成績処理との戦いも終わり,ぼちぼち再開~筑波附属小の公開研に参加しました~
皆さんの学校でも,そろそろ成績の提出は終わったでしょうか?
毎年,効率よくスマートにしようと思うものの,ぎりぎりを攻めてしまう悪い癖をなくしたいものです…
ぎりぎりを攻める要因になったものの一つに,附属の公開研があります。
※自分で計画しておいてなんですが…
素敵な学びがあったので記録しておきたいと思います。
今年はオンラインで参加したのですが,オンラインだと物販が見れなかったり,公開されている授業が限られていたり,音声が切れちゃったりといろいろデメリットもあるのですが,ゆっくり座りながらメモできたのはよかったです^^
今回書きしるしておきたいのはこちら。
正解主義になりすぎてやいないかい?
こちらは音楽の公開に参加した際に,NHKのクインテットに出ていらした宮川 彬良さんのお話をお聞きできました。
軽快に音楽の魅力を語ってくださり,学んでいるというより楽しい時間が流れていきました。その中で,出てきた正解主義という言葉にぐっときました。
学校で生活しているとたくさん正解しなくてはならないことがあり,多くの人がその正解を求めて生活しています。
そうするうちに,もっと柔軟で広がるはずだった可能性がすぼんでいませんか?って話です。
正解が明確に分からないときなんかは,ついつい他の人の顔色を窺ってしまったりします。「自分も他の人と同じ考えでよかった。」「だいたい平均くらいでよかった。」「自分と似ている人がいて安心だ。」などなど,ついつい同じであることがあたかも常識であったり正解であったりするというような錯覚に落ちいる可能性はありませんか?
同じ≠正解ではないですし,同じ≠正義でもありません。
普段から正解ばかり求めて生活していると,きっとこの感覚が知らずのうちに自分の中に入り込んでしまいます。
何か凝り固まった正解のために,目の前の子どもたちに前向きではない文化を刷り込んでいかないように注意したいなあと思いました。
細かな言動まで目くじらを立てていないかい?
これはきっと個人的な偏見とか感覚がそうさせると思うのですが,附属の低学年の子どもたちって結構フリーダムな感じがしませんか?
具体的に言うと,話を遮っちゃうくらいしゃべったり,何か気になったことがあれば近くの人と話したり,そんな感じです。
私は個人的に,そういう雰囲気は嫌いではありません。
話を遮っちゃうくらい前のめりになって,近くの人と話し合いたいくらい確認したいことがあるんです。よさげですよね。
とはいうものの,こういう環境を目指せない自分もいます。
他の先生から見たら,人の話を最後まで聞けない子だと思われないだろうか,人が話している間に違う人と話すなんて失礼だ,なんて学級規律がなっていないんだ。
こんな感じに,めっちゃまわりの目を気にしてしまうんです。
というのも,仮に自分が割と勉強していて,いい感じの実践や研究を参考に学級経営をしたとして,自分的には明るく朗らかに子どもたちが学んでいるなと思っていても,それは他から見れば規律のない,授業の組み立てがなっていないように見えて,それが私への批判ではなく,例えば自由進度とか個別最適とかそういう概念に矛先が向かっていったとき,とても悲しいなあと思うからです。
私は個別最適や子どもたちに学ぶ主導権を少しずつ壌渡していくような考え方は好きなのですが,私の実践,クラスの雰囲気のせいで,その考え方自体が否定されてしまい,それが広がる機会を阻害してしまうのではないかと心配なのです。
これは子どものせいでもないし,私個人が,一クラスがどうこう影響を与えるものでもないのだと思うのですが,ただただこのことを考えると気が重いのです…
というものの,今目のまえの子どもたちには,今私が感じていること,やった方がいいと思うことは極力,周囲の理解を得ながら,そういう環境を与えてあげたいなと思うんです。
今,一つよりどころになっているのは,附属の高学年の子たちの姿です。
落ち着きがないとか,失礼な態度だとか,そういったものを盾に締め付けすぎずとも,少しほわほわしたような中でも,大事なことさえ押さえていれば,加齢とともに今気になっているような目に見えた言動って減ってくんじゃないかと思っているところです。
子どもに生きぬく武器を渡せているかい?
大人になって図形の面積を求める機会があるかと言われれば,さほど多くはないかと思います。
大人になって,何か読んだものを段落に分けて,読み解いていくという作業をする機会もさほど多くはないと思います。
小学校で学ぶいろいろな教科の知識は,大人になるにあたってすべてちゃっ決しているかと言われれば,そうではないのかなと思います。
でも,面積は求めなくても,
あの空間にだいたいこんな感じで家具を配置するにはこのくらいの広さがあって,今の状況だと……というような,数値化せずとも広さを考える場面は多々やってきます。
段落ごとに分けて深く読んでいかなくとも,
読書そのものをただただ楽しんだり,友達と楽しかったところを語らったり,映画化なんてされたらまた読み直してみたり……そんな言葉と触れ合う機会がたくさんあったら素敵でしょう。
算数や国語の教科書に書いてあるようなことがストレートに今の生活に必要かどうかと問われたら,私はう~んと思うのですが,算数や国語の教科書を使って経験を積んだり,言葉を交わしながら学んできた何かは確実に今の生活と直結していると思うのです。
きっとそういうものが,資質・能力であり,見方考え方であったりするのではないかと思います。
大人になっても使える武器を渡してあげたいものです。
他にもいろいろと学んだことがあるのですが,今回はこれくらいにしておこうと思います。
いろいろ刺激をいただいては来るものの,どのようにして自校に還元しようかというのは,毎年悩まされます…
そこらへんもこれからうまくなっていきたいなあ…
今回もお付き合いいただきありがとうございました。
誰かの「よりどころ」となりますように。