「縁(えにし)の使者の獣医さん」第2話
「幸せのおしゃべりタイム」
術後10日目には手術の傷跡に残っていた抜糸が終わり、術後も一段落した。
本来、僕の病室であるⅠCUは病気の重い動物や手術直後の動物が入る部屋である。だから、術後、一段落した僕は必然的に入院部屋に移されることになる。
入院部屋は違う部屋にあるため、そこからは今のように病院全体を見渡すことはできないし院長室の先生の姿も見えなくなってしまう場所になる。
でも、僕だけ、わがままは言えない。
いよいよ看護師さんが僕を入院部屋に移そうとした時、先生が「ベアはICUの隣の部屋でいいよ。重い子が来たら入院部屋に移すよ」と言ってくれた。
僕はまだ先生のことを見続ける場所にいられることを心から喜んだ。
僕は先生がいつも見えるこの場所が大好きだ。
そして夜になり、みんなが帰った後に先生とおしゃべりできるひと時が大好きだ。この幸せが続いてくれることが心からうれしかった。
その夜のこと。
先生はいつもどおり、僕の部屋にやってきた。先生は僕を掌に乗っけてから、きれいに消毒した病院の床に初めて僕をおろしてくれた。
初めて自分の足で踏む病院の床の感覚は、なんだか不思議だ。
床は真っ白で、つるつるしているように見える。僕は恐る恐る床の上を歩いてみた。
滑りやすいのかと心配したが、僕の病室の床の方が滑りやすい感じだ。
消毒薬の匂いが少し残っている。
視線を前に移すと、仕切られた空間ではなく、ずっとずっと向こうの先まで真っ白な床が続いている。
病室からいつも見下ろしているのとは全く風景が違って見える。
僕はテクテクと歩き回ってみた。
毎日、狩りの練習をしているから体力もついてきているし、傷口の痛みも全くないから、今度は少し走ってみた。
走れる!!
僕は生れて初めて走ることができた。
先生はそんな僕をとても優しいまなざしでずっと見守っていた。
でも僕は驚いた。
でかい!でかすぎる!
先生はこんなに大きかったの?!先生が巨人のような大男だったなんて、床に降りてみて初めて知った。
「世界が変わっただろう?!よかったな。外に出られるほど元気になって」と本当にうれしそうに、眩しそうに、先生の優しい目がそう言って笑っていた。
僕もうれしくてうれしくて勢いよく走り過ぎたのか、病院が広すぎるのか、僕はすぐに息切れしてその場にうずくまってしまった。
先生は、そっと僕を抱き上げ病室まで戻してくれた。
「あはは。うれしすぎて興奮しすぎて疲れたね。ちょっとはしゃぎすぎたな。ベア。でもよかった。走れるようになったんだな。よくがんばったぞ!。ベア。今日も元気でいてくれてうれしいよ。ありがとうな。おやすみ。また明日な!」そう言って、先生はいつもどおり頬ずりしてくれた。
僕は心地いい疲労感からすぐに深い眠りに落ちていった。
その日を境に、先生とのおしゃべりタイムは変化を遂げた。
病院が終わりスタッフが帰ったら、先生が僕をまず病室から出してくれる。 その後、先生はカルテの整理をしたり、最後の仕上げの仕事をする。
その間、僕は先生の後をついて回ったり、自由に病院のあちこちを探検したりする。
毎日が新鮮だった。どんどん新しい世界が広がる、そんな毎日が楽しくて仕方なかった。
はしゃぎすぎて息切れしてうずくまっていると、いつも必ず、先生が来てくれる。そして僕を抱き上げ、先生が使っている院長室の机の上に僕を載せてくれる。
机の上には僕専用の毛布が置かれている。
僕はその毛布に寝っ転がって、まだ残っているカルテ整理をしたりお仕事をする先生の顔をゆっくり、ぼんやり眺めている。
先生の顔はどれだけ長く見つめていても見飽きることがないから不思議だ。
