夜に駆ける ―森茉莉「恋人たちの森」の準急‘スワン’―
あんな綺麗な男の子は見たことがなかった。
私よりふたつ、みっつ若いくらい。
壮年の美丈夫に、いつもまるでペットのように纏わりついて準急「スワン」に乗りこんでくる。
私はAホテルで国鉄の列車食堂を担当するウエイトレスだ。
乗務予定表に「スワン」が組み込まれていると、職場の仲間たちは、またあの美少年に会えるかも、と小さな期待に胸をふくらませる。
少年の名前はまだ知らない。
彼がパトロンらしい美丈夫を「ギ」とか「ギド」と呼ぶのを耳に挟んで以来、私たちはギド様のお稚児さん、と呼んでいる。
スワンは東京駅を21時45分に発ち、奥白駅には23時50分に着く。
人目を避けるかのように走る風変わりな列車だ。
銀色に輝くステンレス製の一等車ばかりの編成に気圧されてか、こんな時間帯なのに酔客の誤乗は滅多にない。
一等車のほかに荷物車、そして私たちが乗務してお酒や軽食を提供するサロンカーをつないでいる。
奥白駅にほど近い北奥白は、砂丘地帯に古い別荘や画家のアトリエなどが散在する海辺の静かな保養地だ。
日本のサン・イデスバールと呼ばれているらしい。
もっとも私はその街がどこの国あるのか、教わったけれど、忘れてしまった。
スワンの乗客には、お互い顔見知りが多い。
それを避けてか、ギド様はサロンカーには滅多にお出ましにならない。
美少年から書付けを受け取り、私たちがいそいそと二人の座席まで誂えものを届ける。
そんな特例を、マネジャーは黙認している。
その夜、「Whiskey et Martini、60A/B」とある万年筆の拙い走り書きを、首尾よく預かった私は、指定された席まで銀盆をそろりそろりと運んだ。
お稚児さんはギド様を見つめてい、猿臂を延ばすと、彼が咥えるフィリップ・モオリスの吸いさしを、悪戯めかしく摘まみ上げ、窓外の闇に捨てた。
どうということもない、そんなありふれた仕草ひとつにも、男と少年の睦まじさ、ただならぬ気配は覆うべくもなく、私は耳たぶが紅潮するのを感じた。
奥白駅に着くと、短い汽笛の吹鳴を残して、行き止まりのホームから青い機関車が離れていく。
3軸台車をふたつ付けた、スワン以外では見かけない形の機関車だ。
駅員が、あたかも巻物を展べるように、荘重な手つきで荷物車のジュラルミンの扉を開く。
プラットフォームの薄明りの下に、磨き込まれたロオルス・ロイスの黒い艶やかなボディが現れる。
スワンのクルーには見慣れたクルマだけれど、こんな大きな「手荷物」が、はたして国鉄の輸送規定にあてはまるのだろうか?
いつものように、美少年が乗り込み、クルマに火を入れる。
イグニッションを操作するとき、眉根にちょっと皺を寄せる。
ギド様はそれをじっと見ている。
黒いライオンめいた自動車は、プラットフォームへの傾斜を静々と下りる。
ギド様が助手席に陣取ると、グラン・エテ(深い夏)の香ぐわしい漆黒の闇を、ハイビームにした大きなヘッドライトが煌々と照らし、砂丘地方のシャトーに向けて悠然と走り去った。