ありがとう、ユキ ぼくが出会った奇跡 中編
【中編】
目覚ましをかけずに寝たのでぼくは彼女の足音に起こされた。カチャカチャと床とつめがこすれる独特の足音。
彼女はぼくが目を覚ましたことに気づくと小走りに近寄ってきて顔中なめまわした。
「おはよ。朝飯食うか?」
今日は日曜日で学校はない。午後からいつものようにバイトが入ってるのでそれまでにバイオリンを直して持って行くことにした。
あのモヤモヤした気持ちは多少残るものの昨日の夜ほどではなかった。すっきりした朝の空気や小鳥のさえずり、バイクの音、近所のおばさんの話し声が気持ちを少し紛らわしてくれた。昨日の夜、深閑とした暗闇の中ではその存在になっていたのは彼女だけだった。
朝食を用意しながらぼくは彼女の名前を考えていた。あまりこういうことは得意ではないがこのときある名前がふと頭に浮かんだ。
「お前真っ白だから『ユキ』でどうだ? きれいな名前だろ?」
彼女はしっぽを振ってぼくの足元に歩み寄ってきた。本当は餌を催促したのかもしれないがぼくはこれを「イエス」ととらえた。
「ほらユキ。朝はこれで我慢しろよ。今日ドックフード買ってきてやるから。」
ぼくは焼いたソーセージを差し出した。熱かったのでユキはしばらくの間それに手を付けられないでいた。
今日水原さんは姿を見せなかった。ぼくは持ってきたバイオリンを店に置いて帰ることにして、スーパーで買ったユキのドックフードをリュックに詰めて帰り支度をした。
「佑亮くん、おつかれ。手、大丈夫?」
敦子さんがぼくに言った。
「ああ、平気です。」
実は今日、久々にグラスを割って指を切ってしまった。水原さんが入ってこないかとずっとドアに集中してしまい手元をきちんと見なかった代償だ。あまりに久々だったので店長たちの賭けは誰も内容を覚えていなかった。
帰り際店長がぼくの指を見つめて言った。
「悪いな、絆創膏切らしてて。家帰ってちゃんと貼っとけよ。」
「大丈夫ですよ。そんなにたいしたことないですから。それよりも割っちゃってすいませんでした。」
ぼくは軽く頭を下げて店を出た。外は薄暗くなっていた。いつもの道を歩きながらぼくは水原さんのことを考えた。
あの噂は本当なんだろうか? 教授と付き合ってるっていう。
その事を考えるたび重苦しい気分になった。バカかぼくは…。考えない方がいいのに。さっさと帰ってユキに会いたい。ここからは少し速足で行こうと右足の親指に力を入れたとき、ぼくを呼ぶ声が聞こえた。
「高梨さん!」
ぼくは半ば信じられず振り返った。
水原さんが小走りで近づいてくる。手にはぼくが直したバイオリンがあった。
「ど、どうしたんですか?」
ぼくはとても驚いて言った。
「これ、さっき店に取りに行ったんです。そしたら店長さんが今さっき帰ったところだっておっしゃったので…。お礼が言いたくて追いかけてきました。」
息を切らしながら彼女は言った。
「そんな、たいしたことしてないですよ。わざわざありがとうございます。」
「いいえ、一言お礼が言いたくて。本当にありがとうございました。」
彼女は深々と頭を下げた。
「あの、もうすぐ暗くなるし送って行きますよ。」
自然に言葉が出た。あんなに彼女のことを考えまいと努力していたのに自分から一緒にいる時間を選ぶなんて少しおかしく思えた。
「それじゃ、お願いしようかな。少しお話もしたいし。」
彼女とぼくは歩き始めた。
日はもうとっぷり沈み、空は暗く肌寒い夜に変わっていた。ぼくは彼女の歩幅に合わせながら歩いた。会話が続くか心配だったが思ったより彼女は口数が多く、ぼくにいろんな質問をした。どこの大学で年はいくつだとか、いつからこの町にいるのかとか、バイトは面白いかとか。
そしてお互いの年が分かり、自分の方が一つ上だと知った彼女はぼくに敬語を使うことをやめた。ぼくにもそうするように薦めたがぼくにとって彼女は年上なので少し抵抗がある。だがなるべく使わないようにした。
彼女は案外人懐っこくてぼくの下の名前を教えるとそれを使って呼んだ。無邪気に話す彼女は喫茶店で見た時とはまるで違って見えた。もうすぐ彼女の家に着くというところで彼女がぼくに言った。
「送ってくれて本当にありがと。何かお世話になりっぱなしよね。ねえ、今度何かご馳走させてくれない? バイオリンとボディーガードのお礼。」
「そんな…。悪いよ。本当にたいしたことしてないんだからさ。」
「いいから。だって、さっきから気になってたんだけど、その手、バイオリンを直すときに怪我したんじゃないの?」
彼女はぼくの指を指して言った。
「いや、これは…」
仕事中にぼくの不注意で切ったんだと言おうとしたがその前に彼女が言った。
「ね、水曜日またバイト先に行くわ。その夜一緒に食べよ。おいしいパスタ屋さん知ってるんだ。」
ぼくは何も言わずに頷いた。
「じゃ、決まり。家はその角曲がってすぐだからもうここでいいよ。お休みなさい。水曜にね。」
手を振って彼女は帰って行った。彼女が角を曲がった後もぼくはしばらくその角を見つめていた。心臓の鼓動が早くなっているのがわかった。
彼女と次会う約束をしたんだ。しかも2人っきりで食事。これってデートみたいじゃないか。
嬉しかった。あれだけ彼女のことを考えまいとしていた自分がうそのように思えた。今は抵抗する隙なんてない。また彼女に会える。それだけで嬉しさでいっぱいになった。一役買った指をなでながらぼくは暗い道を一人帰って行った。
家に帰るとユキが嬉しそうに走ってきた。ぼくがしゃがんで迎えると彼女はくんくんとぼくの体のにおいを嗅ぎ回った。
