『天塵』について
はじめに
シャニマスに好きなコミュは数あれど、いざそのなかから一つを選べと言われるのなら、私は『天塵』を選びます。他の候補としては『線たちの12月』『セブン#ス』や【国道沿いに、憶光年】、霧子や透のG.R.A.D.などがありますが、その中から『天塵』を選ぶのはその特異性からです。ここでいう特異性とは、傑出した完成度だけを指すのではなく、その内容が他のコミュに依るところがなく独立している点や、いわゆるノクチル史における『天塵』の位置づけ、その立ち位置と内容の妥当性、そしてこれは個人的な解釈を多分に含みますが、"プロデューサーとしてのプレイヤー"という立場にある種の解を示した、という独自性を指してのことです。特に最後の"プロデューサーとしてのプレイヤー"という観点においては他のコミュに並ぶものはありません(あさひのコミュにはその要素が垣間見れるが)。
本稿では私が『天塵』が好きな理由を書く、つまりは感想文に近いものですが、シャニマスのコミュのなかでも人気のあるこのコミュは、既に多数の読解や考察、意味付けがなされており、同じことを私が書いてもつまらないので、今回はなるべくあまり言及されていないだろうと思われる観点から『天塵』についての想いを語ります。
『天塵』の位置づけ
上記した特異性において、『天塵』の独立性とノクチル史における立ち位置の妥当性と書きましたが、簡単に説明すれば、前者は『天塵』がノクチルの最初のイベントコミュであるが故に、他に情報がなくとも物語として完成しているということであり、後者はノクチルの最初のイベントコミュとして必要なことが不足なく描かれているということです、それも恐ろしく高い完成度で。前者はこれ以上説明することがないのですが、後者に関しては少し説明します。
ノクチル(加えてシーズ)を除く各ユニットの最初のイベントコミュは、簡単に言えば、"ユニットの結成"が描かれています。例えばイルミネーションスターズの『Light up the illumination』ではイルミネ3人の不和の解消と関係性の構築が描かれており、他のユニットに関しても同様です。これを描かなければユニットの物語を始めることはできません。しかしノクチルに限って言えば、わざわざ"ユニットの結成"を描く必要はありません。いうまでもなく、彼女たちは4人全員が幼馴染という関係性にあり、アイドルになる前から既に共同体を形成しているからです。
また、他のユニットに比べて関係性の構築に先んじているノクチルには、アイドルになる(である)という意思が欠けており、今後彼女たちの物語を展開するにあたり、その意思が描かれる必要がありました。
それ故にノクチルの最初のイベントコミュで描かれる必要があったのは、彼女たちがアイドルになる、或いは続けるという意思表明にほかならず、『天塵』は見事にそれを描いています。いわば、ノクチルが始まる瞬間です。ノクチルの最初のイベントコミュとして必要なことが不足なく描かれているというのはそういう意味です。
しかし言っておかなければならないのは、その意思は彼女たちのものではないということです。彼女たちは決意したわけでも、ましてや宣言したわけでもありません。彼女たちはこの時点でアイドルになろう、なりたい、などとは思ってもおらず(しかし始めようという意思はある)、この意思表明は運営が、作劇が、世界がそう描いている形式的なものに過ぎず、それが成されたと思っているのはプレイヤー(この場合は私)が彼女たちの行動から勝手に感じ入っているだけのことです。『天塵』では、社会がノクチルを規定するさまが描かれますが、そこに歯痒さを感じているプレイヤーも、結局はシャニマス世界における社会の側と同じように、彼女たちの意志に関わらずその行動から真意を定めてしまっています。このノクチルに宿命づけられた、勝手に解釈され勝手に感動されるという構図が、現実の世界においてもメタ的に浮かび上がるというやるせなさ(しかし美しさ)、そこに『天塵』の完成度の高さがうかがえます。
「海」に飛び込むということ
『天塵』に描かれているのはノクチルのアイドルを続ける意思表明だと書きましたが、そうはいっても、何をもって表明というのかは人によって意見が分かれるかもしれません。それは、海に行く、或いは営業の仕事を受けるという宣言かもしれず、誰も見ていないステージでパフォーマンスをすることかもしれない、そして、そのパフォーマンスを「いい感じだった」と感じることかもしれず、飛び込んだ海の中で彼女たちのことを見ていない花火大会の客に向かって、聞こえないとわかっていながらも「こっち見ろー」と声を投げることかもしれない。しかし私に関して言えば、それは、誰も見ていないパフォーマンスが終わった後、彼女たちがアイドル衣装のまま海に飛び込んだ瞬間です。そのときに私は確かにノクチルが始まる音を聞いたのです。
『天塵』(のみでなくノクチルの物語)では「海」が重要なメタファーとして据えられています。オープニングの「ハウ・スーン・イズ・ナ→ウ」では、夏休みに透がおばあちゃんの家に行ってしまうことをきっかけに、4人の車を買って海に行くことが約束されますが、このときには、海に行くこと自体は目的ではなく、離れ離れになってしまうかもしれない幼なじみ4人を繋ぎ留めておくための手段として用いられます。実際に行ってもいかなくても問題はありませんが、しかし、4人でいる手段として透は海に行くことを決めたのです。明言するまでもなく、ここでは「海」が彼女たちの「行き先」として描かれています。
以降『天塵』では、この約束を下地に過去と現在を対比させながら物語が進行していきます。行き先の決まっていた過去、新人アイドルになってしまいどこへ行くのか分からない現在。挿話的に過去の「行き先」としての「海」が描かれることで、宙吊りになった彼女たちたちの現状が浮かび上がります。
