あるあるクソ素人のオッサンが一ヶ月間あるあるをガチってあるあるbotに採用された話
「あるあるbot」というTwitterアカウントがある。
フォロワー数14万人以上。一日に数回、一般から募集した“あるある”を淡々とツイートする、あるある界の最高権威である。
思えば、いつの時代も“あるある”はお笑いの中心だった。
いつもここから、ふかわりょう、つぶやきシロー、テツandトモ、レギュラー等の一世を風靡した数多のお笑い芸人はもちろん、近年ではTikTokに投稿されるショート動画も“あるある”ネタで溢れかえっているという。
その理由はシンプルだ。
“あるある”は単純に面白い。
“あるある”なのだからだれにでも刺さるし、それなのにみんな、自分しか思っていなかったことを指摘された気がして、とつぜん背後に人に立たれたようなゾワッと感に不意打ちされる。驚きからの笑いののち、凡庸な自分の“奢り”を発見して、苦笑する。“あるある”は「面白い」のみならず、ときに人に反省を促しさえするのだ。
キングオブコメディ、“あるある”。
“あるある”を制す者が笑いを制す。
ゆえに、自分のことを面白いと思っている痛いやつは、このリングに上がることから逃げてはならない。
自分のことを面白いと思っている痛いやつ。
つまり、私だ。
時は満ちた。私は「あるあるbot」に挑戦する。
「あるあるbot」は採用にあたり基準を設けている。
くわしくは上記のリンクから飛んで確認してほしいのだが、究極的には「まだ誰も言ってなかったあるある」の採用を目指しているとのことだ。その志の高さに偽りのない、極上のツイートを日々私たちに届けてくれている。
“あるある”の投稿は「あるあるbot」のDMで受付けている。
ハートはツイート候補となり、顔はYouTubeで紹介してもらえる。YouTubeでは、なんかズレた感じの“あるある”が紹介される傾向にあり、天然とかではなくちゃんと狙って笑わせたい私からすると、狙うはハート一択である。
ちなみにこれが私のTwitterアカウントである。作ったはよいものの、ほとんど機能していない。
それでは行ってみよう!
1月21日
初日。
まずはほんの小手調べである。いの一番の“あるある”がなぜこれなのかと問われても困るのだが、まあ、“あるある”は“あるある”だろう。
しばらくして返信が来た。
「採用率は1%以下」、「狭き門」、「いつまで経っても採用されません」等、顔に冷水をぶっかけるがごとき峻烈な単語が私の両目に飛び込んでくる。
私はしょうもない“あるある”をDMしたことをひどく恥じた。
と同時に「あるあるbot」に感謝した。
このまま喝を入れてもらえなければ、「駅弁あるある:ご飯が腹筋みたい」、「真冬でも半ズボンの少年あるある:普通に風邪引く」といった、きわめて程度の低い“あるある”をつづけて送ってしまうところだった。危ない、危ない。
1月22日
翌日のDM。
正直、これじゃダメだろうなと思いながら送った。
思うに、“あるある”と“悪口”は近しいところにある。というより、“あるある”には大なり小なり悪口の要素が含まれる。だが、その均衡はガラスのように繊細で、調合を誤ると、一気にユーモアが雲散霧消する。私のユーモアはよく、この調合を誤り、笑いへの階段を大きく踏み外す。そこのところの勘は鈍いほうだと思う。
私はしばらく地下に潜り、「あるあるbot」のツイートを勉強することにした。
確かに“そんなことがあった”気がする、見事な“あるある”である。
優れた“あるある”は、ありもしない過去を鮮やかに描き出すのだ。
たとえば過去に私は「BOOKOFFに必ずある本あるある:EXILE HIRO『ビビリ』」という“あるある”を定量的に証明しようとしたが、それは根本的に間違っているのである。
極上の“あるある”は、仮に一度もそんなことが起きていなくとも、“あるある”足りうるのだ。「あるあるbot」に認められたければ、現実を打ち破るほどの圧倒的な“強度”を追求せねばならない。その“強度”の感覚をつかむのが私の課題だ。
心理描写系の“あるある”。ちょっと力技じみていて、あまり好みではないのだが、「あるあるbot」の一分野を築いている。
なんとなくジャルジャルみを感じる。
ちなみに私が一番好きなジャルジャルのネタはこれである。たしかにようわからんショーはこんな感じに見える。
これも素晴らしい“あるある”である。人差し指に付着した微量のホコリの感覚が即座に想起される。
舌を巻く他ない、超高度な“あるある”である。