水原さんの匂いでもするんだろうか。
一通りチェックし終わると、前足でぼくの足をカリカリ掻き始めた。ご飯の催促をしているようだ。ドックフードを用意しながらぼくは今日あったことをユキに話して聞かせた。ユキはぼくの声がすると言葉を逃がさないように耳をピンと立てて聞いてくれた。
ぼくの話も全て終わり、彼女の食事も終わると前足をぼくの肩にかけて抱きついてきた。おめでとうと言ってくれてるのか、それとも女性の話で喜ぶぼくにやきもちを焼いて甘えてきたのかわからなかったがぼくはユキを抱きしめて言った。
「また聞いてくれよな。」
ぼくはユキの顔にキスをした。彼女はくすぐったそうに顔をよけた。
水曜日がやってきた。2、3日なんていつもはあっという間に過ぎるのに、この水曜を迎えるまではとても長く感じた。いつものようにバイト先で仕事をこなしていると店長が言った。
「お前、これから何か予定あんのか?」
「ええ、ちょっと約束があるんです。」
「わかった。水原さんだろ?」
どうしてこうも簡単にバレるんだろう? ぼくの言動がヒントを出してるんだろうか。誤魔化すのは得意じゃないので、
「そうですけど。」
と素直に認めた。
「良かったな。お前らうまくいったんだ。」
ニヤニヤしながら店長が言った。
「うわ~、ショック! 私たち佑亮くんのファンだったのに。」
奥さんと敦子さんが声をそろえて言った。
「そんなんじゃないですよ。この前バイオリン直したお礼してくれるみたいで。」
「まあ、なんにしても女の気持ちの相談なら私たちにしてね。」
敦子さんが言った。
「間に合ってますから。」
ぼくは笑って言った。
「あら、女友達も充実してるの? 佑亮くんは。」
奥さんが意外そうな顔をして言った。女友達はいない。いるのはユキだけだ。
「まあ、少しは。」
適当な返事をした。奥さんと敦子さんは、
「若いっていいわね~。思い出すな。私も学生の頃はさ…。」
といって自分たちの思い出を話し始めた。
あの時具体的な時間を言ったわけではなかったので、ぼくは水原さんが来るまでは待つしかなかった。今日のバイトは6時で終わりだがその時間になっても彼女はまだ現れなかった。「仕方ない…店の外で待つか。その方がからかわれなくてすむし。」そう思ったので帰り支度をしてドアに手を掛けると、
「じゃあな、頑張れよ、佑亮!」
からかい混じりの店長の声が後ろから聞こえた。
「お疲れ様でした~。お先です。」
ぼくが苦笑いしながら店を出ると、
「お疲れ様!」
水原さんの明るい声が後ろから聞こえてきたので慌てて振り返った。
すると彼女はドアの横の柱にもたれて立っていた。中からは死角になる場所だ。
「いつから待ってたんですか? 入ってくればいいのに…。」
「入ったら注文しなきゃ悪いし、佑亮くんに気を使わせちゃうと思って…。」
「寒くなかったですか?」
「大丈夫よ。それより佑亮くん、また敬語になってる。やめてってば。」
彼女は細い肩をすくませると笑いながら言った。
「あ、そうだった。ごめん。」
「じゃ、行こ。」
ぼくたちは駅の表出口のほうに向かって歩き出した。
お店に着くともうすでにたくさんのお客さんがいた。待たなくてはいけないかと思ったがぼくらでちょうど満席になった。店員に案内されるまま席に着き、何にしようか2人でメニューを見ていると水原さんが黒板にカラフルなチョークで書かれた今日のオススメに気づいた。
「これにしよう!」
と水原さんはぼくに言った。ぼくは何でもよかったのですぐ賛成した。
そのお店は内装がとにかくかわいくていろんな物が置いてあった。テーブルが10組ほど置いてあったが窮屈な感じは全くなく、人が通るスペースはきちんと確保されているのでぶつかる心配はなかった。丸いテーブルの中央に赤いきれいなキャンドルが置いてあり、花が飾ってあった。いかにも女の人に気に入られそうなおしゃれな店だ。待っているお客さんは全員女性で店員に男性は2人ほどいるものの男性客はぼく1人だった。
店内を見渡してると水原さんが言った。
「ここのお店いいでしょ? 友達とよく来るんだ。」
「そうだね。男同士じゃあまりこういう所は来ないからすごく新鮮に感じるよ。」
「そういえば、佑亮くん彼女いる? この前つい誘っちゃったけど、いたら悪かったかなって…。」
いきなりそういう話題になるとは思ってなかったのでドキリとした。ぼくは慌てて答えた。
「いないよ。水原さんは?」
こう言ってしまった事を少し後悔した。避けておきたかった話題。でも確かめたかった話題。
少しの沈黙の後、彼女は言った。
「いたよ。ついこの間まで…。」
ぼくの心臓が倍に膨らんだ気がした。
「別れ…たの?」
「そ。ホントつい最近ね。ほら、佑亮くんに初めて会った日、あの日に別れたの。別れ話が終わって気持ちを落ち着けるためにお茶でも飲もうと思って、佑亮くんの喫茶店に入ったのよ。」
「そうだったんだ…。だからなのか。」
「だからって。何が?」
「いや…、あのバイオリン見てる水原さんがすごく悲しそうに見えたから。」
そしてとても綺麗だった。けどそれは言えなかった。
「うそー、やっぱりばれてたか。」
彼女は舌を出して笑いながら言った。
「バイオリンは彼に教えてもらったんだ。彼は私の大学にいる教授の息子さんでね、音楽一家に育ったの。だからプロ目指しててさ。この間ウィーンに留学することが決まっちゃたんだ。要するに遠距離。それがいやで別れちゃったの。」
