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1995年1月17日

その日、私は千葉県千葉市の京葉線蘇我駅の近くにあるビジネスホテルに泊まっていた。エンジニアリング会社に派遣社員され、ある企業の自動搬送システムのソフトウェアを担当するエンジニアの一人として、装置の据え付け試運転のために企業の工場がある現場に出張していた。

この案件はそもそも私の担当ではなかった。ところが、担当者の手が回らなくなっり、急遽手伝って欲しいと言われて、設計に着手したのが、前の年の暮れだった。なんとか一週間でソフトウェアの骨組みを作成して現場に入った。詳細部分は現場で作成するつもりだった。

他の設備の試運転に迷惑をかけながらも、なんとか手動での試運転をこなして、残りは自動運転、というタイミングで下血した。持病の十二指腸潰瘍が再発だった。業務の継続にはドクターストップがかかり、現場を離れることになる。

その後自宅で療養し、下血も止まった頃に千葉の現場から連絡があり、可能であれば現場に戻って欲しいとの依頼を受けた。医師とも相談し、問題ないだろうとのことで、現場に向かったのが1月16日。前日の1月15日は私たち夫婦の12年目の結婚記念日だった。

1月16日にホテルに入り、その日は他のメンバーに状況を確認するなどして、翌日の現場での仕事に備えて早めに就寝した。

久しぶりに千葉のホテルで目を覚まし、テレビをつけると阪神地区で地震があり、その影響で長田区で火災が起こっているというニュースが流れていた。画面には燃え盛る炎が映し出されていた。その時点で確認できている負傷者は十人程度だとのことだったと記憶している。

事の重大性は全く実感がなかった。当時の自宅は西宮にあったので、ニュースで流れた神戸からは離れており、よそごとのような気分だった。

レンタカーに分乗して、現場に入る。現場の詰所では「なんか神戸で大きな地震があったみたいやなぁ」という程度の軽い会話が交わされていた。

そして、その軽い雰囲気を一転させたのが、テレビに映し出された信じられない映像だった。そこには真横に倒れている阪神高速道路が映っていた。

慌てて公衆電話まで行ってみると他の作業者も並んでいる。順番を待って自宅に電話をするが、誰も出ない。何かあったのだろうか、と血の気がひく。十二指腸潰瘍が完治したばかりなのに、胃が痛む。

たまたま控えてあった同じアパートの住人の家に電話をすると通じる。アパートは無事で、見かけたところでは、モーニャン(妻)と息子にも怪我などはなさそうとのことだった。「よかったぁ….」安堵して、胸を撫で下ろす。

事態が徐々にわかってくる。とんでもないことが起こっていることは間違いない。とにかく早く自宅に帰って家族を支えないといけない。同僚の電気担当者とどうやって帰ろうかと相談していると、そこへ派遣先であるエンジニアリング会社の部長が顔を出して、「お客様に迷惑がかかるのに、現場を放って帰ろうなんてことを考えるな!」と怒鳴られた。

そしてこの時に決心した。この案件が終わり次第、この会社との契約は切ろうと。

モーニャン(妻)は当日、5時ごろにトイレに起きて、しばらく眠れなかった。
そして5時46分に、かつて経験したことのないような激震に襲われる。咄嗟に横に寝ている息子の上に覆い被さって、落ちてくるものから彼を守った。後から周りを見てみると、タンスは倒れているし、電子レンジが二人の枕元まで飛んできていた。

インフラは全て止まっており、食べるものを作ることもできない。何か食べるものを買おうと、コンビニまで行くと、コンビニの入り口のガラスは割れていた。そして多くの人が並んでおり、すでに売っているのはほとんどなくなっている。もちろん食事として食べられるものは何もない。

息子は8歳だった。モーニャン(妻)と一緒に並んでいるのを見た、前に並ぶ年配の方が、持っていた一枚の煎餅を二つに割って、その内の一つを息子にくれた。結局、並んで買えたのはポテトチップス一袋だけだった。

