新幹線を聴いている
おんなの部屋のインタフォンを押した。
薄曇りの空は、まだ明るさを留めてはいるけれど、どちらが西やら東やらおよそ見当がつかない。
訪ねて来るのは、いつも夜ばかりだったから。
昼間の勤めを持つおんなが、こんな時間に留守なのは分かっている。
近くに所用ができ、ほんのついでとばかり、ぼんやり歩いているうちに、足がつい通い慣れた道をなぞり、部屋の前にたどり着き、指先が勝手に目の前のボタンを押してしまったのだ。
反応は無論ない。
ポケットに合鍵はあるが、おんなの体がなければ部屋に用はない。
なにか書きつけを残そうかと思ったが、適当な台詞を思いつかない。
「驚きはいつだって美しい」、詩人ブルトンのこの言葉を、40年この方後生大事に抱えてきたのだが、おんなを驚かせ、一転笑顔にさせる、そんな気の効いた言葉をすらすらと用意できぬことに、ひとり苛立ちを覚える。
くさぐさの不如意を、ややもすると、老いの兆しと見做したがる。
そんな機会が、近頃とみに増えてきている。
ボールペンと名刺入れを取り出して、「後でね(映画「タンポポ」からの引用ですよ)」とのみ記した紙片を郵便受けに落とした。
「タンポポ」は一緒に見たことがあった。
ラーメンの食べ方を指南する老人が、上がりたての丼を前に、具の主役たる焼き豚を、いったんどんぶりの右上方に沈ませ加減に安置させ、詫びるがごとく「後でね」と呟くシーンに、おんなは声を立てて笑ったのだ。
踵をめぐらせ、夕餉の買い物客で賑わい始めた、古めかしい小さな商店街を通り抜けて、あてどもなくゆらりゆらりと歩いた。
照明眩い惣菜屋の軒先に、凧糸で巻いた焼き豚がぶら下がっていた。
やがて、広い国道を跨ぎ越す、赤錆が目立つ古めかしい歩道橋の下にたどり着いた。
見上げれば山寺の参道のように長い。つい手すりをつかみ、時代遅れの鉄の階段を、一段一段、踏みしめて昇っていった。
目の前には新幹線の高架橋が迫り、同じ形、同じ長さの列車が、同じような速度でするすると通過していく。
ひっきりなし、と言いたいほどの夥しい頻度である。
黄昏の空気の中では、こんな無機質な列車の車内照明さえもが、ともするとノスタルジーを掻き立てる。
幾本かの列車をやり過ごすうちに、下りと上りの列車では走行音が違うのにが気付いた。
下りは、量感と軽微な振動とを伝えながら通過していくが、上りはそれに加えて、細いキュウキュウと絞りたてるような音がかすかに混ざる。
曲線や勾配のせいで、あるいは加速や制動のために、車輪のフランジがレールに押しつけられてたてる音に、違いが現れるのだろうか。
聞き慣れた人の耳は、目を閉じていても、何か他所のことに気を取られていても、いま通過していく列車が上りか下りか、聞き誤ることはないだろう。
この歩道橋を生活の通路にしている人たちはみな、走行音の違いを聞き分けながら、気にも留めないのに違いない。
そう思うと不意に、いまここで、新幹線に耳を澄ましている自分ばかりが、余所者なのだという思いが募り、見知らぬ場所で、家路を見失った子供の心細さに胸を塞がれてしまう。
私はたちまち、芥川の「トロッコ」の子供になってしまう。
胸ポケットの電話器が、不意に音を立てた。
ー坊ちゃんどちらへ?
おんなの声だった。
娘といっても通る年恰好だが、おんなは時折、私を坊ちゃんと呼んだ。
ーそんなところで、いったい何をしているの。
あたりを見回すと、思いがけないことに、おんなの部屋の入り口が、はるか遠くに小さく見通せることが分かった。すでに日は落ち、日除け帽の影に覆われた表情は見分けがたいが、スマホを耳に当て、もう一方の手の指をひらひらさせている。きっと笑顔なのだろう。
―身投げでもしかねない背中だわよ。
不意を突かれた私は狼狽え、反射的に取り繕った。
―新幹線を聴いていたんだ。
―えっ、なあに?
