asam
ある夜、小窓からさしこむ月が一条の青い光の矢となって、眠りについたばかりのアルネキオの枕までとどきました。夕焼け空に浮かぶ桃色の雲のようにやわらかな絹の枕は、耳元で、ついポロロンと音楽をもらしましたので、アルネキオは目覚めてしまいました。
ふわふわのベッドから起き上がると、白鳥の羽でこしらえたガウンをはおり、美しい玉虫イルカの沓をはいて窓辺のカーテンを開けはなちました。月の光はいっせいにポロロンと室内に満ちあふれました。
庭はいちめん雪の原です。セスの街や彼方の森や、鏡のように凍りついた湖まで、バンディアの大地はあまねく照らす月の光に朧々と照り映えます。雪はなべて大海原の青い色に染まり、やはりポロロン、ポロロンロンと奏でる音楽が、そこかしこで歌うのでした。
「なんてきれいな晩だろう」
月に誘われるままにドアを開き、きんきんに凍ったバルコニーに立ったアルネキオが、思わず嘆息をもらしますと、晴れていた夜空に急にむら雲がわき、さえざえと輝きわたる大きな丸い月を覆い隠してしまいました。たちまち月光の音楽は沈黙し、水の色をたたえて浮かびあがっていた雪の原や彼方の森も、翼を広げた夜の底に黒々と横たわってしまうのでした。 アルネキオはがっかりして、新たな雪がまた舞いはじめた暗い空をうらめしく見上げました。
「きらきらユキビ、降りてこい」
「ぴかぴかユキビ、早くこい」
「ユキビ、かがやけ。地上を照らせ」
どこからか、遠い子供たちの声が聞こえます。闇をすかしてみると青い森の方角に、カンテラの灯りがいくつも揺れていました。あっ、ユキビひろいだ。アルネキオは雪のバルコニーで、寒さも忘れて彼方を眺めました。
バンディアはもうすぐ万霊節でした。万霊節というのは、新年の最初の新月の晩に行なわれるお祭りで、幾久しいバンディアの歴史をたたえ、祖先たちをうやまい、感謝する一夜なのです。
人々は日暮れから夜明けまで、月のない夜を眠らずに過ごします。
この夜だけはどの家もランプやローソクをともしてはなりませんでした。ゆるされるのは、家を暖めるためのストオヴの火と、街路十一辻のかがり火だけと決まっていました。それはユキビの光で街を美しく飾るためなのです。
きりりと冷えこむ満月の晩に、ユキビはやわらかな光を放ちながら舞い降ります。高い空の上で月の光が凍りつき、青白い光を封じこめた氷の結晶となって地上へ落ちるのだといいます。音もなく降り落ちて、雪の上にぽつんぽつんと明かりをともすユキビを、こわさぬようそっと拾い集め、万霊節の晩に銀細工の小さな網カゴに入れて家々の戸口を照らすのです。
ユキビひろいは、バンディアの子供たちの冬の楽しみなのです。今夜は万霊節のちょうど半月前の満月にあたるのでした。
「ぴかぴかユキビ、降り落ちよ」
子供たちの唱和がだんだん近づくにつれて揺れるカンテラが雪を照らし、「きゃあ」とか、「あはは」と笑いさんざめく楽しそうな声にまざって、仲良しのイコンニの大きな声もたしかに聞こえます。
引っ込み思案で寒さが苦手なアルネキオは、まだ一度もユキビひろいに行ったことはありませんでしたが、子供たちの今夜の楽しそうな様子にじっとしていられなくなりました。
「おーいイコンニ、ぼくも行くよお」
思い切ってアルネキオが叫びますと、いっせいにカンテラがうち振られました。それからみんなはロ々にはやすのです。
「寒がりアルネキオ、雪が降っても泣かないかい」
「外は寒いぞアルネキオ、北風吹いても逃げるなよ」
ひとしきり笑いあった後、イコンニがみんなを制して言いました。
「アルネキオ、ぼくら先に森の広場へ行ってるよ。 手袋忘れないで」
そうしてまたユキビひろいの詩を唱和しながら、カンテラの灯を振り振り、森の入り口の方へざっくざっく歩いて行きました。
少し怖いのを我慢して、アルネキオは夜の雪道を夢中で走りました。雪はさらさらの粉砂糖のようでしたし、びろうどネズミの手袋に北極アザラシの外套を着ているので寒くはありませんでした。行く手の空に時おり雪に混じって、小さな青白い光が尾を引いて落ちるのが見えると、気がせいて何度も滑ったり転んだりしながら、ようやく青い森の入り口までやってきました。森の奥からカンテラが振られ、「おーい、ここだよ」と呼び掛ける声がして、アルネキオはほっとしました。みんなは待っていてくれたのです。
「初めてだねえアルネキオ。きみが来るとは思わなかったよ」
