Diageology元ディアジオ ジャパン株式会社社員の回顧録③

回顧録③

ディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)③
 
皆様こんにちは、元ディアジオ ジャパン社員による回顧録の第3回目です。
 ディアジオの前身であるディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)の続きを明らかにしていきたいと思います。
 1800年代中期から後半は、スコッチ ウイスキーの最初の黄金時代になり、今日のウイスキー業界の成功の基盤となる繁栄の時代だったわけですが、一つの原因としてヨーロッパの多くの素晴らしいワイン産地(特にフランス)が、ワイン産業を麻痺させたブドウ園の害虫であるフィロキセラ(米国から持ち込まれた樹木に寄生していた)によってあっという間に壊滅状態になってしまったことも挙げられます。これによりまして、スコッチがブランデーに代わる上流社会のスピリッツとして選ばれる機会が生まれたわけですね。フランスのワイン製造業界が回復する頃には、スコッチは市場のシェアをはるかに上回り、1880年代後半にはスコットランドに160近くの蒸留所が存在するまでになっていたそうです。残念ながら、これらの成功は前回書きました通り長くは続かず、スコッチの過剰生産や業界最大手の企業の倒産を招き、1898年のパティソン暴落に至り、市場初の大規模な不況の始まりとなりました。
 一方、DCLは資源を節約し、比較的ゆっくりとしたペースで拡大していく施策をとったのです。市場が低迷した後、DCLは統合買収政策を実施しました。DCLはウイスキーの過剰在庫を積極的に購入しました。一例として、DCLは過剰在庫・過剰生産に悩まされ、買収の対象になっていたダルユーインータリスカー社(Dailuaine-Talisker Distilleries Ltd.)を1916年にジョンウォーカー&サンズ社、ブキャナンーデュワーズ社とシンジケートを組み買収しました。また、DCLがリースにあるパティソン家の保税倉庫を購入したことも挙げられます。これらはパティソン兄弟が建設するのに推定6万ポンドかかったのだそうですが、DCLはそれら在庫の蒸留酒も含めオークションでわずか25,000ポンドで手に入れたそうです。なにか江戸時代の紀伊國屋文左衛門が、明暦の振袖火事の際、木曾の木材を買い占めて売りさばき巨利を博した、という話と同じように繋がりそうですね。ちなみに買い占めた材木を売って巨利を博したのは紀伊國屋文左衛門ではないそうです。河村瑞賢だそうです。DCLはグレーンウイスキー市場は牛耳っていたとはいえ、ブレンドし販売しているのはジョンウォーカー&サンズ社、ブキャナンーデュワーズ社のブランドなので、販売価格の取り決めだけはしておいてお互いにうまく乗り切ろうともくろんでいたようですね。
 また、DCLは国家政策と連携しながら化学工業に参入しました。工業用アルコールは爆発物の製造に大いに需要があったので、そのことは、のちに1914年に始まった第1次世界大戦の軍事関連を含めたイギリスの化学工業の発展に良好な貢献を果たしまた。生産戦略を工業用アルコールの製造に切り替えたため、購入した他の蒸留所を追加の工業用アルコールおよび酵母工場に改造していきました。工業用アルコールと酵母の分野で新たに多角化した子会社からの原資を使って、同社は競合する蒸留所やそこを所有する企業をさらに低価格で買収していき、その蒸留量によっては生産量調整のため買収後閉鎖したりしていきました。1922年までにDCLは、スコットランドのグレーン蒸留所を1ヶ所を除いてすべて、アイルランドのグレーン蒸留所を1ヶ所を除いてすべて、イングランドのグレーン蒸留所を2ヶ所を除いてすべて所有してしまいました。ブレンドウイスキーを生産し販売を拡大していたジョンウォーカー&サンズ社、ブキャナンーデュワーズ社はDCLとの協業路線を築いていくほかに道はなかったのでしょう。しかし、DCLと上記ブレンデッドウイスキー・メーカーは相互の競争関係から共同体制への組織化を一歩進め、業界のコントロール体制も強化していくのです。また、大不況のなかでも歴史的に生き残れる制度ビジョンが強調されました。
