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【極超短編小説】『想い出を あ… 』

 足、足、足、足、足……。
 右から左、左から右、俺の視界の中を途切れなく人の足が通り過ぎる。俺は膝を抱えて、古い雑居ビルが作る路地から表通りをぼんやりと眺める。
 尻の感覚はもう随分まえ前から鈍くなっているようで、 昨夜の冬の雨で冷たく湿ったアスファルトの地面も気にならない。
 ところどころ塗装がげたビルの外壁に頭を持たれ掛け、視界を斜めにしてみたが何も変わらなかった。地面に座り込んだ俺の視界の中には、せわしなく行き来する足だけがあった。

 この町は大きな生き物。表通りは太い血管。行き交う人々は血管を流れる血液。町が生きるには、人々はそれぞれの役目をとどこおりなく果たし続けなければならない。それなら俺は行き止まりの毛細血管にまり込んだ、小さな血球か。
 そんなふとした思いつきが頭の中をよぎったとき、雑踏の中からヒラヒラと宙を舞って、俺の足元に白い何かが落ちてきた。
 誰かが落としたのかと思って見上げると、高く昇った太陽がちょうど正面から俺の目に入った。まぶしさで目を細めた。逆光の視界の端で男が一瞬立ち止まってこっちを見た気がした。

 
 足元の紙切れは、二つ折りにされた葉書だった。手に取ってみると黄ばんで古びていて、角は少し丸まっていた。二つに折りたたんで、誰かが持っていたのだろう。
 表の宛先と宛名はこそがれて消されていた。裏を見ると縦書きで『想い出を あ  』と丁寧な字で書かれていた。『あ』の下に続く文字は宛名と同じようにこそがれて消されていた。そして左下には差し出し人のものと思われる住所が小さく書かれていた。


 この葉書は誰かが棄てたのか、それとも誰かが落としてしまったのかは分からない。いずれにしろ、俺と同じで行き止まりの路地に行き着いたわけだ。俺は家族に棄てられ、友人に棄てられ、会社にも棄てられて、はぐれてしまった。棄てられた俺が棄てることができるのは俺自身だけだった。俺はこの路地で棄て方を思案していた。
 俺はほんの気まぐれで、葉書を差出人の元へ返すことにした。俺と違ってこの葉書にはまだ帰る場所がある、俺自身を捨てるのはその後でもいいと思った。

 葉書に書かれた住所は、鉄塔がよく見える場所だった。住宅街が途切れる辺りに、こぢんまりとした平屋がポツンと取り残されたように建っていた。生け垣に囲まれたその家は、建てられてから数十年以上経っているように見えたが、生け垣ともどもきちんと手入れがされて感じが良かった。住人の暮らしはゆったりとしたものだろうと想像できて、思わず頬が緩んだ。

 玄関のドアを何回かノックした。しばらくすると、家の中に人の気配がした。ドアの向こう側からこちらを伺っているのが分かった。
 「俺……私、町で葉書を拾いました。葉書にこちらの住所が書かれていたので、届けに来ました……。私、怪しい者ではないですが、怖がらせてしまったようなので、この葉書は木戸の横のポストに入れておきます。それでは失礼します。お騒がせしました」
 俺が玄関を背にして歩き出したとき、背後で声がした。
 「ありがとうございます」
 玄関を開けて出てきたのは、俺と同じ30歳前後の女だった。肩のあたりで切りそろえた真っ直ぐな黒い髪の毛、色白で清楚というより素朴な感じがした。
 女は俺に対して警戒心を解いたのだろう、首を少しかしげて花が咲いたような笑顔を見せ、これといったお礼はできないけれど、お茶だけでも飲んでいってくれと、俺を家の中に招き入れた。