時々、先生は仕事の合間に僕を見て、「もうちょっと待っててくれよ。もう終わるからな!」と微笑んでくれる。
今日は夜診の受付が終わってから、てんかん発作をおこしたミニチュアダックスの救急患者が来院したので、先生がお仕事を終えるのが夜の12時頃になっていた。
僕が少し、毛布の上でウトウトし始めた時、突然、病院の勝手口が開いて男の人が入ってきた。
驚いて飛び起きた僕を見つけて
「おう。ベア。ごめん。びっくりさせたかな。しかし、特等席で院長見物か!?あはは」と豪快にその人は笑った。
母さん猫の長男さんだった。
「悪いな。お疲れさん!」と先生が言うと「いやいや。オヤジも遅くまで今日は大変だったな。お疲れさん。俺はとにかくあいつらの世話をするよ!」と言って、鼻歌を歌いながら母さん猫は入院部屋に向かっていった。
院長室からも処置台が見える。子猫たちが連れてこられて、母さん猫が5匹を次々に手際よく世話をしていく。
5匹ともすっかり目が開いて、まん丸のきれいなキラキラした目をしている。
捨てられた頃は目ヤニや鼻水でコテコテの顔をしていた5匹もそれぞれの本来の毛並みが整ってきて、5匹それぞれの顔つきになっている。
今まで一番弱々しくて飲みが悪かった黒猫(まるで昔の僕そっくりだ)も随分飲む力がついたようだ。
あと1匹、ミルクの飲みが悪かった三毛猫もグイグイ、ミルクを飲む力がついてきていた。
残りの3匹は離乳食を食べるようになってきている。
鳴き声もすっかり元気になっていて、処置室中に5匹の鳴き声が響き渡っていた。
昼間は看護師さんたちが別室で世話をしてくれている様子で、最近、5匹の様子は僕の病室からは見えなくなっていた。
一方、夜の僕の眠りは深いらしく、朝まで起きることはなかったから久しぶりに見た子猫たちの姿に心が震えた。
僕が気づかない間に、こんなに元気に成長していたんだ。
そして、夜12時と朝4時は、ずっと、母さん猫の長男さんが世話を続けてくれていたんだ。
よかった!心からそう思った。
「この2匹もミルクがしっかり飲めるようになってきたし、そろそろ里親探しかな。可愛くなってきた頃に、俺の手元を巣立っていくんだよな、お前たちは!。白血病やエイズなどの病気も持ってなかったし、本当によかったな。」そう言って母さん猫は1匹1匹を愛おしそうに抱き上げ頬ずりしていく。
嬉しそうに心地よさそうに子猫たちは母さん猫のなすがままに任せている。
長男さんの姿は、まるで、本当の母さんみたいで、僕は、子猫たちは本当に今幸せだと思った。
先生の病院では、長男さんはじめ、みんなが捨てられた猫たちを愛情深く育て、一定の大きさに成長したら、温かく子猫を迎え入れ大切に育ててくれる新しい親を探す。
とにかく、大切に育ててくれる人が現れるまで、徹底的に探す。
不思議なもので、先生たちのその努力は、いつもすぐに実ってきた。
これまでも数えきれないくらい、里親探しをしてきたが、みんな、素敵な里親さんが現れ、家族として引き取られていく。
引き取られた後も、先生たちは予防接種、健診、避妊・去勢手術などで里子に出した猫たちの様子を見守り続ける。
そのために手術費用の減額など、里親が飼育しやすいようなサービスも提供したりする。
里子に出しても、ずっとずっと、その子が幸せでいられるよう、先生は気にかけているのだ。
先生は、きっと、一生涯かけて、そうやって、昔の償いを必死でし続けていくつもりなんだろうな、僕はそう思った。
そういえば、僕もある意味、捨て猫だ。
先生たちは、これまですべての捨て猫たちの里親を探し、みんな幸せに引き取られている。この5匹も里親を探す準備に入るらしい。
じゃあ、僕は??
手術が決まった時、先生は「うちの子になるか?」って僕に言ってくれた。僕も捨て猫なのに、どうして??
