Diageology 元ディアジオ ジャパン株式会社社員の回顧録⑥
回顧録⑥
ディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)⑤
皆様こんにちは、元ディアジオ・ジャパン社社員による回顧録の第6回目です。
これからディアジオ社への道を明らかにするために続けていこうかと思ったのですが、その前に、まずはDCL創立にかかわった会社や、DCLが経営存続中に買収したり売却したりする蒸留酒の販売会社や蒸留所、ブランドをまとめておきましょう。順不同で行きたいと思います。
① 1877年に創立にかかわった会社
1、マクファーレン&カンパニー社(Macfarlane & Co)
1811年にダニエル・マクファーレン(Daniel McFarlane)によって設立されましたポートダンダス蒸留所(Port Dundas distillery)が、2年後ブラウン、ゴーリー&カンパニー社(Brown, Gourlie & Co.)によって設立されたダンダシル蒸留所(Dundashill distillery)と1860年代に合併し、後にDCLの一部となりました。しかし2010年、その所有者であるディアジオ社は、グレーン生産を大幅に拡張しましたキャメロンブリッジ蒸留所に集中させることを決定し、2011年に生産が中止され、工場は取り壊されました。原酒はいまだ保存され、ジョニーウォーカー・ブルー・ラベルやBlenders' Batchシリーズの限定品にブレンドされました。また、隣接するダンダシル・クーパレッジ(Dundashill Cooperage:樽製造工場)は、1770年に遡るホッグスヘッド樽を製造しており、現在でもディアジオ社が所有しています。
2、ジョン・ボールド&カンパニー社(John Bald & Co)
カースブリッジ蒸留所(Carsebridge distillery)は1877年にDCLの一部となるまで家族経営で運営されてました。エディンバラのカレドニアン蒸留所(Caledonian distillery)に次ぐスコットランド最大のグレーン蒸留所でした。最終的に1983年にウイスキー在庫の供給過剰により蒸留所が閉鎖され、建物は1990年代に取り壊されました。しかし、カースブリッジの樽製造所は、2011年までディアジオ社によって使用され続けます。
3、マクナブ・ブラザーズ&カンパニー社(MacNab Bros & Co)
1846年に元々ドールズという名の蒸留所(Dolls Distillery)はマクナブ・ブラザー&カンパニー社に買収され、グレンオキル蒸留所(Glenochil distillery)と改名されました。1877年にDCLの一部となり、運営は1929 年に生産が中止されるまで、DCLを通じて継続されました。その後はウイスキーの発酵の副産物であった酵母が徐々に主力製品となり、事業は現在、ディアジオ社とKerry Groupという別々の会社によって運営されています。1992年ユナイテッド・ディスティラーズ社(UD)の国際リサーチセンターとして知られる研究機関となりました。
4、ロバート・モーブレイ社(Robert Mowbray)
1806年、ジョン・モーブレイにより設立されたカンバス蒸留所(Cambus distillery)ですが、1851年にコフィー蒸留器を設置し、拡張してきたことによりカンバスはスコットランド最大のグレーン蒸留所の1つとして確固たる地位を築きました。世紀末の「ウイスキーとは何か?」裁判中、モルト蒸留所がグレーンスピリッツを表すのに「ウイスキー」という用語の使用に反対して蜂起を始めたとき、いくつかのグレーン蒸留所を運営していましたDCLは、カンバスを利用して世論の同調を得ました。1906年、同社は宣伝戦略として「純粋なパテントスティル・グレーンウイスキーがどのようなものかを一般の人々に自分の目で判断する機会を与える」ために、カンバス・ピュア・グレーンウイスキーの一面広告をデイリーメール紙に掲載しました。これで国民と判決を下す裁判所を揺るがし、モルト蒸留所側は敗訴し、1908年の王立委員会でグレーンがウイスキーという呼称を使える判決が発表されました。
1952年にジン精留プラントが増設され、翌年には CO2処理プラントが設置されましたが、最終的に1993年に閉鎖され、そのプラントは撤去され、その場所はカスク充填作業と倉庫に変わりました。2011年、現地に新しい樽製造所を建設し、近くのカースブリッジとグラスゴーのダンダシルから樽製造業務が移管されました。