―そら、お月様がだいぶ明るさを増してきただろう。夕月を肴に聴く新幹線は、なかなかどうして乙なものさ。今まで知らなかったとは、お生憎様だねえ。もっとも僕もつい今しがた、たまたま知ったばかりだけれど。
いいぞ、特に上り列車がね。車輪とレールの摩擦が細く絞りたてるような音色を立てる。金属音だけれど、さりとて嫌な軋みにはならず、精妙の極み。君と同じくらい良い。カントが付いているのかもしれない。
あたかも嘘をつく人のように、私は口疾にまくしたてた。
―なぜ私と比べるの?「かんと」って…、からかっているの?
―違うよ。割れ目ちゃんとも、プロイセンの哲学者とも、関係ない。
線路を少しカーブの内側に傾けてね。ほら、遠心力をスポイルするのさ。
それはさておき、よくもまあ僕の背中を発見したものだね。
―匂いがしたのよ。
―ははあ、随分と腹を空かせていた、ということかな。
―馬鹿。知らない。留守宅と知りながら、あたりをうろついていた不審者のくせに。110番通報しますか、それとも冷えたビールにしますか。
約束なしの訪問をおんなが喜び、たちまち没我の時間に巻きこまれた短い時期があった。
その頃の鮮烈さは次第に遠ざかり、おんなと家人との違いはどんどん小さくなってしまった。
ならばそろそろ潮時だろうか。そう思いはしても、馴染んでしまえば、こうした関係に切り上げ時を見つけるのは難しい。
私は自分を少しずるいと弁えてきたつもりだが、おんながもっとずるくないとも言われまい。ずるずるはお互い様である。
スプモーニの栓を飛ばし、カットメロンに巻き付けた生ハムを口に運び、スモークチキンとサニーレタスを指で引き裂いてむしゃむしゃと頬張り、ブルーチーズをなすりつけたライ麦パンを咀嚼する。
近所の食料品店で買いこんできたなりの、いつもの「キャンプ飯」である。
納豆ジュース、と呼んでいるギネスに飽きかけた頃、互いの息が荒くなっていることに気づいて、野蛮人は晩餐を途中でおっぽり出す。
体の芯を綯い合わせると、やがておんなの唇から、細い声が漏れ始める。
レールと車輪は協奏するが、私たちのことで溢れ出るのは、おんなの声ばかりである。
快楽を深めようとする技巧ではなく、抑制が効かずに洩れ出す声だけれど、往きつ戻りつするあいだ、弱音器の向こう、かそけき声は、獣の営みのさなか、いっそ不釣り合いなほどに澄み渡る。
絹の声である。
朝日を浴びて純白に輝く練り絹が、閉じた私の目の奥に現前する。
この声がなければ、今日までの深入りはなかった。
それを、何故ともなく、今まで私はおんなに黙ってきた。
新幹線を聴いている背中を不意打ちにされて、つい口を滑らしてしまったのだ。
短い眠りに落ちて醒めると、今まで時折そうしてきたように、おんなは童女のような笑顔に還り、唇を尖らせて、いつか私がクチボソ・ラッシュと名付けたキスの雨を顔に降らせた。
おんなが嬉しいのであれば、それでいい。
しかし、私は自身の肉欲の中に蹲っている。引きこもっている。
感謝の思いがのびやかに拡がっていくのを感じるけれど、それでもゲームの手仕舞いを考えている。
気配を察したのか、胸の上のおんなは上目遣いに言う。
ー私、新幹線より良かった?