そういう訳だったのか…。別に教授と付き合ってたわけじゃないんだ。その息子とだったんだ。しかも今は別れたんだ。ぼくの中で何かモヤモヤしたものが少しずつ消えていった。
「バイオリン直したの余計だったかな?」
「いいの、いいの。私も一人で続けようと思ってたから。気にしないで。ホント、ありがとね。」
彼女は長い髪をかき上げながら言った。そのとき彼女の口元が瞳に宿った哀愁を隠すように笑っているのがぼくには分かった。何か違う話題を振ろうとしたが思いつかずぼくらの間に少し沈黙が流れた。
その沈黙を破ったのは店員が運んできたパスタだった。彼女はそれをテキパキとお皿に取り分け料理の話をしたので、ぼくらの間に再び自然な会話が生まれた。
それからぼくたちはいろんな話をした。自分たちの生い立ちや、地元の自慢話、今の生活について満足しているかなど。特にユキのことを話すと彼女はとても喜んで聞いた。彼女も犬は好きらしいが両親が嫌いなので飼えないそうだ。今度ユキを見たいと言ったので、もちろんぼくは承知した。
話の間彼女はいろんな表情を見せた。ユキのことやバイトでの失敗談なんかを話すとたちまち彼女は子供のような無邪気な顔で笑い、人間関係の愚痴なんかを話すと「わかる、わかる」と言って頷きながら眉を寄せた。
ぼくは思った。初めて見た彼女の顔、あの寂しそうな顔はきれいだったが、今見ている顔のほうがずっときれいだ。
彼女の笑った顔がぼくは一番好きだった。
最初に会った時ぼくは彼女の笑顔を見たいと思った。その願いは今叶っている。だけど……。
ぼくは欲張りだ。
彼女のこの笑顔を独り占めにしたい、誰よりも一番近くで見たいと強く思った。そしてぼくは最後まで否定したかったことを認めた。
ぼくは彼女が好きなんだ。
そう認識すると、とても楽になった。とても嬉しかった。
そう思ってから彼女と話すこの時間がさっきよりもずっとずっと幸せに感じた。この時間がずっと続いて欲しかった。
支払いのとき、やはり全て出してもらうのは悪い気がして割り勘にしようと言ったが水原さんはそれを拒み、ぼくは結局おごってもらうことになった。いくらお礼とはいえ女性に出させるのは気が引けたが彼女の好意に甘えることにした。
店を出て暗い夜道をぼくらは歩いて行った。彼女との別れ際ぼくは思い切って訊いてみた。
「あのさ、連絡先教えてくれない?」
彼女は微笑むとこう言った。
「いいよ。じゃ、佑亮くんのも教えて。」
家に帰るとユキは真っ暗な中、座布団の上で丸くなって寝ていた。小さな音ぐらいじゃ気づかずぼくが電気をつけて名前を呼ぶと起きた。ユキはぼくを確認するとすぐにしっぽを振りながらぼくのそばまでやってきた。ぼくはすぐユキに今日あったことを話しはじめた。
水原さんのことで興奮気味だったぼくの第一声はユキが予想していなかったくらい高かったのか声を聞くなりいつもと違うぼくに驚いて首をかしげた。でもすぐに慣れたみたいでいつものように聞いてくれた。
その間ぼくはユキを抱いたり、執拗に体をなでまわした。さすがの彼女も嫌気がさしたのかジタバタ暴れだしベッドへ飛び移った。ぼくがそばまで行くと彼女はぴょんと飛び降り台所にある自分のお皿をくわえてエサをねだった。
「ごめん、ごめん。腹減ってるよな。」
ぼくは自分の一方的な話を反省しユキの皿にドッグフードを盛った。しかし彼女が食事をしている間もぼくは同じことを何度も何度も話した。
いつもは耳を立てる彼女が今日はぼくの言葉を流すように下を向けたままもくもくと食事をしていた。
水原さんと食事をしてから一週間近く過ぎたがあれから一度も連絡を取っていない。バイト先に来てくれるかと期待したがそれも叶わず、携帯の番号を訊いたものの使い道といえばたまにその番号を画面に映し出して眺めるだけで掛ける勇気はなかった。
やはり何かきっかけがなければ掛けにくい。かといって無理やりきっかけを作れるほどぼくは器用じゃなかった。しばらくは番号を眺めるだけの日が続いた。しかし思わぬところでチャンスはやってきた。
その日の授業は休講が一つ出たのでいつもより早く帰ることが出来た。校門のところまで行くと隆志の彼女の朋美さんが門のそばに立っていた。彼女はぼくに気づくと手を振り、笑いながら話しかけてきた。
「佑亮くん。この間はありがとう。今帰るとこなの?」
「そうですけど、朋美さんは隆志を待ってるんですか?」
「うん、そう。ね、あれから水原さんとどうなった?」
これといった世間話もなくストレートに聞かれたのでぼくはかなりびっくりした。彼女の目は興味で満ちていた。
「どうって…。バイオリンがきっかけで友達になりましたけど…。」
決まり悪くぼくは答えた。
「ふーん、友達ね。何か最近教授と別れたみたいだからもしかして佑亮くんのせいかなって勝手に期待しちゃってて。あっ、この間あの子の話したとき佑亮くん彼女に興味あるように見えたから。」
朋美さんはさっきした質問をフォローするように言った。
「ああ、その噂間違いみたいですよ。付き合ってたのは教授じゃなくてその息子さんだって。最近別れたのは本当らしいけど。」
「え? なんだ。そうなの? じゃ、今まで一緒に帰ったりしてたのは息子さんに会うためだったんだ。なぁんだ、そっかぁー…。」
彼女は少し残念そうに言った。話としてはもう少しスキャンダラスな方がよかったんだろう。
「それにしてもそんなこと話すくらいまで仲良くなってんのね。」
「いや、話の成り行き上そうなっただけで…。ところで彼女元気ですか?」
「最近全然見ないわね。だいぶ休んでるみたい。」
