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【農業小説】序章 農業は自然を育む|農家の食卓 ~ Farm to table ~

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加工用トマトのブランディング成功からトウモロコシの産地化にも成功したある農家の物語

僕が兵庫県の丹波市に本社を移してからほどなく、乾燥して少し縮んだトウモロコシの穂軸が宅急便で届いた。

なかにはその種苗会社のパンフレットや研究資料が同封されていた。その日のうちにTwitterのDMも送られてきた。

送信者は西山信治という稀少種子のコレクターで、世界中から珍しい穀類の種子を集めては供給も手がけている貿易商社あがりの人物だった。

僕たちの本社は自らが立ち上げた生産者団体「天と地と」という「食卓と農業をつむぐ組織」の多目的農場と教育センターを兼ねた施設だった。

西山信治はその点に注目し、僕に白羽の矢を立てたのだろう。

春になったらこのトウモロコシの種を蒔いて欲しいと、そしてうちの野菜栽培担当者を説得してもらえると嬉しいとTwitterのDMには書かれていた。

送られてきた品種は、糖度に特徴のあるフリントコーンの八列トウモロコシだった。

西山信治の説明では、八列トウモロコシは紀元前1000年より前から現在のアメリカ合衆国にあたる地域で栽培されていた痕跡が見つかっているらしい。

アメリカに西洋人がやって来てからは、初期の植民者にとって重要な農作物となったそうだ。また、その古い歴史の裏付けとなる証拠もあるらしい。この頃は技術の生み出した驚異と見なされたそうだ。

こうした丸々とした粒がぎっしり詰まった八列トウモロコシが長く生産され続けてきた事実に驚かされるばかりだ。

その当時の粒は四列か五列が一般的だったにもかかわらず、いまでは18列から20列にまで増えたのだ。こうして何世代にもわたって種を慎重に選別し、独特の味を絶やさず守り抜いてきたわけだ。

1700年代の終わりになると、八列トウモロコシはニューイングランド西部やハドソンバレーの下流域で広く植えられるようになり、後には遠くイタリア 南部にまで伝えられたようだ。

しかし、1816年の冬の大寒波でニューイングランドは悪名高い「夏のない年」に襲われたが、バーモント州で生き残った作物はフリントコーンだけであった。

しかし、作物は深刻な被害を受けて、ついには備蓄されていたこの八列トウモロコシの大半が人間や家畜に食べさせるために使われ、絶滅寸前にまで追い込まれたのである。

西山信治から送られてきた穂軸は、イタリアで200年にわたって生き残ってきた系列の流れを汲むもので、「オット・フィーレ」(八列)と命名されていた。彼はこれを日本で産地化させたいと考えたのだ。

この種を植えれば、伝統の味の消滅を食い止められ、そこでしか食べることができないということで差別化にも役がたつだろうという趣旨のことTwitterのDMには書かれていたのだ。

さらに念のためか、「この八列トウモロコシは地球上で最もおいしいトウモロコシになるはずです。現在の日本でこれだけのものは絶対に手に入りません、収穫されたあかつきには種を残しておいて欲しい。これはF1品種ではないから、次年度の種として使えます」

と書き添えられ、見返りはいらない、種を分けてもらえるのなら取りに伺うと書き足されていた。

この提案に大喜びしたかと言えば、答えはもちろん「YES」だった。地域の多様性を再現するだけでなく、差別化できる商材としての魅力ある作物を産地化させるチャンスが訪れたのだから。

そして僕には、他のどのレストランのメニューにもない食材で料理を作り、おまけに極上のトウモロコシを自分で試食するチャンスが与えられたのだ。

しかし、うちの野菜栽培担当の山辺心にこの穂軸を持っていくのは、正直なところ少々気が進まなかった。

山辺心はトウモロコシの栽培が大好きというわけではなく、野菜の栽培を愉しむというよりは野菜栽培の研究をしたいと理由でうちに入社したのだ。

彼が担当できる畑の広さも3ヘクタールしかない。原料用トウモロコシの栽培には経済的な規模としてもっと広い面積が必要だから、山辺が興味をそそられなくても無理はない。

だいたい1アールで102kgほど収穫することができるから、3ヘクタールだと30トンくらいにはなるだろう。

おまけにトウモロコシは他の面でも手間がかかる。とにかく大食漢というか、たとえば大量の窒素を与えないと育たないというイメージなのだ。

土壌診断してみないことには詳しいことはこれからだが、元肥は1アールあたり窒素、リン酸、カリそれぞれ1.5kg~2kgを施肥といったところだろうか。

トウモロコシは生育初期に元肥の量が多過ぎると窒素の濃度障害を起こしたり、茎葉の生育が旺盛になり過ぎることから倒伏の原因になったりするので注意しなければならない。

だからトウモロコシの栽培を打診された野菜農家というのは、コストと見合うのか、それで補助金がでるのかとか、そんなことばかりが気になるのだ。

「市島ポタジェ」のレストラン計画が始まった頃に、僕はある農家について山辺心に話したことがあった。その農家では、僕たちのメニューに使う予定のトウモロコシを成熟する前に収穫していた。

穂軸はまだ数センチメートル程度しかなく、粒も形成されていない。丸ごと提供されるその穂軸は、家庭で野菜炒めを作るときに使われる缶詰のヤングコーン用だった。

ただし、僕たちの小さな穂軸はとびきり味がよかったのだ。しかも一般的な栽培方法として一株に最も大きい果実一個を残して、他はすべて摘果することで一つが大きな果実になるので、摘果する。

摘果した小さなトウモロコシは、市販されているヤングコーンとしても楽しめるのだ。

僕はこのアイデアの面白さを山辺に何とか伝えようとしたが、彼の心は微動だにしなかった。「つまり、せっかくトウモロコシを植えてるのに成長を待たずに摘み取るんですね。くだらない」。

そう言いながら、山辺はまるで怒りを腹に収めるかのように、いきなりしかめ面をした。

そして右手が地面に触れそうになるまで身をかがめてから、次につま先で立ち上がって、眉をひそめながら僕の頭よりずっと高く左手を伸ばし、トウモロコシの茎がどれほど大きく成長するか手で示した。

「いいですか、トゥモロコシってやつはですね、ここまで成長してやっと、そろそろ穂軸を作ろうかと考え始めるんですよ。おまけにこの品種は、フルサイズのトウモロコシが収穫できる段階になっても、肥料の吸収力が半端じゃないんです。地中に残った肥料を吸いつくすことを目的に植えられることもあるくらい吸肥力の高い作で植物の世界でも、母なる自然のエネルギーをこれほど奪うやつはいないですよ。しかも、ここまで大きくなって農家には何が手に入ると思いますか? これだけですよ」

と彼は小指を見せびらかした。

「これっぽっちです」

そして、僕がその指をあらゆる角度から見えるように手をぐるりと回転させてから、吐き捨てるように言った。

しかし、僕は彼の意に反してこのプロジェクトを推進した。かつては耕作放棄地だった場所がいきなりトウモロコシ畑に姿を変え、黄金色の畑が周囲に広がっているのだから、その光景にこの頃の僕は興奮したものだ。

いま回想しても、当時と同じように心をかき乱される。

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