要は、“ない”ことを“あるある”へと昇華しているわけで、端的に言ってこれは詐術である。錬金術である。レトリックを知り尽くした、類稀なる描写力が生み出した奇跡であり、最上位の短歌であってもこのレベルに達しているとは到底思えない。少なくとも私には百遍生まれ変わってもこんな“あるある”は思いつきそうにない。
言ってる気がする。
「ややこしくなる」という表現がとにかく見事。あの焦りと後悔を、シニカルなユーモアで包んで、“あるある”に昇華している。心の底から己を嗤える者だけが、「あるあるbot」のお眼鏡にかなう“あるある”にたどり着ける。
悪口はまず以て自分に向けなくてはならない。
くだらんプライドは棄てるのだ。
コペンハーゲン。ちょうど国と首都の知名度が絶妙に乖離していて、なんにも興味のわかない首都である。「ワシントンDCっていう州は存在しないらしいよ」とかウザい知識を押し込まれたあとに「あとコペンハーゲンはさあ……」とか言ってきそう。知らん、興味ないわ。
堂々たる文学の表現である。
ナレーションで「それから十年後」とか入りそう。
これニートでもあるよな。
少しの安らぎのあと、「そういえばおれ無職だったんだ……」って。
これも一刀両断するがごとき描写力の凄まじさが光る。
「手持ち無沙汰」を「困惑」と形容するポエジーに打ちのめされる。
「そいつ」が良い味出してる。バズりへのほのかな嫉妬の感情が悪意という名の表面張力でユーモアにしがみついている。
われわれは基本的に目上の人をちょっと舐めている。
漫画系の“あるある”もまた、「あるあるbot」ではひとつのジャンルを確立している。
私はこの方面はあまり明るい方ではないのでこのジャンルは捨てている。ちなみに私のオールタイムベストコミックは『めぞん一刻』である。最近読んだ本はEXILE HIROの『ビビリ』と大江健三郎の『同時代ゲーム』。好きな食べ物は米。仲良くしてください。
われわれは基本的にカーリングにほとんど興味がない。
あらゆる説明を反故にする、「狭い」の一語があの感覚を集約する。
たまにあるかわいい系の“あるある”。
あー、言ってるわ。
2月8日
地下に潜ってから2週間以上が経過して、私はDMを再開した。
この間、私の生活のすべては“あるある”探しに充てられた。私は目に入るものすべてに自分と世界とのほのかな紐帯を求めた。
これは、私の世界なのか……。
あるいは、他の人の過去や未来にもつながり得る、記憶の原風景(あるある)なのか……。
そんなことばかりを考えながら、スマホのメモに走り書きを残したり、なんということのない風景を写真に収めたり、古い記憶をまさぐったりした。
通勤中、最寄り駅までの道に石が転がっても、私は“あるある”の幻覚を見た。
……だが正直、先の天才たちのように鮮やかな“あるある”を思いつくのは私にはどだい無理である。
だから私は、少々小癪な手にでた。
「〜〜あるある」の「〜〜」の部分を工夫することにしたのだ。
上記は昔付き合っていた女性の思い出話から拝借した。
みのもんたは、夕張市の財政破綻と中学生の飛び降り自殺に何よりも憤りを見せる。
2月9日
個人的にこの“あるある”は悪くないと思っている。
しかし、ベタに半歩踏み込んでいるとも思う。単に“あるある”ならこれで良いが、私が戦っている相手は「あるあるbot」である。これじゃ弱い。とにかく、弱いのだ。
2月11日
朝目覚めて、まずTwitterのDMを開く。
「あるあるbot」からの「既読」を目に焼き付けて、ため息をつく。私の一日はそうしてはじまる。
“あるある”を書いては消して、書いては消す。
昨日の夜眠る前までに思いついた“あるある”の中で、最後まで生き残った“あるある”をDMに書きつける。
この日、「あるあるbot」の前で披露したのは、「〜〜あるある」の「〜〜」工夫系の“あるある”である。
ほんと、なんでインド人はあんなにじろじろ見てくるのだろうか。腹立ってきた。
2月12日
ここに来て私は二度目の行き詰まりを感じた。
このDMを送りながら私は、はっきり違うと思った。こういうことじゃないのだ。こういうことでは……。
2月13日
その翌日も一応、“あるある”を投稿した。
「変に細くて気持ち悪い」と書いて、何度か推敲したのち、「緑っぽい」に落ち着いた。「あるあるbot」用にチューニングしたつもりだが、採用された“あるある”たちと比べると一段落ちる。この差はなんだ。
仕事終わりに私は近所の居酒屋に逃げ込んだ。
虚空を見つめて、ジョッキに手を伸ばす。ビールを喉に流し込み、とんぺい焼きを箸で突く。そして虚空を見る。
無だ。
ふいにそう思った。
私には人間の気持が分からないのではないか。
そんなことをさえ思った。
私はふたたび“あるある”のインプットと研究を再開した。