「え? 休んでる? いつから?」
「わかんないけど。ここ一週間近く全然授業でてないわね。」
一週間近くということはぼくと会ったときも学校を休んでたのか。具合悪そうには見えなかったけど、どうしてだろう。
そのうち隆志が来たのでこの話は続けられなかった。隆志が入るとまた茶化すに決まっている。ぼくは2人に軽く挨拶すると、そそくさとその場を立ち去った。
2人と別れてからぼくは携帯を取り出し水原さんの携帯番号を呼び出した。少しの間その番号を見つめてからぼくは思い切って「発信」のボタンを押した。
ドキドキした。
呼び出し音の間ぼくは深呼吸をして自分を落ち着かせた。しばらくすると彼女が出た。
「もしもし? どうしたの。」
彼女は少し驚いた声で言った。
「いや。あの…、大丈夫かなと思って。いや。あっ、こないだありがとう。」
思ってることが断片的に口から飛び出して取り留めのないことを言った。
「いえいえ、こちらこそ。」
ぼくの緊張が伝わったのか彼女はぼくを落ち着かせるように柔らかく笑って言った。
「えっと…、学校休んでるんだって?」
「え? どうして知ってるの?」
彼女は驚いて答えた。
「おれの友達の彼女が水原さんと同じ大学なんだ。それで今聞いて…。」
「へ~、そうなんだ。大丈夫。ただのサボりだよ。」
明るい声で彼女は言った。
「あ、そっか…。だったらいいんだけど。ちょっと気になったから。」
「へへへ、ありがと。」
それを聞いてしまうともうしゃべることが無くなってしまった。少し沈黙が流れたので焦ったぼくは、
「あ、そうだ。ねえ、『ユキ』覚えてる?」
「覚えてるよ。佑亮君が飼ってるワンちゃんでしょ?」
「今から散歩いこうと思ってるんだけど一緒に行かない? 水原さんユキに会いたいって言ってたからさ。」
言った後で唐突過ぎたかと少し後悔した。彼女はしばらく黙っていたが、「そうね。じゃ、今から駅まで行くよ。」
と言った。
「うん。わかった。」
胸が高鳴った。
ユキの散歩はいつも時間があるときにやっていた。学校とバイトの関係で大体は夜になってしまう。昼に行くことはめったにないのでぼくが家に帰ってリードをつかむとユキはぴょんぴょん跳ねて喜んだ。
ぼくはユキに引っ張られるようにして駅に向かった。昼間に出してくれたことがよっぽど嬉しかったのかいつもよりもリードにかかる力が強かった。前足を懸命に動かし明らかにユキは走りたがっていた。走るのが苦手なぼくだがこの日は喜んでこの誘いに乗った。
ゆっくり流れる午後の時間を走り抜けると世界記録保持者よりも早く走ってるような気がした。ぼくらを取り巻く景色が暖かい太陽の光と混じってきらきら輝き美しくぼくらを包んでくれた。白いガードレールは七色に光り、鮮やかな緑の草むらに美しい曲線を描いていた。コンクリートの地面にはディフォルメされたぼくらの影がくっきりと映し出されて、どこまでもユキとぼくを追いかけた。
ただの午後の光景がこんなに美しく見えるなんて、水原さんに会える嬉しさがぼくの目に飛び込むもの全てを浄化しているようだった。
そのときぼくはふしぎな気持ちに気づいた。「水原さんに早く会いたい」そう思って走っているのだが、その反面そうなるのを拒んでいる自分がいたのだ。彼女に会いたいがこの道もずっと続いてほしいと願っている。彼女へと続くこの道を走っているのが幸せだった。彼女にだんだん近づいていく喜びをずっと肌で感じていたい。終わらせたくない。そんな気持ちだ。
駅に着くと水原さんがすでに待っていた。彼女は学生たちがよく待ち合わせに使う柱時計の下で本を読んでいたがユキとぼくを見つけるとすぐに手を振って走ってきた。
「かわいい~。思ったよりちっちゃいね。何て犬種だろ?」
ユキの体を撫でながら彼女は言った。
「わかんないけど。スピッツかなんかの血が混じった雑種じゃないかなと思うんだ。」
ぼくは息を切らしながら言った。
「こんなにかわいいんだもん。種類なんて何でもいいよね。」
彼女はユキを見てはしゃぎながら頭をなでた。子供みたいに無邪気な笑顔がかわいかった。
「それより、遅れてごめん。」
「いいよ、そんなの。大丈夫? 走ってきたんじゃないの? ユキちゃん急がせちゃったね。」
「そんなことないよ。こいつが走りたがったんだ。昼間出してやるなんてめったにないからさ。なあ、ユキ。」
ユキはしきりに彼女の手のにおいをかいでいる。
「香水くさいのかな?」
水原さんは苦笑いして言った。
「大丈夫だよ、それくらい。」
「だといいけどね。これからどこ行く?」
「散歩はいつも川原のほうに行ってるんだ。そこでいい?」
「うん。ユキちゃんが慣れてる場所のほうがいいもんね。ね、私にリード持たせてくれない?」
「いいよ。」
ぼくたちは歩き出した。
川原はよくユキと来る場所だった。普段は日が暮れてから来るので日の当たる川原はまるで初めてきた場所のように思えた。
「いいとこだね。ここ。」
辺りを見渡して水原さんは言った。
ぼくらはコンクリートの道から外れて草の中へ入って行った。
「うん。昼間に来るのは初めてだけど。」
夜は静まり返って閑散としてるのに昼間なだけあって人の話し声や子供の笑い声、車やバイクの音などいろんな音が入り混じって聞こえてきた。
その曲に最初に気づいたのは水原さんだった。
どこからか音楽が流れてきたのだ。どこかの家でCDでもかけているんだろう。綺麗なメロディだった。
「あ、私これと同じCD持ってる。」
彼女が嬉しそうに言った。