そんな僕の思いに気づいたように、長男さんが僕を見ながら、
「ベアはどうするんだ?これから」と先生に聞いた。
先生は「ベアは、うちの子だよ。」と僕を見て即座にそう言った。
「まあ、そりゃそうだろう。ただ・・」と長男さんが言った。
「そうなんだよ。ただ問題は、いつ奴らに紹介するかだ」と先生は言った。
えっ?どういうことだろう。
「あと、今は人工膀胱がうまく機能しているが、今、使っている人工尿道のカテーテルがいつまでもつか、たとえ、それがもったとしても、ベアの成長に伴って再手術が必要になってくるから課題は山積みだよ。」と先生はそう付け加えた。
「そうか。まあ、一つ一つ、クリアしていくしかないからね。とにかく、ご対面は、もう少し、ベアの人工膀胱が落ち着いてからということか。」と長男さんがそう言うと、「ああ。それが一番の難関かもな」と先生と長男さんは僕を見て一緒に「ふふふ」と笑った。
一体、どういうことか、さっぱりわからない。
捨て猫の僕を養子に出さずに特別に先生のうちの子にしてくれる理由も、二人が「難関」と言って笑った意味も、全くさっぱりわからない。
わかったのは、僕が先生のうちの子になることがすでに決まっているということ、そして、そうなるためには、なんだか大変な難題があるということだ。
「ベア。もう少し病院生活が続きそうだが、とにかく元気に順調に大きくなってくれよ!」と長男さんが優しく僕の頭をなでてくれた。
「そうだな。まだ家には連れて行けないから、もう少しここで我慢だな。でも、俺は、今、ベアがここにいてくれるから、こうやって一人で遅くまで病院にいることがつらくないんだよ。というより、とっても楽しいんだ、毎日が。
つらいこともある、悲しいこともある、腹立たしいこともある、そんな思いが一日の終わりにベアとこうやっていると、みんな消えていくんだ。
こんなに小さいのに大きな手術に耐えて、元気に無邪気に跳ね回ってくれている、ベアのこのけなげで逞しい姿を前にしたら俺のそんな悩みやしんどさなど取るに足りないちっぽけなことのように思えてくる。
まだまだたくさんの手術や障がいをベアは乗り越えていかないといけないが、ベアのこの澄んだ瞳を見ると、俺は沸々と闘志が湧いてくるんだ。
俺が絶対守り続けてやるってね!なんだかベアはスゴイ奴だよ。」と先生はそう言った。
「そうか。ベアは本当にスペシャルな子なんだね。」と長男さんは心から納得したようにそう言った。
僕がスゴイ?!僕がスペシャル?!
それを聞いて、ちょっぴり照れくさくなった。
それよりなにより、先生が僕とのおしゃべりタイムを僕と同じように幸せに思ってくれていることが本当にうれしかった。
「この幸せがいつまでも続きますように。」僕はそう祈りながら、そのまま、深い眠りに落ちていった。
「禁じられた遊び」
僕は日に日に体力をつけていった。
離乳食から子猫用のご飯に食事も格上げされた。
体重もすこしずつ増え、体つきもひとまわり、「ベア」の名前にふさわしく大きくなったような気がする。
病室で日々、取り組む狩りの練習もすっかり狩猟力が身について敏捷に獲物に襲いかかれるようになっていった。
看護師さんたちが僕の病室の前を通る度に猫じゃらしで遊んでくれることも本当にうれしく楽しい良い運動になる。おかげで反射神経も随分研ぎ澄まされてきた。
人工膀胱もすこぶる快適だ。
1日3回の排尿、1回の膀胱洗浄のため、その処置の間はじっとしてなくてはならないのが少し苦痛だが、その他はなんの痛みも苦しみもなく実に順調な術後経過をたどっているようだった。
そして、いつもの先生とのおしゃべりタイム。
夜になるのがいつもいつも待ち遠しかった。
スタッフさんが帰っていく気配がすると、僕はいてもたっても居られなくなる。
「ニャー、ニャー(早く、早く!)」と先生を呼びながら病室の扉に爪を立て、カリカリと音を鳴らす作戦に出る。
先生は、その声と音を聞くや否や、「はい。はい。ちょっと待ってろよ」と笑いながら僕を病室から出すために駆け付けてきてくれる。
病室から脱出した後は、まずはお散歩タイム。
先生のあとにひたすらくっついて歩き回る。
この頃は体力がついたおかげで散歩途中で力尽きて先生に迎えに来てもらうようなことはほとんど無くなってきた。
どんどん早く走れるようにもなったし、先生にくっついて、病院中どこまでも行けるほど、行動範囲も日増しに広がっていった。
