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【極超短編小説】歌は赤く溶けて

 空は朱色の夕焼けに染まり始めていた。
 半年前、俺は編集長と喧嘩して勢いで10年務めた会社を辞めた。ついでに猥雑な繁華街近くの部屋も引き払って、鉄塔から近い安アパートに引っ越した。記者の頃の伝手つてで、出どころも分からない胡散臭い記事をリライトするのを、今では食い扶持にしていた。 
 その日、俺は原稿をなんとか締切に間に合わせ、ビールとつまみを買いがてらの散歩に出かけた。
 両腕を高く上に伸ばしたり、首を回したりして体をほぐしながら、河原の土手を目指してのんびり歩いた。夕方ともなれば、空気の中に残る太陽の熱気も、夏の風情と思えた。



 住宅街を過ぎて家々が疎らになる辺りからは、人影もほとんど見られなかった。道ですれ違ったのは連れ立った二人の男だけだった。一人は初老であごひげが白く、一人はくたびれて薄汚れた格好でリュックを背負っていた。
 土手に近づくにつれて、歌声が聞こえてきた。女性の声だ。その声は澄み切って混じり気がなく、それでいて温かい。耳からだけではなく、全身に染み入るように感じる。


 土手の下までやって来た頃には、俺はビールもつまみのことも忘れていた。ただ、響いてくるその歌を近くで聞きたかった。
 夏草のむせるような青い匂いの中、土手の斜面に丸太で作られた階段を焦るように上る。そして最後の丸太を登りきったとき、ちょうど風が吹いて俺の体にまとわりついていた夏の空気が払われた。
 その女性は川の方を向いて歌っていた。スラリとした体に着た真っ赤なワンピースの裾と長い髪が、風に軽くなびいていた。
 彼女は一曲歌い終わると、少し間をおいて違う曲を歌い始める。アカペラで歌われるどの曲も旋律は緩やかだが、時にハッとするほど情感に訴えかける。失った恋人を想う歌詞は心の奥底の最も深いところへ届いた。聞くほどに胸が苦しくなって、それでも幸せな気持ちが溢れてきた。
 俺は少しずつ色合いを変えていく夕焼け空を眺めながら、彼女の歌に聞き入った。


  彼女が歌うのを止めたのは、夕日が山の稜線にちょうど沈んだときだった。俺は思わず後ろ姿の彼女に話しかけた。
 「あのう、突然すみません」
 「はい? 何か?」
 振り返った彼女は不思議そうな顔で応えた。目が大きいとか、口元が艶っぽいとか特徴的なところはなく、顔全体のパーツはどれもこじんまりとしている。清楚というより素朴な感じがした。真っ赤なワンピースとのギャップに少し驚いた
 「あなたの歌を聞いていました。すごく感動したと言うか、胸にくるものがありました」
 俺はそう言いながら、陳腐な言葉しか発せない自分が恥ずかしくなった。ものを書くのが仕事ですとは、口が裂けても言えないと思った。
 「はあ……そうですか」
 彼女の顔は困惑していた。
 「失礼かもしれませんが、そういったお仕事をされているのですか?」
 「仕事?」
 彼女は眉間に少し皺を作って首を傾けた。
 「その、歌手とか音楽の……」
 「いいえ」
 彼女はそう言うと、軽くお辞儀をして土手を歩いていった。見送る後ろ姿が小さくなっていくにつれて、その輪郭は薄暮の中で滲んでボヤけ、最後に金色の弱い光を放って溶けてしまった。


 彼女に会ってから1週間ほど経っていた。彼女の歌う後ろ姿が脳裏に焼き付いて、仕事をしているときも頭の片隅にあった。
 その日も夕方になってようやく原稿が上がった。これで仕事は終わりとばかりにエンターキーをトンと叩いて、畳にゴロンと仰向けになって伸びをした。外の空気が吸いたくなって、立ち上がりカーテンと窓を開けた。
 部屋の中のクーラーで冷やされた空気は一気に外へ拡散して、代わりに外から水が絞れそうなほど湿気を含んだ熱風が部屋の中へ流れ込んだ。
 ゴトッと後ろで音がした。本棚から何か落ちたのか、と思って振り返った。目の前には、夕日に照らされた俺の暮らしがあった。
 山積みになった本や雑誌に紙束。引っ越してきた時の荷物の段ボール箱は、ふたが開けっ放しで中身がそのまま。散乱した空のペットボトル、食べ終わったカップ麺の容器と割り箸。収集日に出し忘れたいくつかのゴミ袋。俺は体から力が抜けていくのを感じて窓枠に腰掛けた。自嘲の笑いがこみ上げた。
 目尻から溢れそうな涙を拭っていると、本の山と山の間で鈍く光るものに気づいた。近づいて引っ張り出してみると、それは小さな盾だった。高校生の時、小さな文学賞に応募して上から3番目くらいの賞を貰ったときのものだ。それは俺が書くことに携わる仕事をするきっかけとなった。あの頃は、書くのが楽しくて仕方なかった。書かずにいられなかった。
 盾を覆った埃を手で拭って、本棚の高いところに立て掛けた。視線を感じた気がして振り返った。窓の外、遠くに見える土手が緑色に光っていた。
 俺は暫く吸っていなかったタバコをポケットに入れて、部屋を出た。