 黒光りしている板張りの廊下を見れば、家の中はどこも掃除が行き届いていると分かった。華美な装飾はなく、家具などは必要最低減のものしかないようだった。それでも寒々とした感じはなく、居心地が良かった。
 俺と女は居間でテーブルを挟んで向かい合った。女は葉書を両手で持ってしばらく眺めていたが、何かに納得したようにひとりで『うん、うん』と頷くとおもむろに話し始めた。
 「この葉書は、ある人が持っていたものです。夫ではありませんでしたが、わたしに……想い出をくれた人です」
 女の話はその葉書の持ち主の夫ではない男との出会いから始まり、この家での二人の暮らし、そしてその男との別れまで、時間を追って順序よく進んだ。
 女は特に話し上手というわけではなかった。それでも話を聞いているうちに、穏やかな二人の時間の流れを身近に感じて幸せな気持ちが溢れた。

 「夕飯を作りますから、食べていってください」
 女の声に俺はハッと我に返った。女の話が終わってどれくらいの時間が経っていたのだろう。自分でも気づかず俺は女の話を頭の中で何度も反芻はんすうしていた。女とその男の暮らしを間近で見ている錯覚に陥って、幸福の時間を追体験していた。
 「いえ、私はもう帰ります」
 俺は立ち上がろうとして片膝を付いた。
 「どこへ……。その前にぜひ食べていってください。お願いします」
 女はそそくさと隣の台所へ行くと、早速料理に取り掛かった。
 「そうだな……どこへ帰るのだろう?」
 俺はひとりごちた。女の後ろ姿を見ながら腰を下ろすと突然、強烈な空腹感を感じて、それに自分でも驚いた。
 実際、俺は何日も食べ物を口にしていなかったが、いつの頃からか食べることに興味をなくしていたし、葉書を拾った路地に辿り着いた頃には空腹感も食欲もどんなものだったかさえ忘れていた。俺は体の生理的な欲求さえ自覚しなくなっていたのだ。

 
 外からパラパラと小雨の音、部屋の中はわずかに二人の食器の音。
 テーブルの端に俺が届けた葉書が置かれ、そして俺の正面には女が座っている。 質素な夕飯だったが、これほど美味いものはなかった。匂い、味、食感、どれもがずっと昔から馴染んでいて、懐かしい感じがした。
 特にお喋りをするわけではなかった。しかし独りきりじゃない食事は、体の中をじんわりと温かくしてくれた。ゆっくりと時間は流れ、時折俺と目が合うと女は箸を止めて微笑んだ。

 食事の後、俺は勧められるままに風呂に入った。最後に風呂に入ったのはいつだったか覚えていなかった。
 風呂から上がると、女は寝間着代わりに浴衣を準備してくれた。着古した浴衣だったが清潔に洗濯されていて、袖を通すとスッときれいな折り目がついているのが分かった。
 俺は固辞することなく、女の求めるまま泊まることにした。葉書を届けただけなのに、図々しいのは十分に分かっていたが、幸せな気持ちをもう少し感じていたいと思って、女の言葉に甘えた。
 その夜、俺は夢を見た。女が話してくれたこの家での暮らしだった。だが、女と暮らしているのは葉書の持ち主の男ではなく俺自身だった。

 翌朝、目を覚ますと女はいなかった。買い物にでも出かけたのだろうと思って待っていたが、夜になっても女は戻らなかった。そして翌日も女は帰ってこなかった。
 俺は小さな家の中を隈なく見て回ったが、初めて訪れた家で女の行方の手掛かりを見つけ出せるはずもなかった。ただ、俺が届けた葉書はどこを探しても見つからなかった。女が持っていったのだろうと思った。
 特に行く当てのない俺は、家で女を待つことにした。女が話してくれた葉書の男との想い出を、俺は繰り返し思い出した。そしていつしか、夢で見たように葉書の男は俺と入れ替わり、女と暮らしていたのは俺だったのではないかとさえ思うようになった。
 想い出は俺の想い出なのか、女の想い出なのか分からなくなりそうになったが、それはどちらでもよくなった。誰の想い出ででも幸せなことに変わりないだろうから。

 季節が変わろうとした頃、玄関のドアをノックする音がした。女がとうとう帰ってきたと思って、勢いよくドアを開けた。
 外に立っていたのは違う女だった。俺より少し若くて、どんよりとした顔色、目の下のくまが目立った。生気がなく、今にも気を失って倒れてしまいそうだった。
 「これ、拾ったから、持ってきました」
 その女が差し出したのは、二つ折りにされた葉書だった。

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