 もう一つのDCL戦略路線として、禁酒法の影響下にあった主に北米におけるウイスキー市場の拡大と海外投資を推進しました。その動きに合わせるように、スコッチウイスキー業界は北米市場への輸出増と ブランド化を達成していきました。1920年に始まった全米の禁酒法ですが、アメリカ全土でバーボンとライウイスキーの蒸留所やビール製造会社が生産を中止してしまいました。また禁酒法が施行される前は、アイリッシュウイスキーが、多くの米国市民がアイルランド系だったためアメリカで人気の輸入品でした。しかし丁度その頃アイルランドではアイルランド独立戦争(1919~1921年)とそれに続くアイルランド内戦が起き、禁酒法と時期が重なり、イギリスとの貿易戦争やアイルランド自由国政府が導入した保護主義政策、さらに蒸留所の経営不振によりアイルランドの蒸留所が輸出用のスピリッツを製造することはほぼ不可能になってしまいました。アイリッシュウイスキーが復活するのは21世紀を待つしかなくなってしまいました。
 禁酒法が施行されてからというもの、国民のアルコールへの嗜好が消えることはなく、密造酒製造者は独自の酒を製造し始めたのですがメタノール含有量が高いものもあり、密造酒は危険な飲み物で消費者も死を覚悟のうえで飲まなければならなかったのです。そんなこんなで違法であるにもかかわらず、米国ではスコッチウイスキーの需要が高まっていきました。さらに偽スコッチも流入しはじめ、スコッチ・メーカーは消費者の健康とスコッチウイスキーの品質に対する評判を守るためという大義名分のもと、米国の需要に応えるべく動き出したのです。しかし米国政府の怒りを買うことを嫌がったスコッチウイスキーの蒸留業者は、禁酒法の影響を受けないカナダ、メキシコ、西インド諸島などの近隣諸国や地域への輸出をターゲットにしました。そして船舶で米国領海を少し越えたところまで運び、荷物をアメリカの密造業者のボートに降ろし、スコッチを本土に密輸しはじめたのです。さらに需要の増加によりアメリカの密造業者がウイスキーを改ざんしたり暈を増やすため蒸留酒を薄めてしまうのではないかと懸念したDCLは、著名な独立系スコッチ蒸留業者と団結して指定地域組織というものを編成し、モグリの商人を排除して密売人のいかがわしさを取り除き、他の闇取引への流出を阻止するための情報ネットワークを整備し、スコッチウイスキーの品質と評価をコントロールし、一種の管理された密輸体制を確立したそうです。課した規則に違反して蒸留酒を改ざんした顧客と密造業者から供給と信用を取り上げたそうです。なにか室町幕府と中国の明との勘合貿易みたいなことが思い浮かんだのですが、少し違いますか。1930年までに、スコッチウイスキー産業の密輸への関与は公然の秘密となっていたのですが、英国政府は米国に密輸される予定のウイスキーをスコッチ・メーカーが輸出するのを阻止しようとほとんど努力しなかったとのことです。その頃までには産業的にも密輸は秘密なものではなくなっていて、禁酒法終了後にはすでに、スコッチウイスキーの品質は不動のものになっていたそうです。
 その密輸に関してカナダ経由でDCLにかかわった会社にシーグラム社があります。1857年、カナダのオンタリオ州ウォータールーに設立されたウォータールー蒸留所を所有するところからスタートしたジョセフ・E・シーグラム(Joseph E. Seagram)のジョセフ・E・シーグラム・アンド・サンズ社(Joseph E. Seagram & Sons)を1928年に買収しましたディスティラーズ・コーポレーション・リミテッド社(Distillers Corporation Limited)はサミュエル・ブロンフマンとその兄弟によって1924年に設立されました。彼らは禁酒法時代に密造業者に酒を売って生計を立てており、会社も英国のDCLとブロンフマン家との合弁事業であり、カナダにおけるDCLのスコッチウイスキーブランドの流通を管理していました。DCLはブロンフマン家に任せることにより、禁酒法時代に米国に密輸する前にカナダでウイスキー在庫を合法的に購入する密造業者に対して、一歩距離を置くことができたわけです。ですがDCLにとってブロンフマン家がカナダやその他エリアでスコッチウイスキー市場を開拓するのに不可欠なパートナーだったのは間違いありません。

