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強風吹きすさぶ休日、40年前の自分に出会う
12月14日(土)
今週とうとうカセットテープをUSBに録音する作業に入った。MCの概要やセットリスト、印象的なハガキの内容などもメモしながら、のんびりと聴く。
もう40年も前になるのかと信じられない思いだが、40年前のわたしはもっと信じられないくらい頑張っていた。
同じ人間とは思えない(笑)くらい。
当時は頑張っているという意識はなかったから、無我夢中というのはこういう状態なんだろう。楽しかった。
『6時のジョッキー』というNHK長野のDJをしていたのは84年4月から86年4月まで。丸2年、木曜日担当として毎週、番組を制作&出演していた。DJネームははいじ。大学の合気道部でのニックネームをそのまま使った。
ハードロック担当だったが、当時はリクエストが少ない分野で、洋楽でもポップス、なんといっても歌謡曲の人気が高かった。
そこで『街角リクエスト大会』と称して街に出て街頭インタビューでリクエストを録り、曲をかけるなどということを早い時期からやっていた。
デンスケと呼ばれていた小型のオープンデッキのテープレコーダーを担いで、長野、上田、松本あたりに出没。事前に放送内で予告をしていたものの、来てくれる人がいるのかかなり不安だったと思うけれど、それなりに三々五々やってきてリクエストしていってくれたらしい。最後のほうでは何人もの中学生や高校生の声を拾っているから、だんだん浸透していったのだろう。
インタビューのテンポやら、相手への入り込み方やらがやけに堂にいっている。雑誌のアルバイト時代、街頭スナップを数々こなした経験が生きていた。
正直、自分でもビックリだ。25~26歳のわたしが、ここまでいろいろできていたなんて。もっとダメダメな人に頼りがちな人間だと思っていた。自己評価、低かったんだね。
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左から金曜・ジャズ担当、月曜・ポップス&フュージョン担当、火曜・洋楽ポップス&ロック担当、木曜・洋楽ハードロック担当、水曜・歌謡曲担当というジャンルでの棲み分けがあった。
デンスケで取材して1日。放送日当日、それを朝から編集し、レコードを探し、構成し、MC内容を考えて、18時からの50分番組を1日で作って生放送する。
放送終了後は一目散にタクシーに乗りこみ、長野駅から特急しなので塩尻に帰った。それが特急の最終列車だ。
朝も始発の遅い電車では間にあいそうになく、塩尻から長野まで約100㎞の道のりを軽のダイハツクオレを飛ばして通った時期もあった。
まだ高速道路なんてない時代だ。
木曜以外はずっと別の仕事をしていたはずだ。
予備校の先生はもう始めていただろうか。予備校と喫茶店をかけもちし、月1回地方の広報紙? ミニコミ紙?にコラムも書いていた。
DJ 2年目には、当時、導入され始めたオフィスコンピューター向けのソフト(プログラム・アプリケーション)を開発する会社に就職。DJの件は了承済みで、週1で休みをもらいながら、ソストウエアを開発す勉強から始めて夏ごろには1本、ホテルの予約管理ソフトを作っていたと思う。
バグだらけのひどい代物だったが、会社はそれを売ったんだから、そっちのほうがビックリだ。
一緒に、別のソフトを何本も作ったシステムエンジニアの先輩から
「ねーさん(当時の呼び名)のソフト、○○するとデータが消えちゃうんだよ。どっかに飛んじゃう。あとでクレームがきて大変だったよ」
と優しく言われて、「テレッ、ごめんなさ~い」で済ませていた記憶がある。
呆れるよね。世の中なめてるよね。不適切にもほどがあったわたしだったよね。
そんな青春時代がFREEやJEFF BECK、LED ZEPPELINに乗せて蘇ってくる。
よく働いた。よく頑張った。めちゃくちゃ貧乏だったけれど、やっぱりDJは楽しかった。滅多にできる仕事じゃない。そんな機会をいただけてほんとうに果報者だ。
DJ2年目最後のほうの録音を聴くと『Let's HERO』や『RADIO TELEVISION』なるコーナーもある。
邦楽洋楽問わず推しの新人ミュージシャン、新人バンドを紹介する『Let's HERO』では、レコード会社に連絡してリスナーに関連グッズをプレゼントしたりしている。
たぶん誰にも相談せず勝手にやって、NHKから発送してもらっていたけれど、それに関して叱られたこともなくやりたい放題だったらしい。
ロック大好きの現代国語の先生をゲストに招いて、『レゲエ特集なんていうのもやったなぁ。
とにかく毎週、なんやかんやもりだくさんの内容だった。
『RADIO TELEVISION』は「ラジオでドラマを聞いちゃおう。音楽のイメージでドラマを見ちゃおう」とかなんとかいうコーナーだ。要は、リスナーに音楽のイメージに合わせたストーリーを作って送ってもらい、それを朗読しながら曲をかけるというコーナー。
こればっかりは当時のわたしに喝を入れたい。
「もっとちゃんと朗読できてからやりなさい!!」と。朗読がヘタすぎて、せっかくの物語が台無しだった。
そもそもわたしは滑舌が悪くて舌ったらずの喋り方だった。脳梗塞の前からずっとそうだ。もうちょっとアナウンスの練習をすべきだったが、採用されてから1カ月くらいの訓練期間を経ただけで、本番。最初のうちこそ、本番前にMCの内容をアナカンサーにチェックしてもらっていたが、そのうちそれも素通りだった。
幸せな時間だった。めちゃくちゃ楽しい時間だった。
その一方で身体はめちゃくちゃ疲れていて、精神的にはアップダウンを繰り返していた。
禍福は糾える縄のごとし。
アップの降り幅が大きければ大きいほど、ダウンの落ち幅も大きくなる。
これは血糖値と全く同じ。
血糖値の場合はなるべくアップダウンを繰り返さないように、糖質摂取をコントロールすることが肝要だ。
そんなことを知るのは四半世紀もあとのことになるのだが、青春そのもののDJ時代を終えてからのわたしは、できるだけアップダウンを繰り返さないように、平坦な気分でいられるようにと、そんな人になっていったのかもしれない。
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