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息を殺して

地元を離れて東京に来てから、いろいろ変わったような変わらないような、僕にとってフツーの日々を過ごしていた。仕事のある日は仕事をして、休みの日は落語を見たり、好きな映画を見たり。実家が裕福で、仕事も充実しているおかげで特に生活に困ることもなかった。
僕は親戚の橘平くんと、お笑いコンビを組んでいる。橘平くんがボケで、僕がツッコミ。
まだ結成して数年だが、そこそこ人気はある方だからすごいもんじゃないかと、自画自賛をしてみる。
相方の橘平くんは、小さい頃から頭が悪かった。
ひらがなの、「な」とか「ね」の字がいつもめちゃくちゃだった。
算数の、掛け算の7の段がいつまで経ってもできなかった。
御成敗式目を、ずっと人の名前だと思っていた。
頭が悪いと言っても、なにか障害があるとか、病気を患っているわけではなかった。
そんな人間でも、二十いくつになるまで一生懸命に生きている。
「天真爛漫」という言葉を湯煎して、人の形に成形したものが彼だと言っていいくらい、明るくて素直な人間だ。
だから、彼が好きだった。
遠い親戚の僕たちは、お盆と年末年始のときにしか会えなかったけど、子供たちの中で一番仲が良かった。僕はあやとりやトランプが好きだった。橘平くんも誘って一生懸命教えた。でも橘平くんは頭を使う遊びが苦手だから、よく親戚の子供達を集めてかくれんぼをしていた。
隠れる側になると、決まって僕らは二人で押し入れの中に隠れた。本や、なにに使うのかわからない道具や、みんなに忘れられたおもちゃが閉じ込められている狭くて暗い押入れの中に、二人で息を潜めて隠れていた。
つめたい空気、橘平くんの息の音、触れ合う肌の温かさ。
橘平くんとずっと二人きりでいたような、あの世界も大好きだった。


「今日さ、急にシフト変わっちゃって…6時までバイトなんだよ…」
「そっか〜気をつけて行ってね〜」
「ごめん!すぐ帰ってくるから」
「夜ご飯、茶碗蒸し作っとくからね〜」
「マジ!ありがとう!!!行ってきまーす!」
黒のリュックを背負って、意気揚々と出掛けて行った。僕も手を振って見送る。
見送った後、僕は自室のベッドに寝転がりながら漫画を読むことにした。読むといってもあまり夢中になって読むわけではなく、ただ時間を潰すためだけに流し読みをしているに過ぎない。橘平くんは養成所に通うために週に三日以上バイトをしている。コンビニだったり動物園で接客をするのが仕事だと言っていたが、実際どんなことをしているのかはよく分からない。
その日は、本当になにもない日だった。ライブもない、テレビ出演もない、そのほか何の予定もない。天気は空が抜けるような秋晴れ、風も涼しい。完璧な休みの日だった。それなのに橘平くんがバイトだったから、僕はこうして家で漫画を読むしかない。どこかに出かけるのも考えた。本屋に行こうか。映画を見に行こうか。しかし、今日に限ってどれも面倒臭い。外出するくらいなら一日中部屋でごろごろしている方が楽でいい。
僕にとっては休日の過ごし方なんてそんなものでしかない。

今日は本当に長い1日だ。することがないから食欲も湧かず、昼食もとらずにダラダラとネタを考えたりその合間に本を読んだり。
なんだか、休みなのに橘平くんがいないとなにもすることが起きないのだ。
昔は一人でも遊べていた。東京で彼とルームシェアを始めてから、子供の頃のように一緒に遊ぶ楽しさに気づいて一人じゃ何もかもつまらなく見えてしまうくらいだった。
夕方、久しぶりに夜ご飯を手作りしようと思い立って、約束通り出汁から茶碗蒸しを作ってみた。ついでに冷蔵庫に眠ってた肉で生姜焼きも作った。
なかなか美味しくできたんじゃないだろうか。


ようやく、しぶとい太陽が西の空に落ちて、空が深い藍色に染まっていった。
そろそろ7時になる頃だが、橘平くんはまだ帰ってこない。せっかく作った茶碗蒸しも生姜焼きもすっかり冷めてしまった。
冷たい茶碗蒸しもたまにはいいかなと思う。