おんなの目を見て、私は答える。
ーああ、新幹線に劣るとも勝らない良さだ。しびれた。
ーはぐらかさないで。声が好きだなんて初めて聞いたわ。今までずっと黙ってたのね。
ー前はこういう声は、出なかったんじゃなかったかな。
ーでも、そうした声に気づいてからも、ずっと何も言わなかった。
ー・・・。
ー隠してたのね。
ー・・・。
ー変なひと。いいところを見つけたのなら、喜んで、素直に褒めてくれたら私だって嬉しいのに。秘密になんかして。
密着し、絡まりあい、のみ込まれ、嵌まり込み、ジグソーパズルの最後のピースを一緒に追い求めながらも、快楽は結局一人ひとりのものだ。
和合は虚妄だ。
性の快楽を、私は孤独と切り離すことができない。
そう。私は隠したのだ。
ー独り占めは良くないわ。
おんなは目を閉じて、そう言った。
窓を開けると、東京の湿った夜気がいっせいに部屋の中になだれ込み、新幹線が通る音が涼やかに聞こえた。
―こんな時間になっても、まだ働いているんだな。
―電車って大変ね。
―人間ほどじゃないよ。分かっているくせに。新幹線の座席だけれど、あの5人掛けのね。
―4人掛けもあるわ。
―そう、合わせて9通り。全列車のすべての座席が線路に対して9通りの位置関係にあるわけだ。
―3D上はそうでしょうね。
―1編成ざっと1300席。腰かけた乗客すべてが、時間差を置いて、定められた同じ空間に位置を占めて移動していく。途方もない数の旅客が、体格の差こそあれ、毎日、毎分、同じ線路の上を寸分たがわぬ位相で、びゅんびゅん、びゅんびゅん通り過ぎていくのさ。
奇妙だと思わないかい?究極の流れ作業というか、荷物や貨物だって個別の、それぞれの、事情を抱えた、いわばもっと「人間くさい」やり方で運ばれていくのだろうに。
―新幹線は16両連結の金太郎飴なわけね。いいな、私も金太郎飴しゃぶりたいわ。ね、一度くらい遠くに連れて行ってよ。
ー新幹線は大嫌いだ、と言ったつもりなんだけれど。
ーじゃあ、一番後ろの席を後ろ向きにして、壁に向かい合って、全新幹線の輸送状況に異議を申し立てましょう。
―バックで?
ー未来は後背位で進むものよ。ヴァレリーもそう書いていなかったかしら?
―後背位と書いてはいないけれど。
新幹線に異議申し立てか。昔は日本中が「夢の超特急」に沸き立ったものなんだが。
―聞いたことはあるわ。
―日本の「夢の超特急」が、世界の「SHINKANSEN」に落ちぶれ果ててしまった。残念至極。感心せん、とはこのことだ。
それはさておき、遠くに連れて行く件は、別なものをしゃぶって我慢してくれよ。
―嫌。今度は噛みついてやる。
―さすれば撤収、撤収。
とはいえ、君のお腹はいずれまた空く。その頃、またゆらりと訪ねて来ることでしょう。
―外れそうな天気予報みたいな言い草ね。あ、もう二度と来ないかも知れない、って思ったの?
―いいえ、体に未練がたっぷりあるがゆえに、私の意思など物の数ではないのです。
おんなは、ぷふッと吹き出した。
―正直なのはずるい証拠。でもお互い様ね。私の体ひとつで今は二人には十分だものね。
―思い直しているんだ。ライドシェアなんて案外「三方良し」かも知れない。
―まあ!、ありがとうございます。ふん、絶対いやなくせに。焼餅焼いて、あなたなんてたちまち真っ黒焦げよ。
刺激が欲しいの?私に飽きたの?