より早く走れるようになるたび、行動範囲が広がるたび、先生は目を細めてうれしそうに僕の姿を見つめている。僕がどんどん回復していく姿を心から喜び優しく見つめている。
そして、おしゃべりタイムが終る時はいつも僕を掌に乗せて
「今日もよくがんばったぞ!。ベア。今日も元気でいてくれてうれしいよ。ありがとうな。おやすみ。また明日な!」と言って僕に頬ずりしてくれる。
僕は自分が誇らしかった。
日ごろの努力がこうして報われることのうれしさに加えて、それより何より、先生は、日々の僕の回復を喜び、うちの子として大切に育ててくれているように思えて、それがこの上なく幸せだった。
そしてこの幸せがいつまでもいつまでも続けばいい、そう思う毎日だった。
そんなある日、看護師さんが片付け忘れた猫じゃらしが処置台の上に置かれているのを僕は見つけた。
僕は日々の練習で、すっかり狩猟力が身についていた。
僕は処置台の上の獲物に飛びかかるために低く身をかがめた。
ジャンプして獲れるだろうか。
自信はなかった。だって処置台は結構高い位置にある。
けれど、とにかく大好きな黄色い猫じゃらしを確保するんだ。
そう決意して、最大の跳躍力が発揮できるように僕は一番低い体勢に身をかがめた。
「よしっ!!」とジャンプしようとした途端、僕の身体はひょいっと抱き上げられた。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
先生だった。
先生はなんだかとても慌てて猛ダッシュで僕のもとに駆けつけてきたようだった。
「こらっ!ベア。ダメだよ!。」と言って僕をぎゅっと抱きしめた。
いつもなら先生は僕が活発に動けば動くほど喜んでくれるのに、今日は、なんだか様子が違う。
先生は喜んでくれるどころか慌てふためいて怖い顔をして僕を止めにやってきた。
抱きしめられながら、「あの猫じゃらしは取ってはいけない物だったからかな?!」と僕はその理由を考えていた。
それ以降は、猫じゃらしが放置されるようなこともなかったし、特に同じように先生に動きを阻止される出来事もないまま、毎日が幸せに元気に過ぎていった。
その間、僕はどんどん跳躍力を鍛えていた。待合室のソファーの上や低い作業台の上にも飛び乗れるくらいの跳躍力もついてきた。
猫は本来、ジャンプするのが得意な動物だ。
鍛え上げられた脚力と背筋力でしなやかに跳躍し、優雅にしなやかに高みにふわりと舞い降りる。
まるで跳躍力の高さは猫としてのステイタスのようにさえ感じる。ジャンプして目標の高さ、目標の地点まで到達できた時のあの喜び、たまらない達成感。ジャンプに勝る崇高な遊びは他には無いと思えてしまうほどだ。
先生が、おしゃべりタイムで僕を病室から出してくれなければ僕は自分にこれほどの跳躍力があることに気づかずにいた。
前回は先生に阻止されたけれど、今ならあの黄色い猫じゃらしが楽々と獲れるような気がする。それほどまでに僕は着々と跳躍力を伸ばしていった。
自信がつけばつくほど、ハードルの高い目標をクリアしたくなるもので、最近、僕にはクリアしたい場所ができた。
病院には2階に続く階段がある。
その一段の高さは僕の身体の長さと同じくらいの高さがあって、2階までつづく階段を下から見上げると、まるで「そそり立つ壁」のように見える。
先生は2階の入院室に行く時、後ろをついていく僕をひょいと抱き上げ、階段の手前にあるドアをしめ切って僕が階段スペースに入れないようにしてしまう。そして自分だけ、2階に行ってしまうのだ。
そして2階から降りてきた後も、ぴったりと階段の手前のドアを閉めてしまう。
なんだか、先生は僕を2階に行かせないようにしているような気がする。
2階以外なら、ぼくは病院中どこにでも行けるし、僕の知らない場所は無いくらいだ。
そうだ。2階にはあの5匹の子猫たちの部屋もある。
僕も2階に行ってみたい。あのそそり立つ壁を制覇して、僕の跳躍力の進歩を先生に褒めてもらいたい。
僕が2階への階段を上り切った途端、きっと先生は、僕を抱き上げ、
「おおっ。すごいな。ベア。こんな急な階段も自力で最後まで登れるようになったのか。えらいぞ。お前はやっぱりたいしたヤツだな」と目を潤ませながら満面の笑みをうかべて僕に頬ずりしてくれるに違いない。
そうだ。そそり立つ壁を制覇するんだ!
