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【極超短編小説】裏:輝きの中へ君は行く。そして僕は夢を見る⑫

 新年度が始まった。
 朝のバスは相変わらず乗客で混み合っていた。
 「手続きはもう済んだの? 復学の」
 僕の隣の座席で本を広げていた彼女に尋ねた。
 「え? 今更それを聞くの? もうとっくに済ませているわ」
 彼女は呆れ顔で応える。
 「そ、そうだよね」
 「今日からあなたと同じ大学で、同じ3年生よ」
 彼女によると2年前、2年生が終了した時点で休学したということだった。
 僕が入学したのはちょうどその年度だったから、これまで学内で出会うことがなかったのだ。
 「ここに座ってください」
 そう言って、彼女は僕の腕を引っ張りながら立ち上がり、杖をついた老夫婦に席を譲った。
 僕はつり革に掴まり、彼女は僕の腕に掴まった。彼女は僕の顔を見てニコリと微笑んだ。



 「それじゃ、お昼に学食で」
 彼女はそう言って僕に背中を向けて歩き始めた。そして数歩、歩いたところで振り返ると笑顔で手を振った。
 僕たちは同じ学部ではなかったから、大学の正門を入るとそこで別れてそれぞれの校舎に向かった。
 僕の大学での成績は、まあ人並み。勉強に関しては取り敢えずはそつなくこなしていた。なんやかんや言ったって、結局のところ自分の行き着く先を想像すると、大学生としてやるべきことはやらざるを得なかった。
 「よう、久しぶり」
 階段教室の入口で声をかけてきたのは、同じクラスの男子学生だった。
 「お、おう、おはよう」
 僕は軽く手を上げて応えた。彼の名前が思い出せなかった。
 彼とは講義でよく顔を合わせていた。色んなところに顔が広いらしく、僕をコンパやら飲み会によく誘ってくれていたし、僕もそれを期待していた。
 そんな彼の名前を思い出せない自分に僕は軽く驚いた。特に親しいわけではなかったが、僕は彼という人間に興味を持っていなかったのだ。とは言っても、他に親しい友人がいたわけでも、興味を持てるような人間が学内にいたわけではないが。
 「今晩、うちのサークルの新歓コンパなんだけど、来るよな?」
 「ごめん、今日はだめなんだ」
 人数合わせでも、それまでの僕であれば喜んで誘われていた。
 「え? お前が来ないって。珍しいな、何かあった?」
 「ああ、ちょっとな。また誘ってくれよ」
 彼女と出会ってから、以前のようにコンパや飲み会に出かける機会がめっきり減っていた。



 
 「何食べる?」
 学食入口の食券の券売機の前で、彼女が尋ねる。
 「カレーにしようかな」
 「カレーはダメ」
 「どうして?」
 「今晩の夕飯は私の順番だったでしょ。カレーを作るつもりだったから」
 彼女はフフと笑って言った。



 講義が終わった後は、それぞれのアルバイトの都合で帰りが一緒のときもあれば別々のときもあった。それでも、なるだけ夕飯は部屋で一緒に食べるようにした。彼女がそう望んだからだ。
 彼女と出会って、僕の生活は色んなところで変わっていった。それは特に望んだわけではなかったが、拒むこともしなかった。移ろうままに任せた。

 そんな生活の中で、自分は都合の良い人間だということに僕は向き合わざるを得なかった。身近な世界を俯瞰しようとはせず時間の流れの中に隠れて、その流れの底に薄っすらとだけど、確実に横たわるものに焦点を合わせようとしない人間なのだと。
 いつかは終わる彼女との暮らしを、本質的には免罪符となり得ない『若さ』でもって無責任に続けていくことを止めることはできなかったのだ。


(つづく)



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