず、緩急の無い物語が滔々と進んでいくように見えるので面白くない。2~5話, 11話, 12話のようなライブのある回は単体で物語を引っ張る力がありますが、そのような力がない場合には、作品全体に対するその回の位置づけを理解できなければ間延びした印象を視聴者に与えます。シャニアニにおいて8話, 9話の評価が低いのはがこれが原因かと思われます。今でこそ俺はこの回の意義を理解しているつもりですが、この作品が描こうとしていることに気付き全体の構成や演出の意図を理解するまでは、俺はこの回の解釈が上手くできず悶々としていました。シャニアニ全体についても好きではありましたが絶賛するほど面白いとは思っていませんでした(主は先行上映を各章3回ずつ観ています)。
 本来であれば、この「テーマ」はキービジュアルのコピーやホームページから読み取ることができたり、第一話に、或いはミクロに作品全体に敷延していたりすることで直感的に視聴者が理解できるようになっています。シャニアニのような事件が起こりにくい作品なら尚更そうする必要がありますが、問題はシャニアニにおいてはそれが分かりにくいということにあります(分かりにくいだけでちゃんと描かれています)。しかしこれは制作の怠惰ではなく、むしろシャニマスのアニメを作るということに真摯に向き合った結果です(それでもやりようはあったかもしれないが)。また、ある種の「問題提起」をそれがシャニアニで描かれる一要素でしかないのに「全体のテーマ」と解釈してしまうことも、この作品がつまらなく感じてしまう原因だとも思います。この作品の最大の魅力は、1話から12話までを一貫する「テーマ」の強固さにあるので。これは制作陣の我儘と言ってもいい。つまり、俺がシャニアニを面白いと感じているのは、制作陣の意図を理解し、シャニアニで描こうとしたその全体像がはっきりと見えているからです。もう一度断っておきますが、あくまでこれは一視聴者の解釈です。

 じゃあその「テーマ」ってなんじゃい、ということでもう言ってしまいますが、それは"シャイニーカラーズの誕生"です。何を当然のことを……と、実際かたちにしてみると余りにも凡庸で安易な言葉ですが、俺はシャニアニは大真面目にこれに取り組んだものだと思っています。そして、一つ言っておかなければならないのは、これはあくまで表式というか結実であって「テーマ」そのものを過不足なく穿つ表現ではありません。"シャイニーカラーズの誕生"が示す制作陣の理念は以下の方がもうすでに示してくださっています。

俺はこのツイートを見つけたとき、激しく頷くと共に先にシャニアニの根底の魅力を正確に言語化されたと思い、悔しかったのを覚えています。
 そんな俺の感情はさておき、「アイドルマスターシャイニーカラーズ」という表題に含まれたこの"シャイニーカラーズ"は、当然シャニマスの前提であり、このコンテンツに触れるすべての人が自然に受け入れている言葉だと思いますが、その中身がどんなものなのかを実感として知っている人は少ないのではないかと思います(リアルの1stライブの話は後述します)。「イルミネ」「アンティーカ」「アルスト」「放クラ」がどんなユニットなのかは分かる、「シャニマス」がどんなコンテンツなのかも分かる。けれど「シャイニーカラーズ」がどんなものなのかはイマイチ分かっていなかったということに俺はシャニアニを通して気付かされました。オペレーションサンタやシャニPが真乃にかけた例のセリフから、その一端に触れてはいましたが、enza版で「シャイニーカラーズ」を描くには限界があります。シャニアニの制作プロデューサーである池田氏をはじめとする制作陣は、数々のインタビューや配信などでシャニマスのアニメを作りたかったと仰っていましたが、"シャイニーカラーズの誕生"はまさにシャニマスのアニメだからこと描けることだと思います。無論、物語における恣意を可能な限り排していることや美麗な絵作り、SEのこだわり、アイドルごとのモーションなどもシャニアニがシャニマスのアニメたる要素です。
 シャニアニは"シャイニーカラーズの誕生"を描く物語なのだと思い至ったのは、11話のラスト、バースオブウィングを身に纏った彼女たちが奈落から昇ってくるカットでした。このシーンは10話のラストで283プロのみんなが共有したイメージがそのままで描写されています。8話, 9話で各ユニットが仕事やレッスンを共にしながら、10話の合宿で同じ釜の飯を食い、最後に全員で1stライブのイメージを共有する。だからこそ、ひとりひとりの表情が映し出される。今まで異なる経験をしてきた彼女たちが少しずつ結束し、やがて一つになる。10話で描かれたのは、283プロのアイドルたちが"シャイニーカラーズ"になるための通過儀礼なわけです。そして、みんなで共有したイメージが11話で結実する。奈落から昇りきった彼女たちは、いま、みんなで思い描いた舞台の上にいて、スポットライトがそれを照らす。真乃を筆頭に全員で宣言する。

「わたしたち、『シャイニーカラーズです』」

アニメ「アイドルマスターシャイニーカラーズ」, 11話. 