5、スチュワート&カンパニー社(Stewart & Co)
キルクリストン蒸留所(Kirkliston distillery)は1877年にDCLの一部となり、1920年閉鎖され、建物はそのまま残っているそうです。
6、ジョン・ヘイグ&カンパニー社(John Haig & Co)
1824年にキャメロンブリッジ蒸留所(Cameronbridge distillery)とジョン・ヘイグ社を設立し、スコッチウイスキーの伝説に一族の名を定着させたのは孫であるジョン・ヘイグでした。これまではジョン・ヘイグは、モルトウイスキーを製造しておりましたが、数年後に従兄弟のロバート・スタイン(Robert Stein)が発明したグレーンウイスキー製造用蒸留機(連続式蒸溜機)を設置し、イーニアス・コフィー(Aeneas Coffey)が独自に改良した特許蒸留機を作成するやいなや、そのうちの1つも設置しました。最終的に1929年にポットスチルの撤去によってキャメロンブリッジはグレーン製造の蒸留所となります。その伝統が2014年のヘイグ・クラブ・シングル・グレーンウイスキー(Haig club single grain scotch whisky)発売のインスピレーションとなったそうです。
ヘイグ社は1877年にDCLを設立した最初の蒸留所グループの1つでもありましたが、国内外で事業が大きく成長したため、ジョン・ヘイグの2人の息子が1888年に米国での販売を監督するヘイグ&ヘイグ輸出事業社を設立しました。が、最終的にヘイグ社は1919年3月にヘイグ社の株式をDCLに売却し、経営権を譲渡したのです。
ちなみにジョンの伯母に当たるマーガレット・ヘイグは、ジョン・ジェムソンと結婚し、ダブリンに移り、そこで彼女の夫がその名を冠した蒸留会社を設立しました。ジョン・ジェムソンは最終的にボウ・ストリート蒸留所(Bow Street distillery)を掌握し、ジェムソン・ウイスキー王朝を築きました。
ジョン・ヘイグ社は、グレーン・ウイスキーおよびブレンデッド・ウイスキー市場での成功で最もよく知られていますが、1939年までにヘイグ・ブレンドは英国で最も売れているウイスキーとなっていました。しばらくの間、グレンキンチー(Glenkinchie distillery)、グレンロッシー(Glenlossie distillery)とマノックモア(Mannochmore distillery)を含むDCLの少数のモルト蒸留所のライセンスを保持していました。1958年、ヘイグ・ディンプル・ボトルは、そのユニークなデザインにより米国特許庁によって商標登録された最初の容器となりました。1930年から1970年にかけて、ヘイグ・ゴールドラベルは、英国のブランドリーダーであり、国内市場で100万ケースを販売した最初のブランドでした。Dimple、Golden Age、ブレンデッド・モルトのGlenlevenというブランドもありましたが、1980年代までにヘイグのウイスキーは急激に衰退していってしまいました。
しかし、2014年、すべてを始めた蒸留家一族への敬意を表し、有名人でサッカー選手であったデイビッド・ベッカム(David Robert Joseph Beckham)も支持するHaig Club というシングル・グレーンウイスキーを発売しました。新しい世代の若い愛飲家をスコッチ・シングル・グレーンウイスキーの素晴らしい世界に引き込むことを目的としていますこの商品は、3つの異なる樽タイプ(ファーストフィル・アメリカンオーク樽、リフィル樽、古くなった樽材を薄く削り取って再生された樽)で熟成されたシングル・グレーンウイスキーです。柑橘系の爽やかで心地よいフルーティーな香りがする、おいしいウイスキーですよ。
7、メンジーズ&カンパニー社(Menzies & Co Ltd)