時計が夜10時を回った。
まだ帰ってこない。
いつもだったらとっくに風呂から上がって寛いでいる時間だ。
夜ご飯も食べていない。昼、何か口にしておけばよかった。流石にお腹が空いてきた。橘平くんはもうどこかで済ませているのだろうか。だとしたらその前に連絡が入るはずだ。携帯電話を確認するが、メッセージも電話の一本も来てすらいない。
徐々に襲いくる不安と苛立ちから逃げようと、さっきからリビングをぐるぐる歩き回っている。前にもこんなことがあった。なんの断りもなしにバイト先の先輩と飲みに行って、深夜の0時を回る頃に帰ってきたことがある。そのときは流石に僕も強く怒ってしまった。
連絡の一つくらい入れてくれてもいいじゃないか。僕を差し置いてまた飲みに行ったのか。
べろべろに酔って上機嫌で歌いながら帰ってくるんだ。僕が作った夜ご飯も食べずに。フニャフニャ歌いながら。きっとそうだ。
不安から歩き回る足音に、怒りが加わってどんどん速く強くなっていく。
こうなれば、こちらから電話をかけてやる。
電話に出たら、開口一番「コラ!」って言ってやる。
こんな夜に連絡も入れず飲み会だなんて危険だ。だってあいつに危機を察知する能力も、身を守る能力なんてものもないから。
もし真正面から殺人鬼に出会ったって、あいつだったらすぐに腹を掻っ捌かれて死んでいる。携帯電話を握りしめて、橘平くんが出るのを今か今かと待ち構える。呼び出し音が小さく鼓膜を震わすことにさえイライラしてしまう。
ブツッと何かが切れるような音がして、咄嗟に口を開いた。
聞こえてくるのはツーツーという無機質な電子音だけだった。
言葉が空回りして、ため息となって吐き出される。
いい度胸だ。
帰ってきたらとことん説教してやる。


深夜の、2時を回った。
僕はあれからずっと起きている。
不思議と眠くならないものだ。
4時間前より、さらに苛立ちが増している。
橘平くんがいまだに帰ってこないことへの憤り
と底知れない不安に、昼から何も食べてない空腹感が加わり、今にも吹きこぼれそうだった。
まだか。まだか。
風呂に入っても収まらない。
まだか。
まさか。
まさか誘拐されたんじゃないだろうか。
まさか?そんなはずはない。あるわけない。断じて。絶対に飲みに行ってる。
でも、あいつ一人でこんな夜に出歩いて、無事でいられるのか。
ホテルにでも泊まっているのか。勝手に?あのおバカが?
まだか。
まだか。

