Diageology 元ディアジオ ジャパン株式会社社員の回顧録④

回顧録④
ディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)④
 
皆様こんにちは、元ディアジオ・ジャパン社員による回顧録の第4回目です。
 
引き続きディアジオ社の前身であるディスティラーズ・カンパニー・リミテッド社(DCL)の続きを明らかにしていきたいと思います。今回こそ知らなかった大きな事件の2つ目を明らかにするところまでたどり着きたいと思いますので、ひとつ宜しくお願い申し上げます。
 第二次世界大戦では、DCLが第一次世界大戦で直面したのと同じ問題が再び多く発生しました。しかし、このときDCLは規模が大きく多角化していたため、戦争はプラスに働きました。ウイスキー市場が低迷していたにもかかわらず、DCLは化学および生化学子会社からの収益で利益の損失を補って余りありました。工業用アルコールと溶剤、酵母、穀物はすべて戦争遂行に不可欠でした。しかし、好事、魔多しです。子会社のディスティラーズ・カンパニー・バイオケミカル社(Distillers Company Biochemical: DCB)は英国で重要な医薬品製造会社となっていました。しかし、この会社の活動からDCLにとって綻びの始まりが訪れました。1950年代後半、ドイツの製薬会社 グリューネンタール社(Grunenthal)は、これまでで最も安全な睡眠薬であると信じていた新しい鎮静剤:サリドマイドを開発し、テストして政府の承認を得ました。サリドマイドは、他の特性に加えて自殺防止効果もありました。DCBは、英国および連邦でサリドマイドを製造および販売する権利を取得しました。1962年後半にサリドマイドで先天性欠損症の発生が起こりました。すぐにサリドマイドは市場から撤収されましたが、しかし、悲劇が終わる前に、約100人の英国の赤ちゃん(世界中で約10,000人)が、手足の欠損から重度の知的障害まで、さまざまな障害に悩まされることとなってしまったのはご存じのとおりです。DCLは最終的に、サリドマイド被害児童を生涯にわたって支援するための2,500万ポンドの基金を設立することで共同訴訟と和解しました。現在も補償を続けています。1969年、DCLは化学品の保有資産すべてを、9,000 万ポンドのブリティッシュ・ペトロリアムの株式と現金でブリティッシュ・ペトロリアム社(British Petroleum Company plc)に売却してしまいました。DCLの化学品事業は、1900年以来、着実に成長を続ける収益源となっていましたが、この収入の喪失は、同社が倒産するまでの16年間、同社にとって痛手となってしまいました。
 スコッチウイスキー的には1950年代から1970年代初頭まで英国では市場が好調になっていき、同社はスコッチウイスキー市場で大きなシェアを維持していました。その成功は南米、アフリカ、アジアの新市場にまで広がり、日本は特に重要な新市場として浮上しました。DCLは英国のスコッチ市場の約75%と、それよりわずかに多い輸出量を支配していました。しかしDCLは不安定なウイスキー市場が頻繁に低迷する中、常に酒類以外の子会社に頼っていたものですから、残念ながらこのDCLの成長は業界にとって壊滅的な時期の先駆けとなり、1970年代のウイスキーの過剰生産は需要の減少や若い市場がウォッカや白ワインなどの酒類に目を向け始めるのと相まって1980年代初頭にまで影響を及ぼしました。利益は着実に増加していましたが、1980年代初頭に急激に減少しました。また、世界を席巻していた新しい現代的なウイスキー製造スタイルに適さない古い経営スタイルに固執していました。
 1978年、同社は英国が1973年に加盟した欧州経済共同体(EEC)との確執に巻き込まれました。ジョニーウォーカー・レッドラベルの英国向けの価格設定と欧州の顧客向けの価格設定が異なっていて、これはEECの規制に違反しているとなり、欧州委員会がDCLを欧州裁判所に訴え、許される商売方法ではないという判決が下され、業界関係者全員に影響を及ぼすこととなったのです。輸出市場でより高い利益を生み出すため価格を高くし、代理店はその利益をプロモーション活動の資金に充てていたのです。これに対し会長のJ.R.ケーター(J.R.Cater)は、EECのDCL社内問題への干渉だと考え、快く思わなかったのですね。ケーターは怒りが収まらなかったせいか大人げなく、英国での価格を上げる代わりに、国内で125万ケースを販売していたジョニーウォーカー・レッドラベルをすべてイギリス市場から撤去してしまったのです。125万ケースも売れていたアイテムをですよ。腹いせにしてはやりすぎですよね。その間にジョニーウォーカー・レッドラベルは当然市場シェアを失い、それ以来そのシェアを取り戻すことができなくなってしまいました。悪名高い「ウイスキーの泥沼(whisky loch)」は過剰生産のウイスキーを例えたものでしたが、実際には100万ケースが市場から消えたジョニーウォーカーの泥沼だったのでした。ジョニーウォーカーはグローバルでの復活を80年代後半から90年代を待つしかなくなったのでした。その代わりベルズ・ブレンデッドウイスキーが英国では売れ、市場の35%を支配するウイスキーに成長するのですが、この時はまだDCLとは繋がってはおりませんでした。また、シングルモルトの急増にも寄与することと直接つながりました。
