【極超短編小説】裏:輝きの中へ君は行く。そして僕は夢を見る⑩
アパートの横に車が止まった。その排気音で彼女がやって来たのが分かった。
2階の僕の部屋から下を覗いた。車の横に立った彼女はこちらを見上げて、笑顔で手を振った。今まで見たことがない笑顔だった。
なぜだろうか、僕は彼女のその笑顔が、しっくりとこなかった。彼女の感情が僕の中に染み込んでこない感じがした。知らずに僕自身が拒んだのか?
僕は無意識に俯いて、彼女から顔を背けた。彼女に僕の中を見られたくなかったのだと思う。僕は部屋のドアを抜けて階下へ急いだ。彼女の笑顔を間近で見て、これまでと同じように彼女を感じたかった。
「荷物は?」
僕は彼女に焦るように尋ねた。
「これ」
彼女は大きめのバッグを後ろの座席から引っ張り出して見せた。
「他には?」
「これだけ」
彼女はそのバッグを僕に押し付けるように渡すと、アパートの階段を登り始めた。
「この車は? ここに止めたままじゃ……」
「その車はもうわたしのものじゃないから」
彼女は笑顔で振り返って応える。
「こいつは俺の車になったんだ。もう要らないって言うから」
車の窓から身を乗り出して言ったのは、バンドのドラマーだった。
「あ、こんにちは」
突然あらわれたドラマーに僕は驚きながら挨拶する。
「ギターやら革ジャンやら、彼女の荷物は一切合切、全部要らないって言うから、バンドのメンバーとマネージャーで貰ってやったぜ。で、俺はこの車を手に入れたというわけだ」
ドラマーが運転する元『彼女の車』を見送る。彼女と峠をドライブしたときに全身で聞いた排気音はあっという間に遠ざかり、町の音の中へ溶けてなくなった。
(つづく)