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死についての思索(50)---ただただ狂って、叫んで、野垂れ死ぬべきである

今日も私は正直に語らねばならぬ。
正直に語ることは、本当にむつかしいことだ。
「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」
ということは、私にとって一番重要な問題である。

そして、もちろん、死の問題は、あなたにとっても重要な問題であるはずだ。なぜなら『あなたも、いつの日か、どこかで、だれかと、どうにかして、その、死、を跨ぎこさなければならない』からである。

私は、死についての問題を過去の文章を引用しながら、加筆的に思索する。
そうして、いわば意図的に、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を更新させてゆく。

『加筆とは、人生の方法である。加筆的人生とは、われわれの大半が所有するであろう。われわれは更新をやめられぬ存在者である。われわれは我々自身に対して常に批判を行う主体である。われわれは我々自身を非難はできぬが批判を行うであろう。非難は自己に対する占領であるという点において不可能である。批判は自らにおいて道を切り開く意欲を発見するという点において合理的な視線である』

①私は長年、華々しい逆転の為の行為を、あるときは全面的に拡張し、あるときは積極的に縮小し、連続してきた。私は自分自身を保護してきたつもりはない。私は自発的に私自身を侵犯してきそうなものを解体してきた。であるのに、私は今や絶望に囚われている。私はどこで見誤ったのだろうか。

『己を見誤る』為には『判断』が必要である。その判断とは一体どういったものであるかといえば、状態の様態であるといえる。私はここで人間判断なるものの、その不明瞭かつ非合理的な様態を認める。ゆえに『人間の判断は状態である』と断定する。

②確かに全面的に差異は成熟し、改善され、洗練されたはずである。確かに積極的に、まちがえは、訂正されたはずである。確かに自発的に、ゆうわくは、排除されてきたはずである。

上記のような類推の連鎖は、停滞という状態の判断によるものである。脳髄は頂上の判断であり、手は左右対称の判断であり、鼻は空洞の判断であり、脚は安定の判断であり、足の裏はニヒリズム的な判断であるといえる。このように身体的に状況の把握があって、判断が状況下する。状況という状況は分析不可能である。状況は常に運動の渦中であり、運動の渦中にあるのは常に身体である。身体の状況判断がわれわれの判断である。故に、判断は実に精神的であるという観点から、私は『精神に自由は不可能である』と断定する。

③であるのに、私には失敗が際立っている。この私という人生そのものは、見渡しうる限り全てが失敗に包囲されている。私は歳を取り、その閉域の中に自分が在ることに気付かされる。

途方に暮れるとは実に奇妙な危険を孕んでいる。純粋に歳を重ねることは実に難事である。私は何か無言の意欲に畏れを抱く。それは共作への意志のようなものである。私は生きている限り、他者を必要とする。

④それは接近する時間的領域として私が注視して避けてきたそのものである。結局のところ、私はそのような運命の中に知らぬ知らぬうちに放り込まれている。時間は場所をもち、実質をもつ。

他者とはなんだろうか。ハイデガーは他者に対する道具性を指摘したが、果たして他者とは私にとって道具性として必要とされるのであろうか。私は真に他者と共同することができるのであろうか。ただしかし、私は共作を意欲している。

⑤それは無言の脅迫である。いつのまにか非本質的であったはずの私が突然、本質化されてしまっている。汲み上げることのできる井戸は、もうない。私の命は、もうない。

私は、ない、は徹底すべきである。私は、ある、もまた徹底すべきである。私は狂って、ない、と断言すべきだ。私は発狂して、ある、と居座るべきだ。それしかできぬ。私は、ない、と、ある、の間を揺れ動く振り子のようにしか運動できぬ。それこそが、その、在っている、という意味である。

⑥一般的な解決策は、ただただ己の命を、己自身で殺すことであったのである。私は私自身の殺害者であるべきであった。ずっと前に私は殺害すべき私を生かしてきた。生かしてきたのは、私が偶然に賭けてきたからである。私は決して賭けぬということに己の場所を賭けてきたのである。よって私は老いた。老いて己を幸福以外の場所に置くことができぬようになった。

狂い死ぬべきである。ただただ狂って、叫んで、野垂れ死ぬべきである。


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