僕は、いつしか、そう強く思うようになっていった。
しかし、なかなかそのチャンスは訪れなかった。
先生のガードは鉄壁だった。
僕は毎日、虎視眈々とチャンスを狙っていたが、そそり立つ壁の前に僕が立つことさえも許されない日が続いた。
そんなある日のこと。
その日は、一日中、とめどもなく忙しい日だった。おまけに診察が終わったあとにも急患が入り、ようやくおしゃべりタイムになったのは真夜中を過ぎてからのことだった。
「ベア、待たせたな。すまん、すまん。」そういって、僕を抱き上げた先生の顔は、いつもどおり優しい笑顔だったが、さすがに疲れを隠せない様子だった。
僕は、うーんと伸びをしてから、いつものように先生のあとにくっついてお散歩を始めようとした時、先生の足がぴたりと止まった。
「しまった。さっき、入院させたあの子に薬を飲ませるのを忘れていたよ」先生はそう言って慌てて薬局で薬の調合を始めた。
そしてそのまま足早に2階の入院室に向かっていく。
僕もあわてて先生の後を追う。
よほど先生はその子の投薬に気をとられているのか、後からついていく僕のことは眼中にないようで、先生は一気に2階への階段を駆け上がっていく。 僕も全速力で後を追い階段のドアのところにたどり着いた。
そして、目を疑った。
ドアが開いたままだ。
2階につながるドアが開いたままになっていたのだ。
恐る恐るドアの隙間から階段スペースに足を踏み入れた。
僕の目の前には、あのそそり立つ壁が僕の行く手を遮るようにそびえ立っていた。
僕にとっては、千載一遇のチャンスが到来したのだ。
幸い、2階の入院室からは、先生の「よし。よく頑張った。あと2つ、このお薬を飲んでくれよ」という声が聞こえていた。
「今だ!これまで鍛えた跳躍力を試すんだ。」
僕は意を決して、これまでにないほど低く低く身をかがめて跳躍体勢をとった。
低く屈んだせいか、階段1段が僕にとっては、とてつもなく高く感じる。
ふと不安がよぎった。
「こんな高い壁を本当に登り切れるだろうか。跳躍力が足りずに失敗して、階段の角にお腹をうちつけたり、転がり落ちたりしないだろうか。」そう考えると、この無謀ともいえる挑戦がなんだか不可能な気がして、跳躍の第一歩を踏み出すことが躊躇われた。
その時、「よーし。いい子だ。よく頑張ったな。もうこれで今夜は安心して眠れるからな」という先生の声が2階から聞こえた。と同時に「ニャー、ミャー、ニャー、ミャー」という子猫たちの鳴き声も聞こえてきた。
「やっぱり、行こう。僕もこんなに先生に元気にしてもらったんだ。先生にその姿を見せて喜んでもらうんだ!乗り越える壁は高くても、僕はベアだ。きっとこの壁を乗り越えて見せる」
そう思うや否や、僕の後ろ足は地面を強く蹴っていた。
低く屈めた姿勢から大きくジャンプし、みごと、1段目の階段に飛び乗った。
「やった。飛べた!よし!この調子だ!」
僕は嬉しくなって、同じように低く屈んでは飛び上がることを繰り返しながら、ちょうど階段の半分くらいのところまで一気にたどり着いた。
「すごいや!僕が日ごろ訓練してきた成果だ。一気に半分まで登ってくることができた。さあ、このまま、一気にあと半分、登り切るぞ!」
僕は再び、身を低く屈めて戦闘体勢に入った。そして勢いよく跳躍を繰り返し、とうとう、あと1段で壁を制覇できるところまでたどり着いた。
さすがに僕はひどく息切れしていて後ろ足もガクガクしていた。
あと1段を登り切るためには一呼吸おいてからの仕切り直しが必要だった。
息を整えながら、ふと眼下の景色が目に入った。
はるか下に、先ほどまで跳躍体勢を整えていた階段下スペースが小さく見える。