「へえ、やっぱり音大生だね。おれクラシックはほとんど知らないなぁ。この曲はなんていうの?」
「バッハの『アリオーソ』。」
「ごめん。やっぱり知らないや。水原さんはほかにどんな曲が好き?」
すると彼女がこの質問には答えずにクスリと笑って言った。
「ねえ、気を悪くしないでね。佑亮くんて自分のこと『おれ』って言うでしょう? それ誰にでもそう言うの?」
この質問はかなり意外だったので少し戸惑った。
「え…、うん。何で?」
本当は家族の前では「ぼく」と言っていた。「おれ」と言い出したのは高校に入ってからだった。もともとそんなに活発ではなかったし体もそんなに大きくなかったから、少しでも自分を大きく見せるために使い始めた言葉だった。でもそんな不順な動機で使い始めたなんて言えるわけがなくウソをついた。
「ふーん。佑亮くんは『ぼく』って使ったほうがしっくり来るから。これは本当に私のイメージだから気にしないで。別に『おれ』がおかしいってわけじゃないの。」
なんだか見透かされてる気がして、ぼくは恥ずかしくなった。気にした態度が表に出たのか彼女は話題を変えた。
「それよりさ、ユキちゃんて佑亮くんのアパートで飼っていいの?」
「ううん。本当はダメなんだ。内緒で飼ってる。」
「バレない?」
「うん。こいつ吠えないし、今のところ大丈夫。」
「そっか。でも秘密にするって胸苦しくなるよね?」
「まぁ、そうだよね。大家さんにバレた時怒られるだろうから。」
「やっぱ、そうだよね…。」
彼女はそう言うと遠くを見つめて急に黙り込んでしまった。
明るい日差しの下で、全てのものが輝いて幸せそうに見えるのにその景色に彼女の言葉が溶けると少しどんよりとした。頬にうっすら風を受けて目を細めている彼女はどこか寂しげだった。
その横顔を見たときある光景が頭をよぎった。
彼女と初めて会ったとき、あのバイオリンを抱いていたときの彼女だ。あの時と同じ顔をしている。彼のことを思い出しているんだろうか…。
「でも大丈夫だよ、今んところは。アパート出るときバレるかも知んないけど。」
沈黙を破るようにぼくは言った。彼女は遠くを見たまま動かない。
そのときユキが走り出した。突然のことに彼女は慌ててリードを引くと、
「ユキちゃん、走りたいみたい。一緒に走ろうか?」
といつもの顔で笑った。
「うん。」
ぼくたちはユキに連れられ川原に沿って走り出した。ユキと2人で走ったときよりも少し景色がくすんで見えた。
「なあ、佑亮。お前コンサート行かない?」
隆志が学食で声をかけてきた。ぼくは彼の手の動きを察知して最後のエビフライを取られまいと急いで口に入れた。仕方なく彼はプチトマトを口に運んだ。
「コンサートって誰の?」
エビフライを頬張りながらぼくは聞いた。
「何か、クラシックらしい。おれあんまし興味ないんだよね。朋美が好きでチケット取ったんだけど昨日あいつん家の親戚のおじさんが亡くなったとかで行けなくなったんだ。もったいないからどう? えっと時間は…明日の7時から。」
チケットと一緒にもらったチラシを見てみると演奏曲に「アリオーソ」があった。この前水原さんに教えてもらった曲だ。ぼくは誘う口実が出来ると思い喜んで、
「うん。もらう、もらう。」
「よっしゃ。じゃ、一枚五千円ね。」
「え? 金取んの?」
「もち。半額だぜ。」
「わかった。買うよ。」
ぼくはなけなしのお金をはたいてそれを購入した。
学校が終わってからぼくはすぐに水原さんに電話した。相変わらず少し緊張はしたものの2度目の電話は初めての時よりもスムーズに出来た。コンサートのことを話すと彼女はすぐにOKしてくれたので明日の6時にぼくたちは駅で待ち合わせをした。
出かける前、ぼくはユキに早めの夕食をやった。いつもと違う時間だったがそんなことお構いなしにユキはぺろりとたいらげた。
ぼくが時計を気にしながら立ち上がると彼女はぼくに飛びついてきた。お座りをして右前足を上げている。「かいて」のポーズだ。ぼくは軽くおなかをかいてやると急いで玄関に向かった。ユキはいつもより執拗にぼくを追いかけてくると、まるで外出を邪魔しているようにドアの前に座り込んだ。
「おい。頼むよ。ユキ。」
ぼくは彼女をまたぐと強引にドアを開け外へ出た。ドアの隙間から見えた彼女は、ぼくに甘える女の子と言うよりも心配そうに見送る母親のようだった。
この日は水原さんのバイト先から会場が近いこともあって直接会場前で待ち合わせた。ぼくはいつもより急いだつもりだったが彼女はもう会場の壁にもたれて文庫本を読んでいた。
「ごめん。待たせて。」
ぼくは急いでかけよるとチケットを探し始めた。
「ううん。まだ待ち合わせ時間過ぎてないじゃない。私が早く来すぎちゃったの。」
「もう中に入れるよね? 行こうか。」
「うん。」
ぼくたちは並んで会場の中に入っていった。
傍目から見るとぼくたちはきっと恋人同士に見えるんだろうなと思うと嬉しくなった。何だが皆にぼくたちを見てもらいたいという気持ちでいっぱいだった。そのときぼくらの前を歩いていた男女が手をつないでいるのが見えた。当然ぼくにはそんな権利がなかったので羨ましく思ったが、今は並んで歩けるだけで充分だった。演奏が始まる前彼女がぼくに言った。
「佑亮くんはクラシックコンサート初めてなの?」
「うん。クラシックは音楽の授業で聞いたくらいで全く自分じゃ聞かないから…。」
ぼくが少し不安げに言うと、
「きっと感動すると思うな。」
彼女は微笑んで言った。ぼくは期待しながら始まりを待った。