1855年にエディンバラのサンベリー蒸留所(Sunbury Distillery)を所有のグラハム・メンジーズ&カンパニー社(Graham Menzies & Co)によって建設されたカレドニアン蒸留所(Caledonian distillery)は、当時最大の蒸留所でした。1867年、カレドニアンは、より安定した製品を求めるブレンダーの間で需要が高かった「アイリッシュ・スタイル」のグレーンウイスキーを蒸留する目的でポットスチルを設置する蒸留所が増えつつあるうちの1つとなりました。会社設立から7年後の1884年、メンジーズ社の息子ウィリアムは、DCLの7人目のメンバーとなりました。これでDCLの年間生産量は合わせて880万ガロンとなりました。 ウィリアムは1897年にDCLの2代目会長に就任し、ゼネラルマネージャーでありその後会長になるW.H.ロス(William H Ross)とともにビジネスを築き上げました。悲しいことに、1988年にユナイテッド・ディスティラーズ社(UD、United Distillers:ギネス社がDCLを買収した後に設立した持ち株会社)による事業の大規模統合の犠牲となり、最終的には閉鎖されました。
②1877年以降買収した、もしくは設立した会社、蒸留所
1、エインズリー&ハイルブロン・ディスティラーズ社(Ainslie & Heilbron Distillers)
この会社の起源は、ジェームス・エインズリー&カンパニー社(James Ainslie & Co.)といい、同社はウイスキーブームの絶頂期1896年にクライヌリッシュ蒸留所(Clynelishdistillery)を購入しました。しかし、1898年のパティソン事故の後苦境に陥り、1912年にクライヌリッシュ蒸留所をジェームス・リスク(James Risk)とDCLに売却することで破産を免れました。その後アレキサンダー&マクドナルド社(Alexander & Macdonald)の会長サー・ジェームス・カルダー(Sir James Calder)が会社を引き継ぎ、デビッド・ハイルブロン社(David Heilbron Ltd.,)と、蒸留会社コルヴィル・グリーンリーズ&カンパニー社(Colville Greenlees & Co,)と合併させ、エインズリー&ハイルブロン社を設立しました。さらにカルダーは1925年までに、同社をマクドナルド・グリーンリーズ&ウィリアムズ社(MacDonald, Greenlees & Williams Ltd.)の完全子会社とし、同年彼はマクドナルド・グリーンリーズ&ウィリアムズ社を自身の蒸留所ダルウィニー(Dalwhinnie distillery)とともにDCLに売却しました。
Ainslie'sやKing's Legend、Real McTavishといったブレンデッドウイスキー・ブランドを所有。このAinslie’sブランドはその後ベルギーで多くのファンを獲得し、1998年、ベルギーの蒸留会社P.ブルージュマン社(P. Bruggeman)は、新しく設立されたディアジオ社からブランドを買い取り、米国とヨーロッパで販売していましたが、2009年に同社はフランスの飲料グループ、ラ・マルティニケーズ社(La Martiniquaise)に買収されました。
2、ブロック・レード&カンパニー社(Bulloch Lade & Company)
1863年、同社はアイラ島のカリラ蒸留所(Caol Ila distillery)を買収しました。 この買収に続いて、1867年に別のアイラ島蒸留所であるロシット(Lossit distillery)が、翌年にはキャンベルタウンの蒸留所であるベンモア(Benmore distillery:その後 Benmore Distilleries Company Ltd の一部となり1927年に閉鎖)が建設されました。さらに1896年、同社はウィリアム・グラント社(William Grant)と共にタムドゥ蒸留所(Tamdhu distillery)を設立した蒸留所連合に加わりました。しかし第一次世界大戦後長く存続できなかった多くのスコッチウイスキー会社のうちの1つとなってしまい、1927年までに、DCLにBulloch Lade & Co.社の旧資産をすべて売却し、DCLは最終的にカリラ蒸留所を Robertson & Baxter社から買収しました。エリザベス2世によってロイヤルワラントを付与されたBL Gold Label、Bulloch LadeやFifty First、Glen Ila(ブレンデッド・モルト)のブランドを所有。また、2011年に現在の所有者であるディアジオ社は、多くのファンを持つタイとフィリピンのウイスキー愛飲者のために特別なベンモア・フォー・カスク・ブレンド(Benmore Four Casks blend:バーボン、シェリー、チャー・カスク、リフィル・カスクを組み合わせて熟成)を作成しました。
3、ジェームス・ブキャナン&カンパニー社(James Buchanan & Company)