僕はその光景に感動していた。
「ここまで一人で登り切ったんだ」という達成感が僕の心を満たしていた。
そして、最後の1段を制覇するための姿勢を整えて、いざ、飛び上がったその時、
「べアっ!?ダメだ!」
先生の大きな一喝が頭上で鳴り響き、僕の身体を大地震のように震わせた。
驚いた僕は、最後の1段に飛び乗ることができたものの、その途中で強く腹部を階段の角に打ち付けてしまった。
鋭い痛みが走った。と同時に
「プツンっ」
どこか近くで、そんな音が聞こえた気がした。
先生は僕を慌てて抱き上げ、それから強く僕を抱きしめて、「ベア!大丈夫か。ここまで一人で登ってきたのか。よく登ってきたな!スゴイ奴だ。お前は。でも、大丈夫か。」と何度も何度も僕の顔に頬ずりしては、僕の身体のあちこちを観察する、それをしばらく繰り返した。
そのまま、僕は1階に抱っこされたまま下ろされ、あの階段のドアは、再び、固く閉ざされた。
その後、先生はずっと心配そうに僕の動きを観察しているようで、僕も何だか不安になってきた。
先生は僕の跳躍力を褒めてくれるには褒めてくれたけれど僕が期待した満面の笑みをうかべるどころか、あの時の先生の顔は困惑と不安で顔がこわばっていた。
「僕は、何か、悪いことをしたのかな。階段を登ることは僕にとっては、やってはいけない遊びだったんだろうか。それにあの『プツン』という音、あれは何の音だったんだろう。」
いろいろな疑問を残したまま、その日は早めにおしゃべりタイムは切り上げられた。
「ダメージ」
次の日、いつものように僕はご飯もしっかり食べ、「良いウンチね」と看護師さんに褒められ、ご機嫌で過ごしていた。
昨日のおしゃべりタイムの時のトラブルも痛みさえも、まるで何ごともなかったかのように、いつもどおり、時間は過ぎていった。
そして僕の日課である導尿タイムがやってきた。
「あれっ?!おかしいな」
看護師さんが手馴れた手つきで導尿を始めた時、ふいに、そうつぶやいた。
「あれっ?やっぱり、おかしい。ちょっと待っててね。」
看護師さんは、そう言うや否や、「院長、ベアのおしっこが出てきません」と先生に駆け寄りながら心配そうにそう報告した。
「えっ?出ないのか。やっぱり。とにかく、俺がちょっとやってみるよ」と今度は、先生が僕の体位を替えたり、お腹を押したりしながら導尿を試みてくれた。
結局、先生が何をどうやっても、僕の人工膀胱はピタリとその蛇口を閉ざしたまま、僕のおしっこを排出することは二度となかった。
そのため、その日は以前に行っていた腹部に針を入れておしっこを出す処置を日に3回行う羽目になってしまった。
ご機嫌だった一日がいきなり我慢の一日に暗転してしまった。
でもそれ以外は、元気にいつものように遊べるし、ご飯もたくさん食べられるし、僕は人工膀胱からおしっこがでなかったことも、そのうち、先生がなんとか治してくれるとお気楽に考えていた。
その夜、スタッフさんが帰っていく気配がすると、僕はいてもたっても居られなくなって、いつものように「ニャー、ニャー(早く、早く!)」と先生を呼びながら、病室の扉に爪を立て、カリカリと音を鳴らす作戦に出た。
いつもなら先生は、その声と音を聞くや否や、すぐに笑いながら駆け付けてきてくれるのに、その日は先生の様子が全く違っていた。
先生は僕を掌に抱き上げそのまま両手でぎゅっと抱きしめた。
そして、先生の顔を僕の身体に擦り付けながら「ベア。すまん。ベア、本当にすまん」と何度も何度も繰り返して僕に謝ってくる。
「やっぱり、恐れていたことが起こってしまった。昨日、ジャンプをしたことでおそらく体内に留置したカテーテルがどこかで損傷したんだ。