シーグラム社(Seagram)

 ここで折角ですので一時は世界でNo.1の酒造メーカーだったシーグラム社について述べておきたいと思います。私の世代ですとキリンビール社との合弁会社であったキリンシーグラム社はご記憶にあるかと思います。1970年半ばのロバート・ブラウン(販売当初はサントリー社のオールド・ランクの特級ウイスキーでした。)のプロモーションでは芸術家の岡本太郎さんの「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と言うTVCMと底に顔のエンブレムのついたグラス付きの販促キャンペーンを思い出します。(岡本太郎さんのWikipediaで調べましたら、ブランデーのプロモーションとありましたが、ネットで他をあたりましたらやはりロバート・ブラウンでした。キリンシーグラム社出身の方、訂正宜しくお願いいたします。しかし物持ちの良い方が結構いらっしゃるのですね、このグラス、オークションに意外と出ております。しかも2種類もあったのですね。)また、1級ウイスキーの「NEWS(ニューズと発音、表記していました。)」や2級ウイスキーだった「ボストン・クラブ」もよく売れておりました。どれもこれもかなりおいしかったと記憶しております。サントリー社も真似した商品を出したくらいでした。
 そのシーグラム社ですが、先にも申し上げましたジョセフ・E・シーグラムが設立したジョセフ・E・シーグラム・アンド・サンズ社からスタートし、1928年にサミュエル・ブロンフマンとその兄弟、DCLとの合弁企業であるディスティラーズ・コーポレーション・リミテッド社が買収し一大企業への道を歩んでいきます。シーグラム氏は後に政界に転向し、1896年から1908年まで保守党の国会議員を務めたそうです。そのブロンフマンですが、カナダでも禁酒法が施行されていたころ(州によって期間はまちまちですが)米国同様医薬目的のアルコールは禁止されていなかったので、1918年、卸売薬事免許を取得し、法人会社を立ち上げます。彼はハドソン湾会社(Hudson's Bay Company)からデュワーズウイスキーの販売契約を購入し、ドラッグストアや「薬用」混合物を作る加工業者を通じて、純粋な酒を販売し始めました。また、米国国境沿いに貯蔵庫を設立し合衆国に禁止ウイスキーを供給しだしました。しかし質の悪い模倣ウイスキーも多かったため、質の良いウイスキーの需要にこたえるため、1926年、ディスティラーズ・コーポレーション・リミテッド社はDCLと業務提携をし、モルト原酒の供給やDCLブランドの販売の許可、ブレンディング技術の援助を獲得しました。ヘイグ、ブラック&ホワイト、デュワーズ、バット69などのブランドのカナダでの販売権を得たそうです。そしてアメリカのみならずキューバ、西インド諸島、中央アメリカに輸出し、好調な売れ行きを博すこととなり、天文学的な財を築き、わずか数年で一躍北米有数の大富豪の仲間入りを果たしました。禁酒法の時代に酒を密輸し、大儲けしたことで有名なアル・カポネもブロンフマン家の一介の売人にすぎなかったそうです。さらに1927年モントリオールにジンの蒸留所を立ち上げ、1928年に先にも書きましたジョセフ・E・シーグラム・アンド・サンズ社とシーグラム83とシーグラムVOのブランドを獲得します。さらにはDCLも参画した新しい持株会社ディスティラーズ・コーポレーションーシーグラム・リミテッド社(Distillers Corporation-Seagram Ltd.)を創設しました。