演奏が始まると会場内の空気が一変した。バイオリンの音が徐々に空気に溶け込み会場全体を柔らかく包み込んでいった。一曲目から全く聴いたことのない音楽だったがぼくは目を閉じてその音色に酔いしれた。素人のぼくでも分かる、本場の演奏はやっぱりCDとは全然ちがう音だった。
水原さんの言った通り、初めてのぼくにとってクラシックは感動できるものでどれもすばらしい音楽だった。
でもそれ以上に水原さんと2人同じ空間に包まれている事が幸せだった。そんな幸せな気持ちに浸っていると、聞いたことのある音楽が聞こえてきた。すごくきれいで、透明な真水のような音楽だった。
この曲は何だろう。
パンフレットに目をやると「アヴェ・マリア」と書いていた。あぁ、楽曲名も聞いたことのある有名な曲だな。そう思ったとき、隣からかすかに鼻をすする音が聞こえてきた。ぼくの勘が鋭く働いた。いやな予感がした。視線をゆっくり水原さんのほうに移すと予感が的中していることが分かった。
涙を流している。
彼女の右目から一筋の涙が流れていた。それからのぼくは彼女のことが気になって全くコンサートには集中できなかった。コンサートが終わると、
「あ~、久しぶりに会場で聞けて良かった。やっぱり感動した! 佑亮くんは?」
感動…、あれは感動して泣いてたんじゃないよね、きっと。どうしてあの時…。ぼくは心の中でそう思ったが、
「…うん、そうだね。良かったよ。」
ぶっきらぼうに答えた。
「ねえ、どの曲が好きだった? 私はね…」
帰り道、水原さんはそんな風に何回か話しかけてくれたが会話は続かず、ぼくらの間にぎこちない雰囲気が漂った。
駅に向かう途中この重苦しい空気を気にして彼女が言った。
「どうしたの? 佑亮くんさっきから押し黙っちゃって…。クラシック気に入らなかったの?」
「ううん…。そんなんじゃないんだけど。」
ぼくはうつむいたまま言った。
「でもなんか怒ってない?」
「別にそういうわけじゃ…。」
「でも様子おかしいよ。」
「……。」
ぼくは少し間を置いてから彼女の顔を見て言った。
「…5曲目で泣いてなかった?」
その問いかけに彼女は少し動揺したがすぐにいつもの明るい声で、
「ああ…。あれね。見られちゃったか。何でもないのよ。ちょっと思い出しちゃっただけ。ごめんね。」
照れ笑いをして言った。その笑顔を見たときぼくの予想が確信に変わった。
「もしかして前の彼氏のこと?」
彼女はぼくの顔から視線を外すとうつむいて言った。
「…まあ、そんな感じ。」
「何かつらいことがあったのはわかるけど、一人で抱え込んでない? 言ってくれればなんでも聞くよ。」
ぼくは言った。
「ありがとう。でも、ほんと何でもないんだ。単なる失恋音楽ってやつ。あるでしょ? そういうの。何か見たり聞いたりしたらズキンって来ちゃうヤツって。」
ぼくは体が熱くなっていくのを感じていた。彼女がこの話題を終わらそうとしていることが分かったが、ぼくはどうしても話しを続けたかった。
「まだ、吹っ切れてないんじゃないの、彼のこと。まだ好きなんじゃないの?」
こんなこと言ってはダメだと思ったが口が勝手にしゃべってしまう。
「そんなことないよ。もう終わったことなんだから。」
彼女は少し戸惑ったように答えた。
「だったらなんで泣いたりするんだよ。何でもないんだったら泣くはずないだろ?」
彼女の困っている姿を見てもぼくは自分を止めることは出来なかった。
「…何でそんな事言うのよ。」
彼女の表情が変わった。
「何でって…。そりゃ気になるよ。沈んだ所見せられちゃ、誰だって…。」
すると彼女はぼくの言葉を遮るように、
「佑亮くんには関係ないでしょ。そっとしておいてよ、人には触れてほしくない部分っていうものがあるんだから!」
そう言い放つとそのまま駅のほうに走っていった。
ぼくは追いかけることも出来ず、ただそこに呆然と立ち尽くしていた。数分後ようやく止まっていた思考が動き出した。
ぼくが過去のことを聞いたのは彼女のことを思って言ったんじゃなかった。全て自分のためだった。彼女が別れた彼に向けている思いはどれくらい残っているのか確認したかったからだ。自分の欲求を満たしたいばかりに彼女を悲しませてしまった。
全てぼくの嫉妬が原因だったんだ。
それが分かったときぼくは自分のとった行動を心から恥じた。好きな人にあんな顔させるなんて…。ぼくは大きな後悔と自己嫌悪を抱えながらゆっくりと家に向かって歩き出した。
家に着いてドアを開けると玄関にユキがいた。ぼくの顔を見るといつもは飛びついてくるのにユキは寄ってこなかった。ぼくの様子がいつもと違うのがわかるのか首を傾げてぼくの様子を伺っていた。
彼女は本当に敏感にぼくの心情を察する。
ぼくはため息をついてそのまま部屋に入って行った。その後ろを控えめに彼女はついてきた。
どうしてぼくは水原さんにあんなことを言ってしまったんだろう。考えれば考えるほど自分が情けなくて、腹が立って仕方なかった。再び大きなため息をつくとぼくはベッドに座り込んだ。
肩を落としたぼくを心配そうに見つめながらユキはその場に伏せた。本当は近寄りたいらしく上目使いでぼくを見た。
ユキにまでいやな思いをさせることはない。
ぼくはいつものように手を広げて彼女が近寄りやすい形をとった。それを見るなりユキはぼくの足元に駆け寄りぼくのひざをカリカリかいた。ひざの上に乗せてやると彼女は真っ黒い鼻をぼくの顔に近づけてにおいをかいだ。ぼくが微笑むと彼女はぼくの鼻をなめた。
慰めてくれてるんだろうか?