コンビニを出て自宅への道を歩いていると、何かに毛布がかけられて置かれている。そして、近くにいた人が「踏まないでね」と言う。それは地震で亡くなった方のご遺体だったのだ。

自宅に帰って息子と二人でポテトチップスを食べていると、隣のアパートに住む息子の友達のF君のお母さんが、「大丈夫」と声をかけてくれた。そして、彼女の家の車に一緒に避難することにする。彼女の家の車は大型のワンボックスカーなのだ。翌日には、飯盒(はんごう)でご飯を炊いてくれて一緒に食べさせてもらった。本当にずいぶんとお世話になった。

避難している中で、、モーニャン(妻)は私の事務所に電話をするために、近くの公衆電話に並んだ。家の電話機は電気がないと使えない。待っている間には余震もあった。怯えながら待ち続け、やっと自分の番になり、現場事務所に繋がった。私が出ると、モーニャン(妻)は「いつ帰って来られるの!」と私に問うた。私は現場で部長に言われたことがあったので、「現場があるので帰られないんや….」と渋々告げた。すると、モーニャン(妻)は「こんな状況なのに何を言っているの!!」と激怒したのだった。

結局すぐにお客様から、「現場は一時中断するので、皆さん自宅に帰ってください」との指示をいただき、私たちは千葉の現場を離れることができた。

幸い自宅近郊の交通機関は、阪急電車が西宮北口駅まで動いていた。我が家は西宮北口から徒歩15分の場所にある。阪急電車に乗って西宮北口駅の一つ手前にある武庫之荘駅まで来た時には、「本当に地震があったのだろうか」と思うくらい周りの光景に違和感はなかった。

ところが、武庫川の橋を渡った瞬間にその光景は一転した。断層による地震は、ここまで被害の大小をわけてしまうのかと驚く。

西宮北口駅について、自宅まで歩く街並みの状況は悲惨なものだった。1階が駐車場になっている下駄履きのマンションは駐車場部分が倒壊していた。木造の家は軒並み倒壊していた。

なんとか家族が避難しているF君の家に到着して、家族と再会した時には安堵の涙がこぼれた。

本当に運良く助かった。一歩間違えていたら、モーニャン(妻)と息子はこの世にいなかったかもしれないのである。

その後、私たち家族はモーニャン(妻)の父母が住む名古屋に避難した。

西宮を離れる時にF君のご両親にお礼を告げる。その際に、F君たちはどうするんですかと聞くと、お父さんが、「この町でやらないといけないことがあるので、離れられません。」と言われていた。彼はおそらく残って、ボランティアとして働いたのだろう。

どうすることが正しい選択なのかはわからないし、名古屋への避難が間違っていたとは思わない。しかし、F君のお父さんの言葉に若干の後ろめたさを感じたことは事実である。

一週間ほどして現場が再開された。私は名古屋から現場に戻って、設備の立ち上げを完了させた。

息子は名古屋の学校に編入し、1ヶ月ほど過ごした後にモーニャン(妻)と息子は西宮に帰った。

私は、現場が終わると同時に、派遣会社に頼んで派遣先との契約を終了させてもらった。送別会が行われて、部長に「わがままを言って、申し訳ありません」と告げると、彼からは「ほんまに、わがままなやつや」と言われた。

「すいません」と頭を下げたが、その言葉とは裏腹に、心の中では、こんな人を大切にしない会社には二度とお世話になりたくないと思っていたのだった。

最後に、この大地震を通して、私が得た教訓は何だったのかと考えてみた。

もちろん災害の恐ろしさとその備えの重要さは心に刻まれた。
しかし、それとは別に感じたことがある。

結局、私は地震そのものを経験していないのである。そんな中で痛感したのは、モーニャン(妻)や息子の辛い経験を自分のこととして感じることの難しさと大切さだった。

そして、それは彼らの場合だけではなく、また災害の場合だけでなく、人の辛い思い、辛い経験を受け止めること、それ自体の大切さなのだ。

そんなことを大地震を経験した家族から教えられたと思っているし、これからも色々な局面で考え続けなければいけない。

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