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呼ばれた⑵

これは確実に呼ばれたな~というお話を。
(怖がらないでね。🤭)

私が留学中にバイトさせてもらっていた日本食レストランは「みやまレストラン」というのだけれど、私がいた頃は、本店はメイフェアという日本でいう銀座とか麻布のような高級住宅地の中にあった。
(残念ながら、現在はCITY地区の方のみになってしまっているよう。)

その本店は38 Clarges Street(くらーるじぇす通り38番地)にあったのだけど、地下は昔”音楽サロン”として使われていて、あのショパンも演奏したことがあったとのことで、たまに音楽生が見に来ることもあると、勤め始めた時に、そこの社員さんから聞いた。

私はピアニストは、ショパンやドビュッシーのような、柔らかくて優しい音を出す人が好きなので、時を経て、同じ場所にいるのかと思うと、もうそれだけでワクワクした。


地下は”寿司バー”として、職人さんが握り寿司などを握る場所があり、外人さんの好きな”裏巻き”と呼ばれる、日本でいう海苔巻きの海苔とごはんをひっくり返して巻いた、外側にオレンジ色も鮮やかなとびっこ(トビウオの卵)を付けたものが人気だった。

ロンドンに住んで…多分3年目くらいの夏だったと思うのだが、その当時発売されたばかりの「葬送」という平野啓一郎さんの書いた上下本を里帰りから戻った同僚が持っていて、(その子は音大に通っていて、バンドを組んでいた)それを貸してもらって読んでいた。

「葬送」って、表紙も暗いけれど、中身も暗い。笑
だって、主人公ショパンが、だんだんと死へと近づいてゆく話だもの。

だけど、気が滅入るような話ではなく、淡々と、時には情熱的に演奏し、物語として、とても面白かった。
これだけの長編を飽きさせずにそこへ持ってく平野啓一郎さん、若いのにさすがは芥川賞作家だなぁと感心したものだ。

その頃、ちょうど私の部屋に3か月間だけ、という居候が住んでいた。
?日本に住んでいる人には、この”他人との距離感”はわかりにくいと思うけれど、私の住んでいた部屋は、元々ルームシェア用の2人用部屋で、そこに1人で住むというラッキーな状況だった。(ここが5軒目のフラット。)

で、夏休みの間だけ3か月住まわせて欲しいと、大家さんに他のポーリッシュ経由で頼んだようで(ポーランド人のことをポーリッシュと呼ぶ。日本人がジャパニーズなのと同じように。)、空いている私の部屋に来た、ということだ。

元々2人部屋なので、こういう時は当然断れない。
全く見たことも聞いたこともない、赤の他人といきなり3か月同じ部屋で住む訳だ。😅

私も最初びっくりしたけれど、逆もまたしかりで、渡英してすぐに、全然知らない日本人のフラットに泊めてもらったこともあるし、だんだんとそういうのに慣れてくるものだ。

なので、この時はパスポートやカードや時計など貴重品は常に持ち歩くことだけはして、共同生活を始めた。

まだ大学1年生になったばかりの彼女は(もう名前も忘れてしまったけれど)、外人にしては小さい方で、158㎝くらいの痩せた、明るく人懐っこいコだった。

私は殆ど学校かバイトだったので、あまり部屋にいなかったけれど、一緒に部屋にいる時は、色々話しかけられた。

それで3か月も一緒に住むと、それなりに仲良くなるもので、最後に帰国する時にはたくさんお礼を言われ、是非今度ポーランドに遊びに来て欲しい、その時は私が案内するから!と、何度も強く言われた。

うん、ありがとうと答えるも、私は本気にはしてなかった。
けれど、その後もメールで何度も何度もその話をされるので、とうとう本当に行くことにした。

同じレストランで働いている同僚の友達、という、ワンクッションおいた子がちょうどどこかに旅行に行きたい、と言っていたというので、じゃぁ一緒にポーランドに行く?ということで、2泊3日で真冬の寒い中、いくことになった。


行く日取りなどが決まり、彼女に連絡したら、とても喜んでくれて、(良くはわからないけれど)どこどこや、どこどこにも連れて行く、など、勝手に盛り上がっているようだった。

そして出立の2日前にメールで、そろそろ空港に迎えに来て貰う、または空港からどこの駅へこちらが出向いて、どこで落ち合うのか、教えて欲しいとメールをした。

すると、次の日、つまり出立の前日になって、「スカラシップを貰う大学(外国)に丁度その日から行かなくてはならなくなったので、迎えにも案内も出来ない。その代わり安い宿を教えてあげるから、そこに泊まって。」との返事が来て、もう唖然茫然。
今までの、あのアツ~いお誘いは、一体なんだったのだろう。。。😳

そもそも泊めてくれると言ってたので、宿は取っていなかったので、そこから急に予約。
真冬なので(オフシーズン)予約は出来たが、着いて何して良いのかわからなくなった。
というか、人間不信になりそうだった。


同僚の友達という、顔見知りくらいの子と一緒に、真冬の寒いポーランドに降り立ち、首都ワルシャワに電車でついた時の、あの夜の暗さと吹雪く雪の冷たさを、今も忘れられない。

(何しに、こんなところまで来たのだろう…)
唯一の救いは、一緒に来てくれたコが底抜けに明るい、余り気にしない子だったこと。
せっかく来たんだから、楽しみましょうと言ってくれたので、その日は宿に紹介してもらった、ポーランド料理の美味しいお店に出向いた。

次の日は晴れて、雪は止んだ。
宿を出て、近くを歩いていたら、何やらお祭り?とまでは言わないまでも、良く教会主催で、バザーとか、その周りで屋台が出たり、色々催し物をしているような、そんな感じだったので、ひきつけられるようにそこへ向かった。

ヨーロッパにいたころは、どこの国でも、教会に寄った際には中に入って祭壇や椅子やステンドグラスなどを見学した。

そしてそこの教会は、なんていう教会なのか、宿から借りてきた「地球の歩き方」を見て確認したところ、『聖十字架教会』といって、この中の柱のひとつに、祖国に帰りたいというショパンの気持ちを汲んでお姉さんが、祖国ポーランドへ持ち帰った心臓だけが、収められている、とのこと。😳

そう、ショパンが亡くなったのはフランスで、ご遺体はフランスのお墓に収められているのだ。


”柱”って貧相な想像ではただの棒だけれど、これはもう立派なお墓


亡くなったのは10月17日とのことだけど、生まれたのは2月22日だって。
えっ!?その行った日は2月22日なんだけど!!Σ(゚Д゚)
と言うことで、生誕祭をやっていたのだった。

もうビックリというか、半ばショックを受けた状態で暫く立ち尽くして、その柱を見続けていた。
サロンのあったあのレストランに、ショパンの念でも残っていたのか。
そして、私にくっついて、ここまで帰りたかったのか…とまで想像してしまった。😂


という、お話。
実はこの話は、以前私が他のブログを書いていた時にも投稿したことがあるのだけれど、怖いことに、その時の時間が22時22分22秒だったことに、アップしてから気づいて更にゾ~っとしたものだ。😱


長々と書いたけれど、最後まで読んで下さった方、どうもありがとう。🙇‍♀️
どう思われましたか?
やっぱり呼ばれたと思いましたか?😅





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こまろ
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