 1929年秋、Wall Streetで株価は暴落し事態は激変しました。不況の深まりとともに国内市場は一挙に縮小してしまいました。ただ1933年9月、大統領選挙中にフランクリン・ルーズベルト次期大統領が禁酒法廃止を誓言したため、またアルコール市場は急拡大しだしました。このため、DCLはカナダ企業との合併よりもアメリカ市場への進出に重点を置くほうに舵を切り替えました。この交渉を巡ってカナダとアメリカのどちらを重視するかでDCLとブロンフマンは対立し、DCLとのパートナー関係は解消してしまいました。1933年、ブロンフマン家はディスティラーズ・コーポレーション社のDCLの持ち株を購入し、蒸留帝国を拡大する方法を検討し本格的に北米への進出を始めました。まずインディアナ州ローレンスバーグのロスビルユニオン蒸留所(Rossville Union Distillery)を買収、米国での事業を運営するためにジョセフ ・E・シーグラム&サンズ・インコーポレイテッド社(Joseph E.Seagram & Sons Inc.)を設立しました。次に1934年にメリーランド州リレーにあるメリーランド・ディスティラーズ社(Maryland Distillers,Inc.)とその子会社カルバート社(Calvert)を買収し、自社の熟成したカナダ産の在庫を輸入して、新しいアメリカの蒸留酒とブレンドしました。シーグラム社は中級価格で中品質ブランドの「ファイヴ・クラウン」と「セヴン・クラウン」をアメリカ市場に出荷し、1935年は100万ケースを売り上げそうです。さらにケンタッキーで超近代的蒸留所を建設し、1938年までに、ディスティラーズ・シーグラム社(Distillers-Seagram)は3つのアメリカ工場で約6,000万ガロンのウイスキーを熟成していました。1939年に英国からジョージ6世とエリザベス女王がカナダを訪問された際、ブロンフマンは600種類のウイスキーのサンプルをブレンドし、彼らに敬意を表して名高い「クラウンローヤル」を作り上げました。また、ジェームズ・マッケンナの死により、1941年にマッケンナ一族よりヘンリー・マッケンナ・ブランドと蒸留所をシーグラム社が買収しました。しかし1960年代から1990年代にかけて、シーグラム社の蒸留酒で最も人気があったのは、「セブン・クラウン」、「シーグラムVO」、「クラウン・ローヤル」の3種類でした。
 1940年代、シーグラム社はウイスキー事業からより大規模な酒類産業へと事業を拡大しました。1942年にドイツのワイン醸造会社フロム&シシェル社(Fromm & Sichel)と提携してカリフォルニアのポール・マッソン・ヴィンヤード社(Paul Masson vineyards)を買収したことから始まりました。第二次世界大戦中、シーグラム社はプエルトリコとジャマイカからラム酒を輸入し、後に「キャプテン・モルガン」、「マイヤーズ・ラム」、「ウッズ(Woods)」、「トレローニー(Trelawny)」のラベルを発表することになる西インド諸島の蒸留所をいくつか買収しました。マム(Mumm)のシャンパン、ペリオール・ジュエ(Perrior-Jouet)のシャンパン、バートン&ゲスティエ(Barton & Guestier)、オージェ・フレール(Augier Frères)も買収しました。また1967年、オルメカ・テキーラを設立します。その後1990年代、急成長を遂げていたパトロン・テキーラとも販売契約を結びました。パトロンは最初の蒸留所であるシエテ・レグアスの規模を超えてしまったため、シーグラム社は生産をサポートするために新しい蒸留所、コロニアル・デ・ハリスコ蒸留所を建設するのですが、1997年に施設が完成してからわずか4か月後、パトロンとの販売契約を失い、そのため、オルメカとマリアッチのブランドの製造をコロニアル・デ・ハリスコに切り替えました。