Buchanan’sとBlack & Whiteのブランドを所有し、19世紀の偉大な「ウイスキー男爵」の1人が運営する野心的な蒸留所とウイスキー・ブレンドの会社です。1884年に設立されたジェームス・ブキャナン & Co.社は独自のブキャナン・ブレンドの製造に着手し、1895年、ヴィクトリア女王、ウェールズ皇太子、ヨーク公から王室御用達を獲得し、その後1898年に、彼はW.P.ローリー& Co.社(W.P.Lowrie & Co.,)と提携してグレントファース蒸留所(Glentauchers distillery)を建設し、ロンドンのホルボーンにあるブラック・スワン蒸留所(Black Swan Distillery)も買収しました。その後、長年にわたって本社としました。同年のパティソンの暴落の時はこの状況を利用して、すぐにバンキアー・ローランド・モルト蒸留所(Bankier Lowland malt distillery)を買収しました。同様にW.P.ローリー社のビジネスにはコンバルモア蒸留所(Convalmore distillery)も含まれていました。
結局、DCLの台頭による競争の脅威により、同社は別の大企業との合併の可能性を模索せざるを得なくなり、1915年にジョン・デュワー&サンズ社と提携し、ブキャナンーデュワー社(Buchanan-Dewar Ltd)を設立しました。ほぼすぐに同社は1919年にはポート・エレン(Port Ellen distillery)、キャンベルタウンのロッホルアン蒸留会社(Lochruan distilleries)と同蒸留所(1925年閉鎖)を買収し、1922年には自主的に清算したロバートソン・アンド・バクスター社(Robertson & Baxter)からベンリネス蒸留所(Benrinnes distillery)を買収しました。しかしジェームズ・ブキャナンが貴族院に昇格してウーラビントン卿(Lord Woolavington)となった1年後の1925年、ブキャナンーデュワー社とジョン・ウォーカー・アンド・サンズ社がついにこの複合企業に買収されました。
ブキャナンズ社として上記のブランドのほか、英国王室御用達でありその他では日本でしか販売許可が下りていないRoyal Householdや、そのほかにはDe Luxe 12-year、Special Reserve 18-year、Master、Red Seal、12年熟成のブレンデッドモルトStrathcononを所有。ロイヤルハウスホールドはとても希少で高級なブランドで、それを味わえる場所は当時では世界で下記の3箇所しかありませんでした。バッキンガム宮殿、ローデル・ホテルのバー(現在閉鎖中)、日本です。昭和天皇が皇太子時代にイギリスを訪れ、英国王からこのボトルをプレゼントされたからです。これがきっかけとなり、英国王室から特別許可が出て日本での販売が行われるようになりました。
なお、小説家の大佛次郎が当時横浜でよく飲んでいた洋酒が、ブラック・アンド・ホワイトとピコン(Picon:ビターの一種でディアジオ社が所有していましたが、2022年カンパリ社(Campari Group: Davide Campari-Milano N.V.)に売却)だったという文献を研究している勉強会に参加したことがあります。そういえば中華街のバー、Cable Carさんを訪問した際、ご年配のご夫婦のご主人がブラック・アンド・ホワイトのハイボールをお飲みになっていたことを思い出しました。
4、ジョン・デュワー・アンド・サンズ社(John Dewar & Sons)
ジョン・デュワー&サンズ社は、スコットランドのパースでジョン・デュワーとその2人の息子によって正式に設立されました。当初、同社はウイスキーのブレンダーとして運営されていました。ブレンデッド・スコッチウイスキーの大ブームの時期となり、デュワー兄弟はブレンディング用のモルトを確保するために1898年にアバフェルディ蒸留所(Aberfeldy distillery)を建設しました。
