SNS言説の軽さと危うさと倫理

【戦前に重なる】

時々、SNS上に飛び交う言説の軽さに、背筋がぞくっとすることがあります。ネット空間に瞬間風速的に生まれた風が、真実という名の高い壁を軽々と越え、政治を右へ左へとたやすく動かす―。この状況が、戦争へと一気に突き進んだ昔の日本に重なるような気がしてならないのです。言論社会を支えるインテリジェンスや倫理が欠如した現状に、少なからぬ恐怖を感じてしまいます。

【SNSの功罪】

東京都知事選、先の衆院選、そして兵庫県知事選。これらの選挙結果は、SNSの影響力が大手メディアをしのぎ、世論を動かす大きな存在になったことを鮮明にしました。SNSによって政治がより有権者に身近になったプラスの側面はあると思います。

一方で、ネット空間に飛び交う情報というのは、デマなのか真実なのかを峻別するフィルターを介しません。いわば、清濁併せ持った、むき出しの一次情報です。誰かをおとしめたり、世論を操作したりする作為や悪意を含んでいても、SNSには検知したり、排除したりする機能はありません。語弊を恐れずに言えば、情報のもつ恐ろしさを知らぬ素人たちが無邪気に振る舞う世界なのです。

【匿名性と根拠不明が元凶】

異常なまでにタガが外れているように感じます。その元凶のひとつは匿名性だと思います。ハンドルネームの仮面に素顔を隠し、センシティブな事象に関して放言を重ねたとしても、なんのペナルティもない。これでは健全な言論社会を担保する土台がないのも同然です。「裏取りなし」「無法」「無批判」の3拍子がそろう、実に恐ろしい世界ではないでしょうか。SNSリテラシーに乏しい閲覧者がこれらを鵜呑みにすれば、激流のようにネット空間を席巻し、空疎で危うい「世論なるもの」が形成されていくでしょう。

【大手メディアも自覚を】

これに対し、新聞やテレビのメディアは、報道機関として責任を持ち、いくつもの関門を設けて情報を吟味しています。記者が顔出しや署名付きで報じるケースも多いです。事実に反する情報を流せば、報道機関としての信頼に傷が付き、経営の屋台骨が揺らいでしまいます。決して大手メディアの肩を持つわけではありませんが、SNSに敗北したという評価は見当違いだと思うのです。言論社会の確固たる砦であることに何ら変わりはありません。

一方で、大手メディアはSNSの情報を無視するわけにもいかなくなりました。SNSに取り上げられている情報は、何が正しくて、何が誤っているのか。分析を尽くし、かみくだいて報じる責任があるでしょう。SNS専門の部署を組織し、人材を養成する必要に迫られていると思います。

【先の大戦を教訓に】

SNSによる闊達な情報発信は否定はしません。幅広い意見を取捨選択できる手段が得られ、むしろ健全性を担保すれば有意義な言論空間になる可能性があります。とはいえSNSを無批判に持ち上げるのは、あまりにも危険で軽率だと思います。

「政治の推し活」という例えは非常に稚拙ですが、それでもSNSの歯止めなき熱狂が選挙で良かったと思うのです。考えてみてください。SNSによって世論が形成されるというプロセスが、日本に有事が迫っている局面にあてはめた場合、何が起こるでしょうか。かつての日本のように、好戦的な言説がまかり通り、歯止めがかからない状況が生まれやしないでしょうか。SNSは、一歩間違えれば一色の意見に染まりやすい性質を持つことを忘れてはならないと思うのです。

先の大戦では、新聞が大本営発表をそのまま流し、国内世論を戦争一色に染め上げました。SNSの影響力は、当時の新聞をはるかに超えて甚大です。言論の自由を盾に、SNSを「何でもあり」の言論空間にしてはならないでしょう。扇動や世論の誘導を許すことになるからです。政治的な情報発信をする場合、発信者は実名と情報の根拠を明らかにすることが必要です。SNSが新聞やテレビに並ぶような存在になったのであれば、SNSにも厳しいルールを課すことが欠かせません。もちろん、新聞やテレビも、権力を監視し、真実を報じ、思考停止に陥らぬよう、いっそう自覚しなくてはならないでしょう。

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