平行に見えた過去と現在の関係は、しかし第6話「海」にて合致をみます。配信の仕事で干された彼女たちにプロデューサーが持ってきたのは、花火大会での営業の話。設備もお粗末なら人も集まらない、アイドルとして受ける意義のない仕事。ここでプロデューサーは彼女たちにこの仕事を受けるかどうか、アイドルを続けるかどうか考えることを要請します。結局、彼女たちはその時点では答えを出しませんが、営業の仕事を受けることに決めます。理由は「海」に行きたいから。どこへ行くのかわからなかった彼女たちが、自らの意思で定めた行き先は「海」。過去と現在がここで交わるのです。
エンディング「ハング・ザ・ノクチル!」で海に来た4人。その目的は形式的には花火大会の営業をするためです。つまり、アイドルをするため。粗末なステージの上でパフォーマンスをした彼女たちは、観客はだれも彼女たちのことを見ていないけれど、そのステージに「いい感じだった」と手応えを感じます。そして、アイドル衣装のまま、全員で、「海」に飛び込む。『天塵』では「海」がノクチルの「行き先」として描かれていました。このことを鑑みれば、彼女たちの突飛な行動は何よりも強固なノクチルの始まりの宣誓なのです。
コミュにおけるプレイヤー
シャニマスにおけるプロデューサーは、プレイヤーの分身ではなく、一人の人間として確立しています。それ故にコミュにおける我々プレイヤーは、彼の背後霊であったり事務所の壁であったり、宙を舞う塵などと自嘲にも似た自称をしています、私が観測する限りではありますが。無論、私もそういった一人なのですが、そう思うと同時に、そういった自嘲を少し寂しく感じるのも確かです。私はコミュのなかのプロデューサーではありませんが、W.I.N.G.で敗退させてしまったときは彼女たちに申し訳なく思ったし、自分の力不足を呪いました。彼女たちが優勝したときには涙さえ流しました。私はあの感情を嘘だとは思いたくありません。
『天塵』の最後、海に飛び込んだノクチルを見つめる人物がいます。
シャニマスには珍しい小説の地の文のようなこの一節は、だれの言葉か明言されていません。続くセリフから、これはプロデューサーの見ている景色であり彼の言葉だと推察できますが、テキストボックスには彼の名前がないのです。それはこのモノローグがセリフではなく心のうちの言葉だからである、或いは情景の描写だからであると言われればそれまでですが、私はこれを認識したときに、これは俺が見ている景色なんだ、と思いました。これはプレイヤーである自分が見ている景色だからモノローグの主体が明示されていないのだと。
そう思ってしまった瞬間に、私はコミュにおけるプレイヤーが、私が存在している意義を認めてしまいました。私はプロデューサーではないし、あの世界には存在しない。けれども、見ているだけでその役割は果たせているのだと。
私は、シャニマスにおける語りのテーマの一つして「見ること・見られること」があると感じています。『天塵』にしてもそうです。観客の見ていないステージでパフォーマンスをしたノクチルたちを、それでも見ている人はいたんです。プロデューサーと私。私が見た彼女たちは紛れもなくアイドルでした。
おわりに
以上が私が『天塵』が好きな理由、特異だと思う理由です。あまり語られていない視点から『天塵』について語ったつもりですが、この記事を読んでいる方においては、自明だったり全く見当の外れたものかもしれません。そもそも、今更4年前のコミュについて書くのかよと自分でもツッコミを入れたくなります。けれども、たくさんの方のシャニマスのnoteを読むうちに私も自身の想いを書きたくなったので書きました。書いてよかったとも思っています。
最後までお読みいただき誠にありがとうございました。
「海」について
本稿を書くにあたり、私はノクチルや『天塵』に関するnoteをいくつか読んでみました。今まで一人でシャニマスに触れてきた私は、いわゆるシャニマス受容史なるものを知らず、自分の解釈が筋違いのぶっ飛んだものである可能性を考慮し、ならば他の人はコミュやアイドルをどう解釈しているのだろうと疑問に思ったからです。そうして読んだnoteのなかで衝撃だったのは、ノクチルのにおける「海」を「幼馴染の世界」と解釈している人がいること。
私はノクチルのおける「海」をシャニマスにおける「空」に近いもの、つまりは、「アイドルとして輝くための場所」だと思っています(無論、この一言だけで表現はできないが)。だからこそ、それとは矛盾しているような観念を「海」に据えている人がいることに驚きました。しかし、引用した記事を読んでみるとその解釈にも納得できます。いろいろ考えた末、私にしてみれば、一見対立しているように見えるこの二つの解釈はどちらも正しいと思っています。なぜなら、ノクチルは幼馴染のアイドルなので。
「海」を「幼馴染の世界」とするのなら、前述した"アイドル衣装のまま海に飛び込む"という行動は、幼馴染の世界にアイドルという概念を取り込む、と解釈できます。どちらにせよ、彼女たちはアイドルとして新しく始まったのです。(あぶねー、俺の感動ポイントぎり覆されずに済んだわ)
無粋であるのは承知ですが、それを踏まえたうえでノクチルの「海」をあえて定義するのなら、それは彼女たちが「彼女たちのまま自由に生きられる世界」(或いは生きられると思っている世界、生きたいと思っている世界)ということになるのかなと。しかし、ある解釈を一つの言葉に押し込めることほど貧相なことはないですから、この言葉もやはり意味のないものかもしれません。
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