1890年、同社はブレンデッド・ウイスキーのデュワーズ・ホワイトラベルで大きな評価を獲得し、主力製品となりました。息子のトミー・デュワーは1892 年に海外で代理店を設立し、セールスマンを雇い、結果として会社の価値を大幅に高めました。しかし20世紀初頭のスコッチウイスキー業界の財政難に伴い、デュワーズは1915年にライバルのジェームス・ブキャナン&カンパニー社と合併してブキャナンーデュワー社を設立しました。1896年にアレクサンダー・エドワード社(Alexander Edward)によって造られたオルトモア蒸留所(Aultmore distillery)を、1923年にジョン・ベッグによって造られたロイヤル・ロッホナガー蒸留所(Royal Lochnagar Distillery)を買収、さらにジェームズ・ワトソン・カンパニー社(James Watson & Co)からグレンオード蒸留所(Glen Ord distillery)、パークモア蒸留所(Parkmore distillery)、プルトニー蒸留所(Pulteney distillery)を1923年にジョン・デュワー&サンズ社は買収しましたが、結果的には業界内のさらなる統合により、ブキャナンーデュワー社は1925年に強力なDCLに買収されました。
その後1997年、インターナショナル・ディスティラーズ&ヴィントナーズ社(IDV: International Distillers & Vintners)を所有していたグランド・メトロポリタン社(Grand Metropolitan)とギネス社が合併を発表した際、英国独占委員会(the Monopolies Board)は、その資産の一部(具体的にはジョン・デュワー・アンド・サンズ社と、その他の蒸留所と一緒にアバフェルディ蒸留所とオルトモア蒸留所、ボンベイ・ジン社(Bombay gin: IDVが所有)も売却の対象となった)を売却するよう命じ、19億4,000万ドル(11億5,000万ポンド)でバカルディ社に売却されました。
5、ジョン・ウォーカー・アンド・サンズ社(John Walker & Sons)
1820年、ジョンがまだ14歳だったとき父親が亡くなり、家計をやりくりするためにキルマーノックの食料品店を購入しました。最終的にジョンは会社をワインと蒸留酒の商店に変えましたが、彼が独自のウィスキーをブレンドし始めたのはさらに30年かかりませんでした。当時、ほとんどの食料品店ではシングルモルトが売られていましたが、今日と違いその品質はバラバラでしたので、ジョンの息子、アレクサンダーが父親に小売販売をやめて自家製造と卸売業に専念し独自のウイスキーの製造に移るよう勧め、つねに同じ品質と味わいでブレンドすることを思いつき、1860年代までに同社は年間約10万ガロンの独自ブレンドでブレンド・モルトとグレーンウイスキーを販売するようになりました。アレクサンダー時代には会社が急成長する中でウイスキー製造事業は利益の90%以上を稼ぎ出す様になりました。同社は1880年にロンドンに事務所を開設することになりました。
1860年、アレクサンダー・ウォーカーは正方形のボトルを採用しました。これは、より多くのボトルが同じスペースに収まる可能性があり、ボトルが壊れにくいことを意味しました。またロゴ入りのラベルは、左から右に上向きに24度の角度とし、テキストをより大きく、より見やすくしました。また、自社の蒸留所に投資し、カーデュ蒸留所(Cardhu distillery)を20,000ポンドで購入したのは1893年のことでした。そして1889年に事業は彼の2人の息子、アレクサンダー2世(マスターブレンダー)とジョージ(マスタービジネスマン)の手に移りました。すぐに世界中に代理店が設立され、ブランドは1908年にジョニーウォーカー(Johnnie Walker)に改名され、白ラベル(6年物、第一次世界大戦後に販売終了)、赤ラベル(10年物:当時)、黒ラベル(12年物)の三色が世に送り出されました。
20世紀初頭は好況期で、著名なアーティストのトム・ブラウン(Tom Browne)がブランド創設者のスケッチを依頼され、有名なジョニーウォーカー・ストライディングマンが誕生しました。また、ウォーカーは自社ブランドの規模と種類を拡大するチャンスを感じ、1915年にコールバーン蒸留所(Coleburn distillery)の株式を取得し、その後すぐに1916年にクライヌリッシュ蒸留会社(Clynelish Distillery Co.)を、同じ年にDCL、ブキャナンーデュワーズ社とシンジケートを組みダルユーイン・タリスカー社(Dailuaine-Talisker Co.)の株式を取得しました。これにより、カーデュ、コールバーン、クライヌリッシュ、タリスカー、ダルユーイン蒸留所からのシングルモルト・ウイスキーの安定供給が確保されました。1923年、ウォーカーは戦略を推進するためモートラック蒸留所(Mortlach distillery)も買収し、ウォーカーの戦略は形作られました。