なんてことだ。まだ次の段階の手術を行うには早すぎるし、かといってこのまま放置することはできない。一体、どうしたらいいんだ。
せっかく、うまく人工膀胱が機能していたのに。
俺のせいだな。俺の不注意でベアをとんでもない状態に追いやってしまった。俺が入院の子に気を取られて、階段へのドアを開けっぱなしにしてしまったために。ベア、本当にすまない。すまない、ベア。」先生は苦しそうにそうつぶやいた。
その時、初めて僕は、昨日の僕の失敗で人工膀胱がダメになってしまったことを知った。
先生がこんなに思い悩むほどの深刻な事態が僕の身体に起こっていたのだということが初めて理解できた。
「先生、ごめんなさい。先生のせいじゃないよ。僕のせいだよ。
僕ね、先生に僕が立派に成長していることを見てもらいたかったんだよ。
名前のとおり、逞しく育っていることを喜んでほしかったんだよ。
でもせっかく先生が苦労して手術してくれた人工膀胱をダメにしてしまって、本当にごめんなさい」
謝っても謝り切れないほど大変なことをしでかしてしまった自分が情けなくて自分自身に腹が立った。
そして、ただただ、先生に申し訳なくて、僕に謝り続ける先生の顔に
「先生のせいじゃない。ごめんなさい」と叫びながらグイグイと自分の顔を擦り付けることしかできずにいた。
それを察したのか、先生は突然、顔をあげて僕の目を見た。
そして「ベア。俺は何としてでもお前を助けるからな。やるしかないんだ。ベア。ごめんな」と言った。
僕はうれしかった。
どんな状況になっても僕のことを守ろうとしてくれる先生のその思いが、なによりもうれしかった。
「先生、ありがとう。本当にありがとう」
そう思いながら先生の目を見ると、先生は
「お前は不思議な奴だな。なんだか俺の言葉がわかっているように思えて仕方ない。そして、俺にはお前の心がわかるような気がするんだよ。」と言って笑った。
あぁ、僕が大好きな先生の優しい笑顔だ。
「先生、僕は本当に幸せだよ。」
僕は再び、先生の掌に思い切りグイグイ顔を擦り付けながらそう言った。
「あはは。わかった。わかった。二人で乗り越えよう!俺もがんばるから、お前も頑張ってくれよ!」
先生は僕の想いに応えるように笑いながら自分の顔を僕の身体に擦り付けた。まるで本物の猫の親子がするように。
こうして、僕の再手術に向けた準備が始まった。
再手術は2日後と決まった。今度も僕に適合するサイズの医療物品の調達が必要だったからだ。
僕も2日間、手術に備えるため、よく食べ、よく眠った。
毎日のおしゃべりタイムだけが少し様変わりした。
手術に備えるため、先生が僕の病室にやってきてお話するパターンに戻った。
先生は僕を温かく大きな掌にのっけて、「ベアは強いな。しっかり食べて、眠って、本当にえらいぞ。手術、がんばろうな。俺は絶対、お前を助けるからな」とそう言って、僕に頬ずりしてくれる。
先生の手は本当に温かく心地いい。
「僕も今度も本気で頑張るからね」そう思いながら、僕は深い眠りに落ちていくのだった。
そして、再手術の日。
手術が始まる前、先生は僕の病室にやってきた。
手術用の格好に身を包んだ先生は、いつもとは雰囲気が違うように見える。でもそれは、格好のせいではなく、先生の顔がいつもと違ってとても険しい表情に見えたからかもしれない。
先生は僕を温かい大きな掌に乗っけた。そして
「ベア。さあ、手術だ。俺は絶対おまえを助けるからな。そして、手術が終わったら、今度こそ うちの子として、幸せに一緒に暮らそう。」
先生はそう言った。その表情は僕の大好きな先生の優しい表情に戻っていた。
僕はきっと大丈夫。先生がきっと助けてくれる。僕はそう信じて疑わなかった。