しんと静まり返る部屋に、ドアチャイムが鳴り響いた。凍りついた部屋にヒビが入る。
勢いよく立ち上がったが、僅かに残る理性に腕を掴まれ、深呼吸をしてみる。
吸って、吐いて…
ゆっくり、ゆっくり歩いて、鼻から息を吸って、口から吐いてを繰り返し、玄関まで辿り着く。あんまり怒鳴っちゃダメだ、深夜なんだから。いや、こんな夜中に帰ってくる橘平くんがわるい。いや、そんなに怒ることは…いやいや、ここで叱らないと、同じことを繰り返すぞ。
ドアノブに手を掛け、また一つ深呼吸。
なんとか怒りを抑え、奥歯をしっかり食いしばる。
重たいドアを押して開けると、隙間から橘平くんの顔がちらりと見えて、少しホッとした。
目を伏せて、こちらのことを見ようともしない。
我慢できず、ドアがもぎ取れるくらいの勢いで開けた。
「どこ行ってたん!連絡もせんで!何時だと思ってんの!?」
腹から湧き上がる怒りに任せて叫く。
橘平くんの肩がビクッと跳ねて、Tシャツの端を握りしめた。
「前も言ったでしょ!急用入ったら一言…」
違和感に気づいて、言葉を止めた。
服の端を握る手が、小さく震えていた。
大きな黒縁メガネのレンズがひび割れて、 Tシャツの襟元が、一晩でよれるにしては不自然なくらい歪んでいる。
暗くてよく見えないが、口の端が切れて血が滲んでいる。家の中の光でようやく分かった。
「…なんか、あったの?」
横にも縦にも首を振らない。右手で腕をさすっているところに赤黒くシミのようなものができていた。
「ごめ、ん、なさい」
否定も肯定もせず、深く項垂れて、口から小さく謝罪の言葉が漏れ出した。
「あ、上がりなよ、とりあえず」
「ごめんなさい」
その場を動こうとしない橘平くんの手首を掴んで、部屋に引き入れようとして気づいた。
手首に、強く絞められて赤黒くなった手形の痕がある。
「ご、ごめんなさ、」
謝り続ける橘平くんを引っ張って玄関に入り、ドアの鍵を閉める。
「謝るだけじゃ分かんないよ」
頑なにこっちを見ようとしない顔に手を添えて、上を向かせた。
心臓が跳ね上がった。
目の端が切れて、桃色の肉が露出していた。
鼻の下に垂れた赤い筋を、擦った痕がいくつもある。
いつも明るい、薄紅色の頬が真っ黒な痣で塗りつぶされていた。
涙と鼻血でびしゃびしゃに濡れた顔が、蛍光灯の光を受けてテラテラと不気味に光っていた。
「…殴られたの?」
ようやく、こくんと首肯してくれた。
「誰に?」
「せ、せ、先輩に」
「バイトの先輩?」
「うん」
「なにがあったか話せる?」
少しだけ開いた唇がわなわな震えている。
僕は黙って声が出るのを待った。
「あ、あの、今日、早くバイト、終わって、帰ろうとして」
橘平くんはしゃくり上げながら、一つ一つ言葉を出していく。僕はその一つ一つに静かに首を振りながら、黙って耳を傾ける。
「その、先輩が、あ、遊びに行こうって言って、ついてって、」
「…それで?」
「そんで、先輩が、オレんこと、あの」
少し曲がった膝の、上の部分が真っ黒なあざになっていた。よれよれになった半ズボンの裾を握りしめて、息を詰まらせながら話す。「殴ってきて、それで、お金取られて……それで、あの」
「そっか、それで、こんなになるまで…」
橘平くんは俯いて、それ以上なにも言おうとしなかった。
「ごめんね、なんも知らずに怒鳴っちゃって」
「どうしよう」
「とりあえず手当てした方がいいんじゃない?顔とかすごい色になってるよ〜もう腫れてるし」
「うん……そうする」
橘平くんは立ち上がって洗面所へ向かった。僕は救急セットを用意して待っていたが、なかなか戻ってこない。心配になったので見に行くと、彼は鏡の前で声を殺して泣いていた。そして、そのまま床にへたり込んでしまった。
「ど、どうしたの〜」
話しかけても嗚咽を漏らすだけで、振り返らない。
「お金なんていいよ〜また頑張って稼ぐからさ」
「う、あぁ、ごめんなさい、ごめんなさい」
震える橘平くんの背中を、さすってやろうとしゃがみ込み、手を伸ばして気づいた。
肌が、妙にべたついている。Tシャツに隠れていた首筋には噛み跡があり、歯形からすこし出血していた。
それに、生臭い。
「橘平」
「あ、え」
鳩尾の奥に、コールタールみたいに真っ黒な気持ちが湧き出す。
脳みその内側がばちばち弾ける音がする。
「何してんの」
「何って、」
橘平くんは怯えた目で僕を見る。顔をくしゃくしゃにして、泣く。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
コールタールが凝り固まって、喉奥まで迫り上がってくる。焦げ跡がどんどん広がる。胃酸が煮えくりかえるくらい熱い。
「怒んないで」
「怒ってないよ」
橘平くんは一瞬固まってしまった。でもすぐにまた泣き叫ぶ。今度はもっと大きな声で。僕はその肩を掴んで、できるだけ、やんわりと問う。
「殴られただけじゃないよね」
橘平くんは泣きながら
「言えない」と言う。
「なんで?」
「また、みんなに、迷惑かけちゃう」
「かけてもいいって」
「でも……」
「いいから」
橘平くんは泣きながら首を振るだけだ。
しばらく沈黙が続いたあと、先に口を開いたのは橘平くんだった。
「お、お、怒んないでね」
溢れるほどの唾を重たそうに飲みこんで、
また少し息を吸い込んだ後、ゆっくり話し始めた。
「お、オレは、オレせ、先輩に、連れてかれて、先輩のい、家に行って、急に、なぐ、られて」
しゃくり上げながら話すから、集中しないと聞き取れない。
「なぐられて、そっから、なんか、バンって押されて、乗っかられて、嫌だって言ったらまた殴られて…」
「うん」
「そしたら、その、ズボンぬがされて…その…」
そこまで言って、また言葉が詰まってしまった。
「…分かんない、そこから、気持ち悪くて」
「そっか」

