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【極超短編小説】先生の作法

 『編集者冥利みょうりに尽きるぞ』と僕は送り出されたが、てのひらがじっとりと汗ばむほど緊張していた。編集長に教わった作法通りに、正座してふすまを静かに閉めた。
 「インクは買ってきてくれたかね?」
 先生は腕組みして原稿をにらんだままだ。
 「は、はい、先生。これで良いのでしょうか?」
 僕はビクリとしてうやうやしくインクのボトルを差し出した。
 「ふむ、この青色でなければ困る。新人の君に頼んでしまって申し訳なかったね」
 先生は畳に敷かれた座布団で胡座あぐらをかき、濃紺の着流しで文机ふみづくえに広げられた原稿へ向き直る。

 空気が張り詰めるとは、こんな雰囲気なのか? 部屋の中はしんと静まり返っている。
 「せ、先生!」
 僕はなかば助けを求めるような声を発した。
 「待ちたまへ」
 まさに泰然自若たいぜんじじゃく。先生はやおら、僕が持ってきたインクのびんふたを開けて、万年筆にインクを充填じゅうてんし始めた。
 「先生、締切が!」
 僕は腕時計を見て耐えきれず先生ににじり寄った。
 「分かっておる。君がこの原稿を脇に抱えて走れば済むことであろうが?」
 先生はちらりと僕を見て、悪戯いたずらっぽく笑うと、最後の原稿用紙に『了』と万年筆で書いた。

 「先生、健康のためにも煙草はお止めになった方が良いのでは?」
 僕はようやく手に入れた最後の原稿を、先生指定のげ茶色の皮のかばん仕舞しまい込みながら言った。
 「ふん、この一服いっぷくために書くのであろう」
 先生は缶から1本取り出したピースに火を点けて、フーッと煙をくゆらせる。満足げな表情で指にはさんだピースから立ち昇る紫煙しえんは、開け放たれた窓から望まれる鉄の塔にかかったかすみにも見えた。


 「編集長、原稿です!」
 僕は会社に戻ると、急いでかばんから最後の1枚の原稿を取り出した。
 「ご苦労さん。で、煙草のことも忘れずに言ったか?」
 頭にタオルを巻いてネクタイをゆるめた無精髭ぶしょうひげの編集長は、僕から受け取った僅僅きんきん1枚の原稿を肩をいからすように両手で持って目を通し始める。
 「はい。その後、美味おいしそうに煙草を吸ってました……でも編集長、なぜ最後の1枚だけ手書きで手渡しなんですか? それより前の部分はパソコンで書いてメールで送ってくれてるんでしょ?」
 僕はスマホで次のアポを確認しながら尋ねた。
 「最後の1枚だけは編集を待たせて手書きで脱稿だっこう。これは最後まで譲ってくれなかったな。先生の作法だから」
 編集長は手書きの原稿を読み終えると、至極しごく満足な様子でハイライトをくわえた。

〈了〉

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