 彼女は土手で同じように歌っていた。彼女の歌はやはり俺の胸を絞めつけた。時折吹く風に真っ赤な服と髪をなびかせているのもあの時と同じだ。
 だがその日、彼女の歌を聞いているのは俺だけではなかった。遠巻きに十人以上、いや数十人の人たちが彼女の歌に聞き入っていた。彼女の歌がいつの間にか噂になって、それが自然と人を呼んだのだろう。胸に手を当てている人、空を仰ぐ人、涙を浮かべる人。彼女の歌はそこにいる全ての人の心を掴んでいた。


 夕日が沈んで、彼女の歌は終わった。歌を聞いていた何人かの人たちが彼女のもとに駆け寄って賛辞の言葉を送ったが、彼女は相変わらず困惑した表情を見せていた。
 彼女のもとへ近づく人の中で、他の人達とは雰囲気の違う男がいた。男はパリッとしたスーツ姿で、彼女にまず礼儀正しくお辞儀をした。そして胸ポケットから名刺を取り出して、身振り手振りを交えて彼女に話をしている。彼女は男の話を聞きながら次第にうつ向き、最後には首を大きく横に何度も振った。それは拒絶を表しているのに違いないと俺は感じた。
 男は困った素振りで頭を掻くと、深々とお辞儀をして彼女のもとを離れた。
 俺は男と彼女のやり取りを見て、理由の分からない恐怖に近い不安を感じた。


 俺はスーツ姿の男を追いかけて呼び止めた。
 「すみません。ちょっといいですか?」
 「はい。なんでしょう?」
 男は愛想のいい笑顔で応えたが、こちらを見る目は組織人特有の抜け目なさを感じさせた。
 「彼女に何を話したのですか?」
 「個人的なことですからちょっと……」
 男は軽く会釈して立ち去ろうとする。
 「俺は、私はあなたの仕事を邪魔する気はないし、実際、私の仕事はあなたの業界とは全く関係ない。何だったら、私の身分の照会をしてもらっても構わない」
 懇願したというか鎌をかけたというか、とにかく俺は彼女のことを知りたかった。
 「スカウトしたんです。プロの歌手にならないかって。あれほどの才能と実力だから、成功するのは目に見えていると思います。でも今日のところは断られました」
 俺は男に礼を言うと、今度は彼女のもとへ走り出した。


 俺は彼女の歌を聞いていた人たちをかき分けながら、土手の階段を駆け上がる。土手の上で辺りを見渡すと、遠くに彼女の後ろ姿があった。俺は彼女の後を追った。
 「すみません。教えて欲しいんです」
 俺は息を切らしながら彼女を呼び止めた。
 「な、何ですか?」
 彼女は怯えて体をこわばらせた。
 「ごめんなさい。驚かせてしまって。1週間くらい前、俺はあなたと少し話したことがあるけど。覚えてますか?」
 「ああ、はい。覚えています」
 彼女は少し警戒を解いてくれた。
 「教えて欲しい。できれば。何かを聞けたら俺はすぐに帰るから」
 俺は息を整えてゆっくりと言った。
 「何を言えばいいのですか?」
 「どうしてスカウトを、プロの歌手になることを断ったのですか?」
 俺は自然と彼女の目を見つめていた。
 「歌を歌うことが好きでたまらないから。私の歌は私のものだから」
 彼女はそう言うと、はにかんだ笑顔を見せた。日が沈み辺りは薄暗いのに、彼女の顔が赤らんでいるのが不思議と分かった。
 俺は彼女に礼を言って、アパートへ向かって歩き始めた。言い忘れたことがあるような気がして振り向いたが、彼女の姿は黄昏の中に消えていた。


 それからも仕事が終わった夕方になると、俺は土手へ出かけていった。しかし一度も彼女を見ることはなかった。彼女はもう土手では歌っていないようだった。
 ある日、土手の上で夕日を眺めていると、散歩している人たちの噂話が耳に入った。噂では彼女の歌声が、岬から見える小島から聞こえると。
 俺は真っ赤な夕焼けの中、川の方から吹く気持ち良い風を受ける。口にくわえたタバコには、まだ火を点けられないでいる。

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