見出し画像

【桜花拾】によせて

 駅から自宅までの道のりに小さな公園がある。疲労を湛えた身体を引き摺りながらの帰り道、その公園から自宅までは数分とないが自宅に着くまでにひと息つきたく、公園にあったはずのベンチを想いながら歩く。暫く歩いて住宅街に入り、フェンスと生垣に囲まれた公園を視界に認めると、公園に一つしかないベンチには既にふたりの女の子が座っている。座面にぺったりと靴を履いたままの足を乗せて向かい合い何やら話し込んでいる。ままごと遊びでもしているのかもしれない。夕方とはいえ辺りはまだ明るい。酷暑のみぎる今とは異なり、春先のこの時間ではすでに日が落ち暗く、灯りと言えば眩い街灯か家々から漏れるやわらかい光であったことを思い出し、夏の日の長さを知る。

 また別の日。朝、仕事への行きがけに同じ道を今度は逆方向に歩く。夏は過ぎたといえ、まだ残暑の滲む季節。散歩か或いはラジオ体操か、公園のベンチに老人が座っている。ベンチのすぐ隣にある桜は既に青く、伸びた枝葉がベンチを影に包んでいる。葉陰に漏れた薄明かりが老人の禿頭に斑をつくっている。


 すっかり涼しくなった、また別の日。街中まで買い物に行こうと公園のそばを通ったとき、今度は件のベンチに二人の女が座っている。二人ともおくるみに包まれた赤子を抱いている。公園には遊具やボールで遊ぶ子供がいる。赤子をあやす母親、はしゃぐ子供たちを見守る母親。


 私がこの住宅街に居を移したときには既に公園があり、ベンチがあった。私はそれがいつからそこに存在しているのかを知らない。私はそれがいつ無くなるのかも知らない。


 ある日ベンチが空いていた。公園には誰もおらず周りに人の気配もない。私は公園に足を踏み入れ、ベンチに腰掛けた。何の変哲もない木製のベンチだった。隣にはいつも生垣の向こうから見ていた桜の木があった。足元には乾いた落ち葉が広がっていた。その席からの風景は初めてのものだったが、公園の遊具や周りの家々は見慣れたものなので新鮮なものではなかった。小さな広場、古い遊具たち、公園と家々を区切るフェンスと石塀。
 風が吹いて乾いた音が鳴った。足元の桜の葉が靴に触れた。私は誰かが公園の前の道を通るまでずっと座っていた。

いいなと思ったら応援しよう!