彼女は何度も何度もぼくの顔をなめた。温かい舌を通して彼女の気持ちが伝わった気がした。
「元気出して」
そう言ってるようだった。
ユキはどんなぼくでも受け入れてくれる。怒っていても、泣いていても、笑っていても、情けなくても。
「ありがとう、ユキ。お前がいてくれて本当に良かったよ。」
ぼくがそう言うと彼女は満足そうに微笑んだ。
次の日ぼくは水原さんに電話をしようと携帯を取り出した。あの事をどうしても謝りたかったからだ。もし出てくれなかったらという不安がよぎったがこのまま終わらすわけにはいかない。嫌われてしまったかもしれないがせめて謝っておかないといけないと思い発信ボタンを押した。
初めて彼女に電話したときのように指先が震えた。いつもより呼び出し音が長く感じた。
彼女が出るのを迷っているんだろうか。留守電になるのではないかと思ったとき彼女が電話をとった。しかし何の反応もない。沈黙が重くてぼくが先に口を開いた。
「あの、佑亮です…。突然ごめん。でも、昨日のこと謝りたくて…。」
彼女はまだ黙っている。外にいるのか車の排気音がただ聞こえてくるだけだった。
「昨日は本当にごめん。心にずかずか踏み込むようなまねして。」
しばらくすると彼女が言った。
「…いいの、私もムキになっちゃってごめんね。私のために言ってくれたのに、ひどい事言って。」
予想もしなかった彼女の謝罪にぼくは驚いた。
「な、何で水原さんが謝るんだよ。悪いのはおれなのに…。」
「ううん。私が悪いの。心の整理も満足にできないで他人に当たっちゃたりして、ほんと情けないって帰ってから思ったわ。」
「そんなことないよ! 頭で考えたことがすぐ実行できるほど心のつくりは簡単に出来てないんだからさ。ほんと、悪いのはおれだからね。水原さんが落ち込むことないよ、全然。でもそうだよ、誰だってそんな時あるよ。自分が思ってるのと違う行動とっちゃうやつ。人間だったら誰でもあるって、ない人なんていないんだからさ。おれが小学校の頃…」
自分でも何を言ってるのかわからなくなってきた。ただ彼女の罪悪感を取り除こうと必死だった。
慌ててしゃべるぼくの様子に電話口からクスリと笑う彼女の息が漏れた。
「ねえ、明日時間ある?」
ぼくに助け舟を出すように彼女は言った。
「ああ、えっと。うん、あるよ。バイトが5時に終わるからそれからでよければ…。」
「本当? じゃあ、駅に5時半に待ち合わせない? 話したいことあるんだ。」
「うん、わかった。じゃ、明日。」
携帯を切ったあともぼくは少し興奮していたので、とりあえず深呼吸して自分を落ちつかせた。彼女がぼくを許してくれた嬉しさと、自分がやらなければならなかったことを成し遂げた達成感に満足していた。
携帯を持ったまま固まっているとユキが寄ってきてぼくのひざをかいた。ぼくはいつもより激しく体を撫で回した。彼女は気持ちよさそうに寝転がってお腹を見せた。ふさふさの毛が心地よかった。ユキを撫でることでぼくはだんだん自分が落ち着いていくのが分かった。それは深呼吸よりもずっと効果のある方法だった。
それからぼくは水原さんの言ったことがようやく頭に入ってきた。
そういえば最後なんて言ったっけ? 話がある? 何の話だろう…。
さっぱり見当がつかなかった。再び考え込んでいるとユキはぼくの顔を覗き込んで鼻でぼくの唇にキスをした。心配しているのかと思いぼくは、
「大丈夫だよ。落ち込んでるわけじゃないから。」
するとユキはそのまま立ち上がり玄関のほうにテクテク歩いていった。そのままドアの前に座るとドアを前足でかいた。外に出たいみたいだ。
「外に行きたいのか? だめだよ。散歩まで我慢しろ。」
とぼくは言った。しかしユキはこっちに振り返ると前足でノブを触り開けるように催促しだした。ぼくがいくら呼んでも動こうとしないついにはノブに飛びつき自分でドアを開けようとした。明らかに外に出たがっていた。
ユキがこんな行動を取るのは今までなかったのでふしぎに思ったが、あまりに催促するので仕方なくぼくはドアを少し開けてやった。すると同時にユキはするりとドアの隙間を通り抜け、まるで何かを追いかけるようにすごい勢いで通りに飛び出していった。
「おい! ユキ…!」
ぼくが慌てて外に出たときにはもう彼女の姿はなかった。突然のことにぼくはただ呆気にとられた。こんなことは初めてだ。
ぼくはとりあえず周辺を探してみることにした。名前を呼びながら散歩コースをめぐり、直感であいつの行きそうなところを散策した。あの川原には2度ほど行ってみたがダメだった。一時間ほど探したあと、もしかしてもう家にいるかもしれないと思い帰ってみたがユキの姿はなかった。
そのうち帰ってくるかもしれない。
ぼくはしばらく家の中で帰りを待つことにした。玄関先で何か物音がするたびもしかしてと思い名前を呼んでみたがなんの反応もなかった。
夕食の時間になってもユキは帰ってこなかった。さすがに心配になったが、よく考えたらいなくなったのはこれが初めてではない。初めて泊めてやったときも次の日自分で出て行ってフラッと帰ってきたじゃないか。もしかしたら明日またねずみでもくわえて帰ってくるかもしれない。
その日はとりあえず寝ることにした。
ぼくの期待とは裏腹に、夜が明けてもユキは帰ってこなかった。もう帰ってこないんだろうかという不安がよぎったがもう少し待ってみることにした。いつものように学校に行きバイトを終えてぼくは水原さんに会うため駅に向かった。
この前は彼女に会える時間にだんだん近づいていくことが嬉しかったが、今日は何だか違った。水原さんが言っていた『話』というのが何かまるで分からなかったからだ。その話に期待している自分と不安に思っている自分がいた。
一体何の話なんだろう…。
駅に着くと水原さんは珍しくまだいなかった。時計を見ると待ち合わせの5時半を過ぎている。
仕方がないので行きかう人を見ながらぼくは彼女を待った。待つ時間が長ければ長いほど不安が期待を少しずつ飲み込んでいくのがぼくには分かった。学生たちが大きな声で話をしながら目の前を通っていく姿を見るとなんの悩みもなく見えて羨ましかった。10分ほど遅れて彼女はやってきた。
「おまたせ。待たせちゃってごめんね。」
水原さんはぼくを見つけると小走りに駆け寄ってきた。
「ううん。いつもぼくが待たせてるから。どうする? どっか入ろうか。」
「それよりちょっと歩かない?」
「いいよ、わかった。」
彼女とぼくは歩き出した。夕日がきれいだったのでもっとよく見えるスポットへぼくは彼女を連れて行った。
あの川原だ。
この前来たときは昼間だったが夕方から夜にかけてのここの景色は最高にきれいだった。夕日が沈む頃ユキとこの川原へ来ると、川の水面に夕日がきらきら反射してユキの白い毛がいつも鮮やかなオレンジ色に変わった。
ぼくたちは行きがけに買った缶コーヒーを飲みながら、2人でこの川原を歩いた。今日は人が少なく、キャッチボールを終えて帰ろうとしている小学生が数人いるだけだった。冷たい夕暮れの風がぼくらの間を吹き抜けていった。
ぼくたちはオレンジ色の夕日を浴びながら2人並んで歩いた。しばらく歩くと水原さんは夕日のほうに顔を向けた。
そのときぼくは妙な感じがした。
彼女は間違いなくぼくの近くにいるのにとても遠い存在に思えたのだ。並んで歩いているが足音さえ聞こえない。その向こうに見える夕日や川、住宅が彼女の存在を無視するようにぼくの目に強く映ってくる。一体何が起こっているのか分からず、ぼくは彼女の姿を離すまいと目を凝らした。
しかし次第に彼女の姿は薄れていった。
水原さんの体の色彩が周囲に溶け込み彼女の存在が希薄なものになっていった。そこにいるはずの彼女がぼくの目の前から消えて行く。ぼくからどんどん離れていく。
いや、離れていってるのは彼女だろうか? それともぼく…?