 リンドン・ジョンソン政権下での米国税法の改正により、ブロンフマンにとって石油会社を買収することが有利となり、1963年、シーグラム社はテキサス・パシフィック・コール・アンド・オイル・カンパニー社を現金 6,100万ドルで買収し、シーグラム社が所有する別の石油生産会社であるフランクフォート・オイル・カンパニー社と合併させ、新しい会社はテキサス・パシフィック・オイル・カンパニー社と名付けられました。
 また英国進出の第1歩として1935年、ブロンフマンは、スコッチウイスキーブローカーのジミー・バークレーとの取引関係を利用して、グラスゴーのブレンディング会社ロバート・ブラウン社(Robert Brown&Co.)を買収しました。その中には成熟したウイスキーの大量の在庫も含まれていました。翌年、シーグラム・ディスティラーズ・カンパニー社(Seagram Distillers Co.)がスコットランドに設立されました。1949年、バークレーはR.D.ランディからアバディーンに本拠を置くシーバス・ブラザーズ社(Chivas Brothers)を85,070ポンドで買収する仲介役を務めました。翌年、バークレー(すでにシーバス・ブラザーズ社の取締役)はシーバス・ブラザーズ社に代わってミルトン蒸留所(Milton distillery、後にストラスアイラ(Strathisla)と改名)を公売で71,000ポンドで購入しました。さらにシーグラム社はストラスアイラの隣に新しい蒸留所、グレン・キース蒸留所(Glen Keith distillery)を建設しました。この蒸留所は、燃料源として石炭や泥炭(ピート)ではなくガスを使用した最初のスコッチ蒸留所とのことです。
 サム・ブロンフマンは1971年に亡くなり、会社の日常業務は息子のエドガーに引き継がれました。1973年、シーグラム社はグレンリベットに新しいブレイヴァル蒸留所(Braeval)を開設し、1975年にアルタベーン蒸留所(Allt-a-Bhainne)を開設します。まだまだ拡大は続き、1977年に同社がグレンリベット蒸留所社を買収します。このグループは、1970年にザ・グレンリベット(The Glenlivet)、グレン・グラント(Glen Grant)、ロングモーン(Longmorn)、カパードニック(Caperdonich)、ベンリアック (BenRiach) 5蒸留所とエディンバラのブレンダー、ヒル・トンプソン社との合併によって形成されたグループです。
 また、1972年8月、キリンビール社(日本)、ジョセフ・E・シーグラム社(米)、シーバス・ブラザーズ社(英)3社合弁により、キリンシーグラム株式会社が設立されます。1973年8月に富士御殿場蒸溜所が完成し、製造を開始します。そして先に書きましたが1974年2月に初のオリジナルウイスキーの「ロバート・ブラウン」を発売、「ダンバー」や「エンブレム」、「クレセント」、「NEWS」、「ボストンクラブ」、「テンディスティラリーズ」、「オーキッド」、「Hips」と発売していきます。「クレセント」の名前の意味を調べたら、満ち行く三日月だったのでなぜだか感動したのを覚えてます。ワールド・ブレンデッドウイスキーの先駆けの「テンディスティラリーズ」とか、「オーキッド」にしてもシェリー樽由来の香のうえにさらにシェリー酒添加という離れ業で、今ではウイスキーを作るにあたって行ってもよい飛び道具ということも分かりますが、当時の酒類卸問屋の営業マンには何のことやら聞いてもさっぱりわかりませんでした。かなり攻めていましたね。また1943年にシーグラム社が買収しましたフォアローゼズも日本で1971年から発売が開始されましたが、バーボンというものが何なのかあまり勉強する機会もなく、ブームだけが過熱して通り過ぎて行ったという感じです。そんなフォアローゼズもI.W.ハーパーと同じく1950年代に当時急成長していた市場であったヨーロッパとアジアにターゲットを移し、北米からは姿を消していきます。その代わりにシーグラム社は1960年代と1970年代には、ベンチマークやイーグル・レアなどの他のプレミアム・ストレート・バーボン・ブランドを導入していきました。
