【短編小説】鉄塔の町:天秤
鉄塔へ向かって僕と彼女は歩く。鉄塔はかなり高い。遠近感がおかしくなりそうだ。
彼女は僕の斜め前数歩先を軽やかに歩いている。鼻歌交じりだ。
彼女は僕を知っている。僕は彼女を知らない、いや思い出せない‥‥か。
『僕、記憶がなくなって、自分の名前も分からなかったんです。いろいろ教えてください』て言ってみるか。ダメだ。まだ僕と彼女の関係が分かっていない。さっきの再会であんなことがあったのだから、顔見知り程度の関係ではないだろうが‥‥。
住宅街を抜けて商店街を通り過ぎてひたすら歩く。辺りは建物が次第に疎らになっていく。
大きな川を跨ぐ橋を渡る頃には、鉄塔は見上げなければその先端を視界に入れることはできなかった。高い。異様なほどに高い鉄塔。ここに至るまでに通り過ぎてきたありふれた町並みにそぐわない高く巨大な鉄塔に、僕は逃げ出したい気分になる。
「どうする?もっと行ってみる?」
彼女が立ち止まり振り向いて言った。
「君はどうしたい?」
僕は鉄塔に向かって進むのか、それとも引き返すのかを彼女の答えに委ねてしまう。今日も自分で決められない‥‥。『今日も』って何だ?
「あなたが決めて」
彼女が僕の顔を覗き込む。
僕は鉄塔に視線を向ける。怖い感じだけど懐かしい感じ。行ってみたいけど行きたくない感じ。行かなければならないけど行ってはいけない感じ。僕は釣り合った天秤の支点になった心地がした。
ふと気づくとラッキーストライクの香り。彼女はいつの間にか煙草を燻らせている。
僕は彼女を追い越して少し大股で鉄塔へ向かって歩き出し
「置いていくよ」
後ろで彼女の駆け出した音が聞こえた。
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