なんとも言いようがない感覚の中でぼくは必死に彼女に近づこうとした。しかし彼女は浮かんでこない。彼女がほとんど見えなくなったとき、その薄い残像の向こうにぼくの目は動く白いものを捕らえた。それはだんだん近づいてくる。かすかに揺れるしっぽが見えた。
「ユキ…!」
ぼくは思わず口にした。
「え?」
水原さんの声が聞こえた。ぼくはハッとし、近くに視点を合わせた。
水原さんがいた。
何一つ変わった様子はなく、彼女はすぐ隣でぼくを見つめていた。
「水原…さん? そこにいたよね? さっきからずっと…。」
わけが分からずぼくはただぼんやりして言った。
「え? 当たり前じゃない、何言ってるの? どうしたのよ、佑亮くん。」
彼女はふしぎそうにぼくの顔をのぞきこんだ。ぼくはもう一度あの白い塊が見えた場所に目をやったが、それはいつの間にか消えていた。
今のは一体なんだったんだろう。
水原さんは間違いなくぼくのそばにいるし、ユキらしきものはいない。ただの幻覚だったんだろうか?
「いや…。ごめん。見間違いだった。」
「見間違い?」
「実は昨日からユキがいなくなってて、さっきそこにいた気がしたから。でも違ったみたい。」
「ユキちゃんいなくなったの? 心配だね。一緒に探そうか?」
「ううん。あいつのことだから、自分で帰ってくると思うよ。」
ぼくがそう言うと彼女は「そっか」と答えたあと川原のほうを見つめて大きく息を吸った。『話』をするんだろうか。ぼくがしばらく待つと彼女は口を開いた。
「私今日佑亮くんに話したいことあるって言ったでしょ?」
「うん。何?」
ぼくは緊張しながらたずねた。彼女はゆっくりと言った。
「私ね。今妊娠してるの。」
脳の血液が一気に冷え、ストンと足首に落ちた気がした。彼女は続けた。「彼氏と別れた原因が留学っていうのはウソ。本当はこれが原因なの。でも彼はこのこと知らない。留学のせいだって思ってるわ。
私言えなったのよ。彼の留学が決まったとき、妊娠してるって…。せっかく夢に近づけたのに私のせいでダメになってほしくなかったから、だから遠距離はつらいって言って別れたの。でもいくらこれでいいんだって自分に言い聞かせてもやっぱりダメで、苦しくて…。」
彼女は落ち着いた様子で語ってくれた。ぼくは動揺を隠すように震える声を必死で抑えて言った。
「そんなの…。どうして水原さんだけ抱え込まなきゃいけないんだよ。彼にだって責任があるはずだろ? 話したほうが…。」
「それは出来ない。だから別れたの。私たちまだ学生だし、妊娠がわかれば彼、学校を辞めて働こうとしたわ。そういう人だもん。」
「でもその子、まだ水原さんの中にいるんだろ?」
「うん…。」
「どうするのその子…。」
「色々悩んだわ。一人で生んで育てようとも思った。でも現実的に考えるとそんなの無理なんだ。一人でなんてとても無理。だから堕ろそうと思って…。」
彼女の言葉が震えた。
「ねえ、もし佑亮くんが彼の立場ならどう思った?」
ぼくはしばらくうつむいて考えたあと、
「…そうだな。おれは話してほしいと思うよ、全部。好きな人が一人で苦しんでるのなんか見たくないし、そんな思いさせたくない。彼もきっとそうなんじゃないかな。」
彼女の顔を見ずに言った。
「そっか…。」
「本当はどうしたいの?」
「本当は…産みたい。大好きな人の子供だもん。」
彼女はうつむいたままかすれる声で言った。その姿を見たぼくは自分でも信じられないことを口にした。
「だったら、頑張れよ! 別れてからそんなに経ってないんだから、その人ともう一回話してさ。その子のこと正直に言って、産みたいって…。」
本当はそんなことしてほしくなかった。彼のことも子供のことも忘れてほしかったのに、彼女の泣きそうな顔を見ているとそんな言葉が出た。
「…。」
彼女はそのまま黙ってしまった。下を向いたまま動かない。
「ごめん。勝手なこと言って。口で言うのは簡単だよね。」
「ううん。聞いてくれてありがとう。でもやっぱりここからは自分で考える。…私、誰かに聞いてもらいたかったの。佑亮くんの言った通り一人で抱えてるのしんどくなっちゃって。おかげでだいぶ楽になったわ。ありがとう。」
彼女は力なく笑った。
「私ね、このこと誰にも話してないんだ。両親にも友達にも…。」
「どうして、ぼくに話してくれたの?」
「…わかんない。なんでだろ…。」
視線を落として動かない彼女を見てぼくはそれ以上何も言わなかった。
それからぼくたちはそのまま別れた。
ぼくは送って行こうとしたが「一人になりたいから」と水原さんは一人で歩き出した。
ぼくはしばらくそこに突っ立っていた。
自分が情けなくて仕方なかった。何をすればいいのか彼女のために何か出来ることはないかと考えてみても、ぼくはお腹の子の父親じゃない。何もする資格がないんだ。
そのことが悔しかった。好きな人のために何も出来ないなんて…。ぼくは初めて感じる無力感にしばらく動けないでいた。
日はもう沈み、空を見上げると星が出ていた。
今はこのきれいな星空さえ夢であってほしかった。いっそ全部が夢であってほしかった。水原さんが妊娠していること、彼女を好きな自分、家に帰ってもユキがいないこと。この世界が現実だと認めることがとてもつらくて苦しかった。でもいつまでたっても目覚まし時計の音は聞こえない。ぼくは今この現実に生きている。
泣きたくなるようなきれいな星空を見ながら、ぼくは家に向かって歩き出した。
続く