 この宣言がなされた瞬間、あぁ、そうか、この一言のために今までの全てがあったのか、と全てが頭の中でつながりました。そして、緩やかなカタルシスが終幕まで続きました。きっと今でも続いています。序たる1話、ユニット編、全員が敗北したWing編(ここには恣意が感じないでもないですが俺は美琴とルカのユニットが優勝したと勝手に捏造しています)、ライブ準備編、そして最後のライブ。各話の演出や、全体の構成をいちいちどうのこうのと説明するような解説紛いなことはしませんが(そんな寒いことはしたくないし、改めて見返してほしいので11話, 12話だけでも)、この物語が1話アバンのモノローグから12話のモノローグまで精緻に組み立てられた、一本筋の通った話であるのは明らかです。先ほど、この「テーマ」は分かりにくいだけできちんと描写されていると書きましたが、1話アバンのモノローグなんてもろにそれです。シャニマスお得意のポエムという形式をとる以上、我々はその表層ばかりに囚われ、真に言葉の意味を図ろうとはしませんでした。しかし、11話までを見た視聴者ならその真乃のモノローグが単に何かいいことを言っているというだけでなく、そこに込められた意味をきちんと捉えることが出来ます。画面に流れるアイドルたちの日常の描写の意味も。
 つまり、俺が言いたいのは、この物語は12話までを見て初めて真価を発揮するアニメだということです。さながら印象派の絵画のように、近くでみるとただの絵具の綺麗な塗り重ねですが、少し視野を広げて全体を見渡してみると美しい景色がある。
 シャニアニの制作陣はもちろん作品を売る気があるとは思いますが、それよりもアイドルたちに真摯にあろうとしたのだと思います。その枠の中でできる表現をした結果が"印象派の絵画"です。到底、大量の新規のシャニマスファンを獲得できるとは思いませんが、これが愛でなくして何だというのでしょう。いわゆる原作のシャニマスの雰囲気を保ちながらも、そこだけに注視するのだけでなく、シャニマスでは描き切ってはいなかった"シャイニーカラーズの誕生"を描いて見せた。本当にシャニマスのファンとして感謝しかありません。ありがとう、バンダイナムコエンターテインメント。ありがとう、ポリゴン・ピクチュアズ。ありがとう、まんきゅう監督。

 とはいえ不満が無いわけでもありません。例えばそれは暗喩の少なさであったり、劇判であったり、構図の単調さであったり。ですが、それは俺が感じたシャニアニの面白さに比べれば本当に些末なことです。
 俺がこの記事を書こうと思ったのは、シャニアニの不評をみて生まれた悲しみを、俺のポジティブを形にすることでなんとか和らげようとしたからです。初見なら全然いい、シャニのことをちょっとしか知らない人なら全然いい。それは分かりやすくはしていない制作が悪いので。でもその姿勢に愛と熱を感じるんだよなー。問題はシャニマスのコミュに魅力を感じている層で、お前らシャニマスの何が好きなんだ?ツイッターに流布している悪評をまるで自分の言葉のように語ってないか?わかりやすい言葉に変換されているからって簡単に流用するなよ?語るなら自分の言葉で語れよ。あれ、なんか怒りがわいてきたな。
 俺はシャニマスが好きです。なによりもその真摯さが。そしてそれはシャニマスの運営から感じる真摯さでもあります。愛と言い換えてもいい。運営ファンです、俺は。なればこそ、シャニアニがつまらないわけがないだろうと思っていました、5th Day2から。
 面白くないという意見にも充分肯います。俺もシャニアニの面白くなさは分かっているつもりです。ここに書いたこと以外でも。ただ、もっと制作陣を信じてもよかっただろうという話。おまえらが見てきたシャニマスはそんなやわじゃなかったはずだ。

 さて、残りの言いたいことはさておき、一応の結果を示したところでもうすぐ終わろうと思いますが、少しだけ2nd seasonの話をします。シャニアニは初めから2シーズンあることを前提で組み立てられています。1st seasonで描いたのは、一枚の羽根が集まり翼を獲得し、つながった空を見上げるまででした。ならば、2nd seasonではその翼で、そして新しい翼で空に羽ばたいていくことが描かれるのかもしれません。はたして、どんな空にどのように飛ぶのか、本当に飛べるのか。1stで固めた土台の上でどのような展開がなされるのか非常に楽しみです。






蛇足
 
前述したシャイニーカラーズと1stライブについてここで語ります。ごく個人的な話なので、スルーしてもらって構いません。
 俺は現実の1st ライブを知りません。なぜなら当時は受験生であり、シャニマスこそインストールしていましたがゲームはプレイせず、せいぜい曲を聞く程度だったからです。その曲も全部で10曲程度。シャニアニが1stを通っていないと楽しめない、1st の懐古のためのアニメ化、或いは1st の再演という意見を否定したいのはここに理由があります(そんな意見はごく一部ですが)。しかし、俺がシャニアニで見たシャイニーカラーズの誕生を、もしかしたら1st ライブに参加したPたちはアンフィシアターで既に目撃していたのかもしれない。
 これはライブのスタンスの話でもありますが、俺はライブに行くときは単にシャニマスのファンとして参加します。プロデューサーさんと呼ばれて返事はしますが、それはただのファンの総称で、それ以上に特別な意味を持ちません。ですので、キャストとアイドルを混同することもないですし、舞台上にアイドルを見出そうとも思いません。ただ、輝きの中にアイドルを幻視してしまうことはあります。
 結局何が言いたいのかというと、言い訳と謝罪です。俺がシャイニーカラーズというものを実感したことがないばかりに、かつて現実に出現したであろう彼女たちの輝きをまるでなかったことのように扱ったのは申し訳なく思います。本文での物言いは、キャストやスタッフの努力や想い、また、そこで観測していたPの方々の想いを無碍にしたかもしれません。誠、申し訳ない。

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