 その後、DCLは1984年には国内シェアが16%にまで落ち込んでしまうことになってしまいました。同社の利益も結果的には1983年に1億3,920万ポンドでピークに達し、1984年には利益は1,100万ポンド以上減少してしまいました。DCLはすぐに45のモルト蒸留所のうち11を売却もしくは閉鎖せざるを得なくなりました。その後、DCL 蒸留所の閉鎖の波が続き、業界全体に波及効果が現れ、1980年代には合計20の蒸留所が閉鎖されました。いくつかは休眠状態のまま、もしくは何年も後の復活を待ち続け、他のものは取り壊されて歴史書から完全に消え去ってしまいました。この時のDCLについて金融ジャーナリストのアイヴァン・ファロンは著書で「英国で最も伝統的で保守的な企業の1つであり、最も経営がひどい企業の一つでもある。取締役会の平均年齢は60歳だった」と書いたほどでした。シティ(英国ロンドンの特別行政区域。銀行・保険・証券取引所などが集中し、国際金融・商業の中心地)は同社の経営に信頼を置いておらず、DCLを「業界の偉大なる病んだ巨人」と呼んでいたそうです。 明らかに乗っ取りの対象となる可能性があったそうです。
 DCLは本来の事業から離れあまりにも多くの他分野に手を広げ過ぎており、企業として弱体化していく原因ばかり作っており、当然ながら利益が減少していき、先に書きましたブリティッシュ・ペトロリアム社の株式の一部を現金化するために売却し始めました。この策略では利益の減少を止めるのに十分な現金が得られず、1985年、その流れで当時英国第4位のスーパーマーケット「ファイン・フェア」とグレンスコシア蒸留所(Glen Scotia distillery)を運営していたジェームズ・ガリバーのアーガイル・グループ(James Gulliver’s Argyll Group)がDCLに対して敵対的買収を提案してきました。田舎のチェーン店経営者とみなしていたガリバーが19億ポンドというこれまで英国で行われた入札としては最高額を提示してきたので、慌てたDCLの理事会は自社を立て直すためにビールメーカーのギネス社(Guinness)CEOのアーネスト・サンダース(Ernest Saunders)を「白騎士(ホワイトナイト)」と見込んで対抗買収を提案したのです。同じ年、ギネス社は国内市場大手スコッチウイスキーのオーナーであるアーサー・ベル&サンズ社(Arthur Bell & Sons)の敵対的買収に成功したばかりでした。実際サンダースほど高い評価を得ていた人間はいなかったそうですが、入札にかかる費用は膨大だったのは分かっていたのです。ギネス社についてはまた後述しますが、経営状態の悪かったギネス社の立て直しのため、ネスレ社の元幹部から最高経営責任者に就任したサンダースは、ギネス社の異質な保有株を削減することから始め、160社を売却しました。その後、従業員を削減し、製品の開発とマーケティングのために新しい経営陣を迎え入れました。彼は特殊食品、出版、小売(コンビニエンスストアのセブンイレブンを含む)で狡猾な買収を行いました。彼の在任中に、ギネス社の利益は3倍になり、株価は4倍に上昇しました。また、DCLとしては入札が 独占・合併委員会(MMC)に委ねられるのを避け、MMCの要求を満たすために、ブキャナンとヘイグ、ジョン・バー(John Barr)、ザ・リアル・マッケンジー(The Real Mackenzie)、クレイモア(Claymore、安価なブレンドウイスキーでしたが、当時のDCLのトップクラスのブレンド。当時はクラガンモア(Cragganmore distillery)がキーモルトでした。)を含む多くのブランドの所有権や英国販売権をホワイト&マッカイ社(Whyte & Mackay)に売却することにしました。戦いの最終月までガリバーは依然として優位であると思われていたのですが、その後、サンダースはギネス社の株価を驚異的に上昇させることに成功し、入札額を引き上げることができ、最終的には買収を勝ち取り、1986年4月18日に26億ポンドの無条件オファーで契約を締結するに至ったのです。彼がDCLの目もくらむような買収を成し遂げ、ギネス社がその2倍の規模の企業に26億ポンドを支払う可能性があり、そして実際にそうしたという事実が多くの業界アナリストを驚かせました。