上記のような物理現象系の“あるある”は逆算で作り出すことができる。
正確には思い出せないが、上記と同系統の“あるある”に、「寒い日に息が白くなることもあるし、それほど寒くないけど息が白くなる日もある」というのがあった。そうなるにはそうなる理由があるはずだが、調べるほどでもない。その、人生の中で置き去りにされた謎を丹念に拾い上げてくる……。そういう胆力がこの分野の成功には求められる。
私は家の本棚から「力学・場の理論」をひっぱり出してきて、まだ見ぬ“あるある”を、力学と電磁気学の権威であるランダウとリフシッツに求めた。いつ買ったのかも覚えていない、最古の積読本のひとつである。
その結果、生み出された“あるある”が上記の二本である。力学なんも関係ない。
あと、一個目の“あるある”は「心持ち」ではなく「気持ち」の誤りである。校正を怠ると、こういうミスが生まれる。焦りが見える。よくない。
よくない……。
そんなことをしている間にも、全国のあるあらーは極上の“あるある”を生み出していく。
あるある。
あるある。
あるある。
あるある。
2月16 日
私と彼らとの違いは何なのだろう。
私には一体何が足りないのだろう。
もしかして、私は目が悪いのではないだろうか。
眼鏡の度があっていないから、ものを見る目に致命的な欠陥があるから、私は優れた“あるある”を生み出すことができないのでは……。
私はほとんどノイローゼになっていた。傍目にも私の不機嫌は見て取れたと思うし、その理由が「良い“あるある”が思いつかない」というものだと知れたしたら、マジどつかれるかもしらん。
だけど……。
だけど、私には“あるある”しかないのだ。
“あるある”が今の私のすべてなのだ。
あと、上記のコラージュを作っていて思いついたのだが、「文字改変系コラ画像あるある:フォント合わせるのそんな難しいのかなって思う」という“あるある”はどうだろうか。
私の長いインターネット人生の中で、改変部分のフォントと改変していない部分のフォントが完璧に一致しているのを見たことがない。
2月17日
「あるあるbot」に挑み始めてやがて一ヶ月になる。
私は暗い暗いトンネルの中を手探りに進み続けていた。
このまま、いつまで経っても反り立つ壁を越えられない浪速のターミネーターで終わってしまうのではないかという不安に苛まれた。
目が悪いとなると私には耳しかない。日常のあらゆる音に耳をそばだてて、その“傾向”を読み取った。まだ誰もとったことのないデータに手を伸ばし、つかんだ。それはクズと見えたが、「あるあるbot」の琴線に触れることを祈って、DMへと投擲した。
……無論、山は動かない。
2月18日
休日である。
私は朝早くに家を出て近所のお社にお詣りに行った。
合掌。
静かだ。私はそう思った。
神は沈黙している。
だが、それで良い。
私はお社を通して内なる自分と対峙した。
そして、“集合意識”という名の“あるある”にアクセスした。
私の中で無数の“あるある”が狂気乱舞した。
だしぬけに誰かの過去が滔々と流れ込んでくる。
そこには私の過去もある。
どこかで見たことのある顔がちらつき、白昼夢となってすぐに消える。
ふっと浮かんでは放っておかれた疑問が蘇る瞬間もある。
しかし、それらはすでに他のだれかの口を借りて語られた“あるある”なのだ。
私はふたたび自分に還ってきた。
私は私でしかなかった。
なんらの天啓も得られず、私は自宅に帰ることにした。
コートのポケットに手をつっこむと、何か硬いものに指先が触れた。
スマホだ。
……
スマホ……。
思えば、どんなときも私のそばにはスマホがあった。
スマホが……。
……よし。
…………
………
……
2月19日
!?
!!!!!!!!!!!!!
こうして私の挑戦は幕を閉じた。
まさかのハートにテンパり、19日も弱めの“あるある”を送ってしまった。
だが、とりあえず私は一旦引退しようと思う。
緊張の糸が切れたのが、分かった。
翌日、目覚めると私は体調を崩していた。
ふたたび布団を頭から被り、熱を持った頭にぼんやりと意識をむけるとたちまち闇に落ちた。
“あるある”の悪夢を見て、私は目覚めた。
最悪の心地のまま、スマホに手を伸ばして時間を確認した。午前二時。夜の一番深い時間帯だ。口の中がずっとチキンラーメンの味がする。
意識せず、習慣的にTwitterアプリを開いた。
あるときは、嫉妬の対象ですらあった、珠玉の“あるある”がタイムラインに流れてくる。
だが、今はもう穏やかだった。
どの“あるある”も、ひとしく美しい。
!?
…………。
………
……
…………。
私の挑戦が始まった。