息をはずませているアルネキオの後ろから、普段はあまり口をきかないメルケジがぽんと肩を小突きます。アルネキオはすっかりうれしくなりました。 イコンニは別として、街の子たちはなぜかいつもはよそよそしいのです。
「ユキビ、見いつけた」。先の方でかん高い声があがります。アルネキオがかけつけると、幼い少女のしもやけした手の中に、グミの実くらいの氷のつぶが紫色がかった青い光を放っているのでした。ユキビは薄い繊細な雲母(きらら)のトゲをいっぱいつけて結晶し、ガラス細工のように鋭く透きとおっています。まん中で青い光がふるえていました。
なんてきれいだろう。そう、これが本当のユキビなんだ。
雲母のトゲが溶けてしまい、白っぽく濁って金平糖みたいになったユキビしか見たことがないアルネキオは、地上にとどいたばかりの無垢なユキビの姿にうっとりしました。
青い森の広場は、静けさの中を雪が絶え間なく降りかかるばかり。雪化粧した森の木々はユキビの青い灯に縁どられて、闇の中のたくさんのクリスマスツリーのようです。「きらきらユキビ、
もっと降れ」誰かが叫ぶと、続いて「あっ、落ちてきた、ホラあそこ」「ここにもあった」と我を忘れた歓声が森にこだまし、みんなユキビひろいに夢中になりました。白雪に混じって、青い光のつぶがひらりひらり、降ってくるのでした。
子供たちの笑い声や、わあ、という興奮した声の輪に囲まれて光のつぶを集めながら、楽しいはずのアルネキオの心は沈んでゆきました。さっき、ユキビの光に映った少女の手が目に焼き付いているのです。粗末な木綿の手袋は汚れてすり切れ、あちこち開いた穴からは、あかく腫れあがった指先がのぞいていました。
気づいて見れば、ほかの子供たちもみなワラを編んだ長靴をはいていますし、上着も帽子も粗末なのでした。アルネキオはそっと手袋を外してみましたが、冷たい空気にさらされると、すぐに指先がかじかんで痛くなってしまいます。
みんな、寒いだろうな、手が冷たいだろうな。ぼくには当たり前のことが、この子たちにはそうじゃない・・。アルネキオの心はなぜか哀しみでいっぱいになりました。今までぼくはこんなことを考えたことがなかった。ぼくはどうしていいか分からない・・
きゃしゃな手に乗せたユキビに、思わずこぼれた温かい涙が落ちかかり、溶けて解き放たれた月光のかけらは、ひときわ青く輝いてポロロンとかすかな音楽を奏でました。するとあたりが不意に青白い明るさを取り戻し、降りかかる雪が止みました。夜空を覆っていた厚い雲が淡く頼りなくひきのばされて、やがてきれぎれに散開した雲間から大きな丸い月が再び姿を現したのです。
大海原の色に照り映える雪原に、か細く青い光の尾を引いたユキビが、はらはらと、はらはらと降るのでした。子供たちは勇んで駆け回り、たちまち手提げ袋はぼおっと青いユキビつぶの光でいっぱいになりました。
真昼のように明るい雪道を、みんなで歌いながら帰ります。帰り道はカンテラは必要ありません。雪に映る小さな影絵の列のいちばん後ろで、アルネキオはイコンニにささやきました。
「ねえイコンニ、これをあの子にプレゼントしてくれないか。万霊節のお祝いに」
すぐ前を歩きながら元気に歌う女の子を指し、びろうどネズミの手袋をそっと手渡します。 アルネキオは手袋を外していたのです。氷のように冷たいアルネキオの手に触れて、イコンニは毛皮の手袋をじっと見つめていましたが、やがて分かったというようにくしゃっと笑いました。
「きみは寒がりじゃなかったんだね、アルネキオ。ぼく見なおしちゃった」
両手でアルネキオの手をとり、ごしごし擦りました。イコンニのがっしりした手のぬくもりは、南風のようにアルネキオを暖め、こぶしの中でいつまでも消えませんでした。
「みんなおやすみ。今夜はとても楽しかったよ」
家への三叉路で手を振って別れを告げ、アルネキオは走って帰りました。部屋に入るとすぐにカーテンを開けはなち、青くひかるユキビの袋を下げたバルコニーから、バンディアの美しい景色をもう一度眺めます。月は今しも中天にかかり、見渡すかぎり大海原の色に照り映えるバンディアの大地は、街も森も湖も、やはり月光に誘われてポロロン、ポロロンロンと音楽を奏でているのでした。
「なんてきれいな晩だったろう」
内気なアルネキオはポツンとつぶやくと、ひとつ大きなあくびをしてベッドにもぐり込み、たちまち眠ってしまいました。
小窓からさしこむさやかな月の光は、ほほ笑みを浮かべて眠るアルネキオの枕元を遠慮して、今は足もとのマホガニーの飾り棚にとどき、飾り棚は誇らしげに、しかしひかえめに、ポロロンと一度だけ音楽を奏でました。
おわり