 1981年、資金力があり多角化を望んだ米国子会社のシーグラム・カンパニー・リミテッド社(Seagram Company Ltd、1975年に社名変更)は、米国の大手石油・ガス生産会社であるコノコ社(Conoco Inc.,)の買収を画策しました。シーグラム社は結果的にはコノコ社の株式32.2%を取得したのですが、買収合戦にホワイトナイトとして加わった石油会社のデュポン社に買収合戦は敗れてしまいます。その事後処理としてコノコ社の株式と引き換えにデュポン社の株式24.3%を所有することになりました。このデュポン社の株式はのちにシーグラム社の収益の70%を占めることとなります。
 さらに1984年には、カリフォルニア州カリストガのスターリング・ヴィンヤーズ(Sterling Vineyards)を買収しました。1986年、シーグラム社はゴールデン・ワイン・クーラー製品の宣伝を目的としたテレビ・コマーシャル・キャンペーンをブルース・ウィリスを使い開始しました。しかし、3大放送局はいずれも、ウイスキー、ワイン、ビールのアルコール度数を比較するコマーシャルの放送は拒否しました。1988年に、米国第2位のオレンジ・ジュース製造会社であるフルーツジュースおよびフルーツ飲料メーカーのトロピカーナ・プロダクツ社(Tropicana Products, Inc.)をベアトリス社から12億ドルで買収します。また1987年、フランスのコニャックメーカー、マーテル・アンド・シー社(Martell & Cie)を12億ドルで買収します。また、同年にハイラム・ウォーカー&サンズ社(Hiram Walker & Sons)からメーカーズマーク(Maker's Mark)を買収しました。1991年、7つのブランドをアメリカン・ブランズ社の子会社ジムビーム社に3億7,250万ドルで売却しました。売却されたブランドにはロード・カルバート・カナディアン・ウイスキー、ウルフシュミット・ウォッカ、ロンリコ・ラムなどがありましたが、2年後にはアブソルート・ウォッカの全世界販売権を約12億5,000万ドルで買収します。また、1995年初頭にドール・フード・カンパニー社(Dole Food Co.)の飲料事業を2億 8,500万ドルで買収し、トロピカーナ・プロダクツ社部門を拡大しました。シーグラム社はわずか2年で蒸留酒製造業者の5位から1位に躍り出ました。
 マーテル社はシーグラム社倒産後、ペルノリカール社所有となり、メーカーズマークはシーグラム社の倒産後、アライド・ドメック社(Allied-Domecq)が買収、2005年にアライド・ドメック社がペルノ・リカール社に買収されるとすぐ、メーカーズ・マークのブランドはイリノイ州ディアフィールドに本拠を置くフォーチュン・ブランズ社(Fortune Brands)に売却されます。さらにフォーチュン・ブランズ社は2011年に分割され、アルコール飲料事業はビーム社(Beam Inc)に渡り、2014年、ビーム社はサントリー社が買収しビームサントリー社所有となりました。(その後社名変更。)また、メーカーズマークは、ジョージ・ディッケル(George Dicke)やオールド・フォレスター(Old Forester)とともに、アメリカで主流の「ウイスキー(whiskey)」ではなくスコットランド語の綴り「ウイスキー(whisky)」を使用する数少ないアメリカ産ウイスキーの1つです。この事といい、メーカーズマークのオーナーだったT・ウィリアム・サミュエルズ・シニアさんがスティッツェル・ウェラー社(Stitzel-Weller)のオーナー、パピー・ヴァン・ウィンクルさん(Pappy Van Winkle)から多大な支援を受けていたこともあり、ディアジオ社とはひとかたならぬ繋がりもあるのですが、私的には味の好みは少し違います。