―そんなことはないよ。でもさ、自分の体ばかり特別扱いにして。僕の振舞いにも、いや僕自身はさておくにしても、僕の突起物には一応の敬意を払ってもらいたいかな。
―いつだって大切にしてきたつもりよ。まあるくて、長くて可愛いわ。昔の新幹線の先っぽみたい。いいこ、いいこ。でも早くいっては駄目よ。超特急はいけないわ。
―思い出した。優しさに感動したあまり、髪を撫でながら君の口の中でついスピー、スピーと寝落ちしたことがあった。
―開け放った窓の外の、桜の木がはらはらと花びらを散らしていた。そう、あれは本当に失礼の極みだったわ。阿部定じゃなくて命拾いしたわね。
―ああ、突起事項として心に刻んでおくよ。さるにても、やせ我慢と負け惜しみ。それが初老の生きる道。
おんなは、今度はからからと笑い声を立てた。
―しっ。窓が開いている。今ここに「腹の満ちた女」がいることがご近所にバレてしまうよ。
―わかってないのね。私、ご近所の殿方みんなにやられたいのよ。
ーやられたい・・・か。
そんなあけすけな言葉を、おんなが口にするようになったのは、随分と前のような気がするが、いまだに新鮮さを失わない。「ギャップ萌え」の賞味期限は、まだ先かも知れない。
私は自分の愚かさを、素直に肯定したいと思った。
おんなはまっすぐに目を見て「理想」を語る。
私には、このおんなの体というひとつの「現実」しかない。
乳首から泉へ、足指からうなじへ、サファリラリーのドライバーさながら、熱い肌の上を丹念に駆け巡って倦まない。
しかしその妄執も、所詮は、おんなのたなごころの上で遊ばされているのに過ぎない。
―帰るよ。
―どちらへ?
―君のからだのないところへ。
屈みこんで靴紐を結ぼうとする。薄闇に咄嗟には眼の焦点が合わない。
―あっ、いま目頭を拭いたの?泣かないで、泣かないで。男でしょ。あなたがしてくれないと私、私じゃなくなっちゃうのよ。
―うん、うん、突起事項として心に刻んでおくよ。ひっきりなしの新幹線のようには、いかないけれどね。
ロックを外し、ドアを開く。
身投げしそうな背中、とおんなが言った歩道橋を、おのずと二人ともめいめい探した。夜更けの歩道橋に人影はなかった。
ー大丈夫、だいじょうぶ、大乗仏教。
両肩に手を置いて、おんなの片耳に語りかける。
おんなは目を閉じたまま、微笑を湛える。
モディリアーニが描く女のような撫で肩を、両のてのひらでしばし慈しむ。
恋をしている。そんな「錯覚」は得てしてこんな時に起こりがちだ。湯冷めして引く風邪のように。
錯覚を錯覚と弁える理性を、いまだ失っていないことに自信を覚える。
安心とは、こういう時に用いるべき言葉だという気がする。
念のため、と自分に言い訳しながら、手すりにつかまり、一歩ずつアパートの階段を降りた。
路地を鍵の手に曲がると、馬鹿馬鹿しいほど道幅の広い国道が現れる。
ふと、遠い昔の或る日、私は誰かに手を引かれて、この道を横断したことがあるような気がした。
外国から飛来する旅客機群が、ターボジェットエンジンの切り裂くような金属音を自慢気に轟かせて、低い空を横切って行った。パン・アメリカン、ルフトハンザ、BOAC、KLM、尾翼に描かれたさまざまなマークは、運動会の校庭を彩る万国旗さながらだった。
その頃から今まで、私はいったい何をしてきただろう。
いま眼前をごうごうとよぎるのは、外国のコンテナを牽くトレーラーばかりである。
乗用車の灯火に向かって、闇雲に手を振り続けると、思いがけず反対車線から、一台のタクシーが現れて、車体をカーブの外側に傾けながら、結構なスピードでUターンしてきた。
運転手はドアを徐ろにスライドさせて、お待ちどうさまでした、と言い、私は慌てて威武をただし、仮寓のある街の名を告げた。
運転手は、坊ちゃんどちらへ、とは言わなかったようである。