1920年までに、ジョニーウォーカー・ウイスキーは120カ国に輸出されていました。が、結果的には業界内のさらなる統合により、1925年に強力なDCLに買収されました。合併した結果、生産面でのコスト削減は実現しましたが、市場では各社が依然としてかなり激しく競争していましたので、この新しいウイスキーの巨人に吸収されないように半独立を維持し、ジョンの孫であるアレクサンダー・ウォーカー2世が、この会社を経営した最後の家族となりました。1932年、アレクサンダー2世はジョニーウォーカー・スイング(Johnnie Walker Swing)をラインナップに追加しました。この名前は、ボトルが前後に揺れる珍しい形状に由来しています。
過剰生産や需要の減少のため1980年代初頭に急激にウイスキーは減少方向に向かうのですが、しかし、ジョニーウォーカーは復活しました。80年代後半から90年代にかけて、特に新興市場での高級ウイスキーのチャンスは、ジョニーウォーカー・ブルーラベル、ゴールドラベル、グリーンラベルの発売によって活かされました。一方、ストライディングマン自身も活気づきました。「Keeping Walking」キャンペーンで完全に復活し、実際にブランドは短期間で約1,000万ケースから2,000万ケースへと驚異的に成長しました。さらに2020年、世界のプレミアム・カテゴリーのウイスキー売り上げランキングでNo.1を継続することができ(Impact Databank2019に基づく販売数量)、 200周年を祝うことができました。(ジョニーウォーカーにつきましては改めてページを割きたいと思います。)
6、マッキー・アンド・カンパニー社(Mackie & Co)
後にホワイトホース・ディスティラーズ・リミテッド社(White Horse Distillers)となるマッキー・アンド・カンパニー社は、かつては「ビッグ5」スコッチウイスキー生産者の1つでありました。その成功はホワイトホース・ブレンドのおかげで高まりました。同社の起源は1801年まで遡ることができますが、James Logan Mackie & Co社という名前が記録に登場するのは1883年になってからです。パートナーのJ.L.マッキーとJ.C.グラハム船長はアイラ島でラガヴーリン蒸留所(Lagavulin distillery)を運営しました。創設者の一人であるピーター・マッキー卿の甥は、一貫性と品質の戦略に基づいて会社を発展させ、供給の安定性と卓越性を確保するために1890年に、ベンリネス蒸留所を所有していたアレクサンダー・エドワード社とクライゲラヒ蒸留所(Craigellachie distillery)共同所有しました。
1891年、ピーター・マッキーは同社で最も人気のあるウイスキー・ブレンドにホワイトホースという名前を登録しました。エディンバラからロンドン行きの急行バスの出発点であった、有名なホワイトホース・コーチングイン(旅館)に由来しています。1919年、同社はヘーゼルバーン蒸留所(Hazelburn distillery:ニッカの竹鶴さんの修行の地)を所有していたグリーンリーズ&コルヴィル社(Greenlees & Colville Ltd.)を購入しました。
また同社の大幅な成長を確実にしたイノベーションの1つは、1926年のホワイトホース・スクリューキャップの導入でした。コルク抜きの必要性と不良コルクの影響がなくなったことにより、ホワイトホースの需要は6か月で2倍になりました。しかし同社も御多分に洩れず1927年6月、DCLに買収され、ブランドの存続が保証され、グレン・エルギン蒸留所(Glen Elgin distillery)を含む多くの蒸留所にライセンスを付与しました。ホワイトホースのほかに、日本限定販売のホワイトホース12年(私の好きなスコッチ・ウイスキーの1つです)、20世紀初頭のブレンドであり、ポルトガルに忠実なファンを持つアイテムのローガン(Logan)がありました。(続く)
さて第6回目の回想録でしたが、いかがでしたでしょうか。今回から4回ばかりDCLの事業内容についての記録が続きますが、資料だと思ってお読みいただけますと助かります。これからまだまだディアジオ社につきましての回顧録は今後も続けていく所存でございますので、ご指摘等ございましたらどんどんお寄せいただきたいと思います。何卒今後とも宜しくお願い申し上げます。