 少し話はそれましたが、シーグラム社の話に戻しますと、1994年、事業を引き継いだエドガー・ブロンフマンの息子のエドガー・ブロンフマン・ジュニアは映画と電子メディア事業への参入を熱望していたそうです。シーグラム社が映画およびテレビ業界の資産を活用した多角的なビジネスになるという壮大なビジョンがあったわけです。いわゆるエンターテインメントの世界での成功を目指したわけですね。そのための資金として先に書きましたデュポン社の株式を売却し(シーグラム社の収益の70%を占めている株を売却したのですよ、余程エンターテインメントの魅力に取りつかれていたのでしょうね。)、その売却益を使って、ユニバーサル・ピクチャーズ社とそのテーマパークを含む経営権を所有していたMCA社の経営権を購入する手続きを開始しました。そして1995年、松下電器産業社(現パナソニック)からMCA社を買収。1996年、娯楽部門をユニバーサル・スタジオに改名。続けて1998年、ポリグラム社とドイツ・グラモフォン社を買収し、ユニバーサル・ミュージック・グループ(Universal Music Group)とユニバーサル・ピクチャーズ社(Universal Pictures)の資産を分散させる目的でユニバーサル・ミュージック社とポリグラム社を合併させます。しかし2000年までに、エドガー・ジュニアのエンターテイメント業界への参入の試みが報われなかったことが明らかになり(残念!)、シーグラム社はフランスのエンターテイメント会社ヴィヴェンディ社(Vivendi)に売却され、ヴィヴェンディ社がフランスのメディア大手グループ、カナル・プラスを買収した後、2000年12月11日に新会社ヴィヴェンディ・ユニバーサル社の一部となりました。また、飲料部門はディアジオ社とペルノリカール社に売却され、分割されました。キリンシーグラム社という社名も2002年7月1日付で合弁を解消した時点で消滅し、フォアローゼズはブランドの所有権を持っていたヴィヴェンディ・ユニバーサル社からその後2001年にペルノリカール社とディアジオ社に移っていた全世界での事業権を、10月に締結していた事業権取得契約が有効となったため2002年にキリンビール社が買収しました。このようにして一大コングロマリットとして繁栄を築きましたシーグラム社も倒産の憂き目にあい、名前も若干の商品に残すのみとなりました。
 ちなみに2001年、ディアジオ社とペルノリカール社でシーグラム社のワイン&スピリッツ事業を分割するわけですが、ディアジオ社が所有したブランド、蒸留所その他の施設としまして、ラム酒:キャプテン・モルガン、マイヤーズラム、(ディアジオ社はマリブ・ラムの売却が条件に付きました。)、アメリカン・ウイスキー:ブレット・バーボン、シーグラム・セブン・クラウン、シーグラム83、カナダ産ウイスキー:クラウン・ローヤル、シーグラムVO、リキュール:ゴディバ・チョコレート・リキュール、その他。ペルノリカール社はブランデー&コニャック:マーテル、ジン:シーグラム・ジン、リキュール&ビターズ:カルーア、スーズ、ウォッカ:シーグラム・ウォッカ、テキーラ:オルメカ・テキーラ、スコッチウイスキー:シングルモルト・スコッチウイスキー蒸留所:アルタベーン、ベンリアック、ブレイヴァル、カパードニック、グレンキース、ザ グレンリベット、ロングモーン、ストラスアイラ、ブレンデッド・スコッチウイスキー:シーバス・リーガル、パスポート、ロイヤル・サルート、100パイパーズ、その他。1つのグレーン蒸留所、2つのジン蒸留所を所有するシーバス・ブラザーズ社も含まれます。
 私の聞いていた話ですけども、ディアジオ社としては北米で売れてるスコッチウイスキーやジン、ウォッカのブランドを多数持っていたため、独禁法あたりを気にして、その辺を補強したいと考えていたペルノリカール社を誘いアイテムを譲って分割した、とのことでした。また、キリンビール社が販売をしていたアイテムを所有したわけですからキリンビール社との直接の販売契約を結んだわけですが、サード・パーティーという部所が担当しておりました。いつぞやディアジオ・グローバルのポール・ウォルシュ社長が表敬訪問されたとき、キリンビール社にもあいさつに行かれてました。サード・パーティー担当者はキャプテン・モルガンのパロット・ベイをローンチしたいと言っていましたが、根幹商品のキャプテン・モルガンがもっと売れないと無理かな、とぼやいてました。また、ベル12年や中国の白酒を売りたいが世間では売れているかとの問いに、元洋酒の並行品会社にもいた私は、売れてませんと返事しました。ですが、中国の白酒は中国企業との提携もあり中国では相当数売れているので、MHDが「水井坊」のブランドの販売を開始しました。