そうだ、分からないんだ。
橘平くんはバカだから。
そういうことは、知らないはずだから。
仕方のないことだ。
舌の奥まで上ってきていた黒いものが、少しだけ柔らかくなって胃に戻っていった。
橘平くんはあまりに激しく泣き続けていたので、よれたTシャツの襟元が涙と鼻水でびっしょり濡れていた。
口元にも大量の鼻水がまとわりついてぐちゃぐちゃになっていたから、ティッシュで優しく拭き取ってあげた。
ソファに座らせて、いつもよりずっと小さく見えるその身体をそっと抱きしめる。
「怖かったね」
仄かなみかんの香りに混じって、肉と、脂と、饐えた汗の臭いがした。

僕たちはその日の夜、ご飯も食べずにただ寄り添って過ごした。ソファにもたれて泣きじゃくる橘平くんの肩に手を回し、抱き寄せるように優しく体を預けさせる。
「先輩の名前は、わかる?」
「あ、た、谷口先輩」
「谷口さんか〜、朝になったら、職場に連絡しておくよ。明日はゆっくり休むんだよ。」
「うん」
橘平くんはそのままずーっとずーっと泣いていたけど、1時間もすると疲れたのか眠ってしまった。
肩に寄りかかった重たい頭を撫でてるうちに、僕も意識が途切れ途切れになっていく。
最後に、ぷうぷう小さく寝息を立てて眠る橘平くんが見えて、ぼんやりする頭の中で、カモノハシみたいだなあと呟いた。


明け方、僕は夢を見た。
そこは、丑三つ時の森より真っ暗だった。
目を凝らしたってなんにも見えないくらい暗くて、五年生の僕が体を畳まないと入れないくらい狭い。もう外の世界は真夏なのに不気味なくらいひんやりしていて、その空間だけが冬に取り残されたみたいだった。
布が擦れる音がやけに響く。
僕と、僕の隣に座っている小さな体に吸い込まれて、吐き出される酸素だけが、この小さな世界に渦をまいていた。
「もう行ったっぺ?そろそろ…」
耳元で声をひそめて、そいつが言う。
「まだ。そこにおるけん」
少しだけ開けた襖の隙間から、一筋の光が漏れ出す。僕は少し身を捩って、そこから外の世界を捉える。
足音は離れ、隣の部屋へ移動したようだった。
鬼から逃げなきゃいけないというこの状況も相まって、胸の中がどきどきして鳴り止まなかった。
頬と頬、肩と肩。触れ合ったところだけがじんわり熱くて、冷たいはずの空間で汗ばんでいく。
「なんか、はかはかすんな」
暗闇の中でも、にいっと上がる口の端が見えるようだった。
過ぎ去った足音が、また、とすとす近づいてくる。
「き、きた」
「しーっ」
そいつが、息を呑んで僕の左腕にしがみいた。咄嗟に僕もそいつの肩を抱く。ぎゅっと圧迫された腕から、鼓動が滲んで混ざりあっていった。
隙間から漏れる眩い光が、目の前いっぱいに広がった。


今日も、外はすてきに輝いていた。
朝の空気が少しずつ肌寒くなっている。
抜けるような青空に鱗雲が張り付いて、はがれきれないシールみたいになっていた。
あんなに汚いことがあっても、あれからなんにも変わっていない外の世界が、全部嘘だよと言ってくれているようだった。
でも、脳みそは焦げついたままで、腹の中では冷め切らない胃酸がぐつぐつ煮え立っていた。
バイトを辞めた橘平くんは、毎日昼になっても布団でぷうぷういって眠り続けている。
ベタベタの、生臭い体で。
今日は、一つしなければならないことがある。
あのときと違って忙しくなるぞ。
やることがはっきりしているから、てきぱきことを進められる。
少しだけ重たいまぶたを冷たい水でぱっちり開けて、髪の毛を櫛でとかして寝癖をなおす。
仕事ではないから、ワックスで整えるまではしなくていいかな。
手提げかばんには、メモ帳と、携帯電話と、箱に入れたスパナ。
荷物は少ければ少ないほどいい。

まだぐっすり眠っている橘平くんに、「もういいよ」とだけ囁いて毛布をかけた。
少しだけ震える手で、重たいドアを開ける。
昇り始めた太陽が眩しくて、思わず目を細める。
一歩足を踏み出してしまえば、もう怖いものなんてなかった。

かばんの中で、箱がカタカタ揺れる音がした。


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