 しかし、数カ月も経たないうちにシティでは別の種類の噂、つまりDCL買収におけるサンダースの手法に関する噂が流れ始めたそうです。DCLの買収を可能にするために、サンダース氏は同僚の取締役2名とともにギネス株の売却を促し、その価値を高めて買収を可能にする国際計画を画策したとされています。 外部投資家は、膨大な数のギネス社株の購入で生じた損失に対してさまざまな方法で補償されました。 スイスのバンク・ルーは、最終的にはギネス社株を買い戻すことを前提にギネス社株式の半分を購入しました。その見返りに、ギネス社は銀行に7,500万ドルを(無利子口座に)預けました。この銀行の会長はたまたまサンダースのネスレの元上司でギネスの理事でもありました。DCLの買収に関する主な情報源として挙げられているのは、数多くの取引でインサイダー取引を行ったことを認めたアメリカの仲裁人アイヴァン・F・ボエスキー(Ivan F. Boesky)である。ボエスキー自身も買収に大きな役割を果たしたと考えられています。ギネス社は、ボエスキーがギネス社株を大量購入してからわずか1か月後に、ボエスキーが運営するリミテッド・パートナーシップに1億ドルの投資を行いました。そのうえにギネス社は「自社株購入のため」、さらに1億ポンドをスイスの銀行から借りていました。現在、ボエスキーは氷山の一角にすぎず、ギネス社株の価値を高めるためにギネス社株を購入したさまざまな国際投資家の一人にすぎないと考えられています。同社の監査人は、ギネス社は合計で3億ドルのギネス株を購入していただくために、少なくとも6カ国の11社に3,800万ドルを支払った請求書を発見したそうです。1986年末から事態は急速に進み、同年12月、英国貿易産業省はギネス社の調査を開始しました。
 1987年1月、ギネス社取締役会はサンダースの辞任を要求し、その後3月にサンダースと同僚取締役の一人でアメリカ人弁護士のジョン・ウォード(John Ward)に対して訴訟を起こしました。5月、英国政府はサンダースを詐欺容疑で告訴しました。その主張は、サンダースが通商産業省の調査中に意図的に証拠を隠滅したというものでした。こうしてサンダースと彼の側近4人が詐欺罪で高額の罰金を支払い、病気を患っていた1人を除いて懲役刑に服することとなりました。こうして英国史上最も注目を集め、この取引は今でも1980年代の最も悪名高い企業買収と金融スキャンダルの1例といわれ、「スコッチウイスキー業界の巨人」はシティと株主と世間の信頼を著しく損なってしまったのです。1987年、ギネス社は所有するDCLとアーサー・ベル&サンズ社(Arthur Bell & Sons)の事業を統合してユナイテッド・ディスティラーズ社(United Distillers)を設立しました。ディスティラーズ・カンパニー・リミテッド社はここで終焉を迎えました。息の根を止められてしまったのですが、自業自得ともいえます。
 これこそ知らなかった大きな事件の2つ目です。ギネスビールは2003年にディアジオ・ジャパン社に入社以来ずっと携わってきましたので、新規開拓からクォリティ・チェックと神奈川県内から町田市までのKeg(ビア樽のこと)の取り扱われている飲食店様は必ず訪問し、液体の温度や泡の高さ、味、ビールホースの洗浄、POPの陳列、プロモーションの進行具合等チェックしていたものです。特にクォリティに関しましては注意深くチェックし、出の悪い飲食店様にはオーナー・従業員の方達より1杯目にいかがですか?と推奨していただいたり、入り口から着席するまでの流れの中に目立つPOPを掲出していただいたり、サージャーギネスへの切り替えやハーフ&ハーフの提供を提案したりという毎日でした。しかしこうした事実はホームページやセミナー資料にも全く書かれていない事でしたので、最初に知ったときは大変驚きました。ましてやギネス社がこれほど多くのウイスキーの蒸留所やブランドを所有していた会社を買収していたなんて。ですがこういう事実があって今のディアジオ社があるわけですし、その所有しているブランドに誇りをもって営業していましたし、その後の道はまだ続いております。その後のディアジオ社への道は、また違うページに譲るとしまして、折角大きな当事者のギネスビール社が出てきましたので、次回ではギネス社について触れていくことといたします。


 さて第4回目の回想録でしたが、いかがでしたでしょうか。DCLの栄枯盛衰、ギネス社のDCL社買収の流れ、また不正な株価操作での買収ということに簡単に触れましたが、これまで思いもしなかった事実が出てきまして、大きな2つの事件を明らかにいたしました。ギネス社のその後と、ディアジオ社と社名を変えていく道程はまた改めてお読みいただける様、ただいままとめている最中です。しかしここで一旦ディスティラーズ・カンパニー・リミテッド社の終焉までようやく辿り着くことができました。これからまだまだディアジオ社につきましての回顧録は今後も続けていく所存でございますので、ご指摘等ございましたらどんどんお寄せいただきたいと思います。何卒今後とも宜しくお願い申し上げます。


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