 ディアジオ ジャパン社は直接酒問屋さんにこの頃は商品を販売しておりませんでしたので、販売していただける会社と契約してディストリビューターとして販売を代行していただいていたのです。例えばギネスビールはサッポロビール社(その後キリンビール社に移管)、キャプテン・モルガン、マイヤーズラム、シーグラムVO、セブンクラウン、クラウンローヤル、ゴディバはキリンビール(その後マイヤーズとVOは売却、クラウンローヤル、ゴディバは終売、その他は2021年DJKKへ移管)、ピコンはアサヒビール(2002年マキシアム・ジャパンと販売提携のため。その後日本酒類販売、その後売却)、ベル・スコッチウイスキー、ディンプル・スコッチウイスキー、ブラック&ホワイト・スコッチウイスキー、カーデュ・シングルモルト・スコッチウイスキーは日本酒類販売(2007年、シングルトン、ロイヤルロッホナガー、ブレットバーボン、シロックウォッカ、ドンフリオテキーラ、ピムス、ピコン、ピアドール・ムスーも加わるが、このうち5アイテムは2009年キリンビール社に移管、ブレットはMHDへ。2021年、カッコ内のピコン以外はDJKKに移管、ピコンは売却、ピアドール・ムスーは行方知れず)、ブッシュミルズ・アイリッシュウイスキーは明治屋(2010年だったかキリンビール社に移管、その後売却)、ギルビー・ジン、ウォッカはリードオフ・ジャパン(その後キリンビール社に移管)、その他多くのディアジオ・アイテムはMHD(2009年シングルモルト、ジョニーウォーカー・ブルーから上のアイテム、オールド・パー、ロイヤルハウスホールド以外のディアジオ・アイテムはキリンビール社に移管、さらに2021年、上記オールド・パー、ロイヤルハウスホールド、タリスカー以外はDJKK社に移管)、ピアドールは2001年の販売契約でメルシャン(その後どうなったかは調べても出てきませんでした)、という流れで代行していただいてました。
 また、シーグラム社の買収したポリグラム社やユニバーサル・ミュージック社ですが、世界初のCDソフトを生産、販売したり、米国のA&Mレコードやモータウン・レコードを買収したり、英国のEMIのレコード部門を買収したりしてます。所属アーティストとしてザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ、ザ・ビー・ジーズ、ザ・イーグルス、エルトン・ジョン、ロッド・スチュワート、ピンク・フロイド、クイーン、スティーヴィー・ワンダー、マドンナ、ジャスティン・ビーバー、ビリー・アイリッシュ、松田 聖子、松任谷 由実からイエロー・マジック・オーケストラまで多彩なミュージシャンが所属してました。(DCLはまだ続きます。)

 さて第3回目の回想録でしたが、いかがでしたでしょうか。シーグラム社についてかなりのスペースを費やしてしまいましたが、ディアジオ社(DCL社)との絡みが結構ありましたので、一気に書き上げてしまいました。山本夏彦先生のおっしゃる「かいつまんで言え」の通りになかなか書けませんが、なるべく一読していただいて電光石火のごとく理解していただければと思い書いているつもりです。つもりではダメですね。しかしディスティラーズ・カンパニー・リミテッド社につきましては次回にも続きがあります。次回こそ知らなかった大きな事件の2つ目を明らかにしたいと思います。またディアジオにつきましての回顧録は今後も続けていく所存でございますので、ご指摘等ございましたらどんどんお寄せいただきたいと思います。何卒今後とも宜しくお願い申し上げます。

いいなと思ったら応援しよう!