次に目覚めた時は、僕は、僕の病室に横たわっていた。
全身が重くて息苦しい。起き上がろうとしたけれど、とてもできそうにない。頭を少しだけ持ち上げることができた。
僕が頭を持ち上げたその時、院長室から僕のその姿を見つけて先生が駆け寄ってきた。
先生は今日も夜遅くまで、他のスタッフが帰ったあとも僕の様子を見守ってくれていたんだ。
「あっ。起きたのか。ベア。よくがんばったな。痛み止めは打ってあるから、痛みはないだろうが、まだしんどいはずだ。無理するなよ。大変な手術だったけれど、無事終わったぞ!本当によくがんばったぞ!さすが“ベア”だ。」と温かい大きな手で僕をさすりながら、潤んだ優しいまなざしで先生はそう言った。
「本当によくがんばったよ。ベア。手術中、何度も呼吸が止まりそうになったから俺は本当に怖かった。でも損傷したカテーテルを取り除き、今度は万全を期して、しっかりと固定できたと思うよ。なかなか手ごわい手術だったけれどな。ベア。本当にごめんな。こんなにつらい思いをさせてしまって。本当にすまない。そして、よくがんばって乗り越えてくれた!ありがとう。ベア。」
「そうか。よかった。今回も、僕、頑張って手術を乗り越えることができたんだね。先生はすごい獣医さんだ。やっぱり僕を助けてくれた。先生、僕こそ本当にごめんなさい。そして、本当にありがとう。」
そう思いながら、僕は再び、深い眠りに落ちていった。
次に目覚めた時は、僕は僕の病室に横たわっていた。
体中が重くて、息苦しくて、寒い。
頭を上げようとした途端、お腹に強く鋭い痛みを感じて僕は身を縮めた。「ドクッ!ドクッ!」
心臓の音に呼応するようにその強い痛みが体に響き渡る。
心臓の鼓動が一気に早まるのを感じる。
痛み止めが切れてきたのかもしれない。僕の失敗のせいでこうなったのだから、これくらいは我慢して、とにかく頑張って元気になるんだ。
そう思って自分を叱咤激励するけれど、心臓の鼓動の急加速に相まって、痛みの強さも増強していく。
それとともに息苦しさもどんどん増してきた。
寒い。なんだかとても寒い。
でも僕、頑張るよ!僕は「ベア」だから、強いんだ。頑張って元気になって、今度こそ、先生の「うちの子」になるんだ。
「別れの時」
突然、「よく頑張ったね。さあ、もう、還っておいで。」という声が聞こえた。
神さまの声だった。
そして、僕の身体の中でそれまでうるさいほど鳴り響いていた心臓の鼓動は、急に聞こえなくなった。
その途端、あたりが眩いばかりの光に包まれた。
そして、まっすぐ天国につづく「光の道」が目の前に広がったんだ。
僕は、ふわふわと空中に浮かびあがった。背中には羽根が生えている。
ふと下を見ると、そこには「ベア」だった頃の小さな身体が横たわっているのが見えた。
不思議なことに、さっきまでの痛みも苦しさも寒さも全く無い。そして、もう神さまのところに還る時がきたということだけが理解できた。
光の道をふわふわと進みかけた時、先生と奥さんがドアを開けて入ってくるのが見えた。
僕の術後の容体を心配して奥さんもやってきたんだ。
先生が病室の僕をのぞき込んで息絶えた僕を見つけた。
「えっ。えっ。なんで?どうして?呼吸が止まっている。イヤだ。なんでだっ?ベア!!しっかりしろ!」と先生は叫んだ。
そして僕の心臓を押したり、身体をさすったり、必死の形相で僕の心臓を動かそうとしているようだった。
それでも僕の心臓が動かないことを理解した先生は僕を抱きしめて
「ベア。ごめん。ベア。ごめん」と何度も何度も繰り返した。
「やっぱり手術が耐えられなかったんだな。すまん。ベア。でもそれしか、お前を助ける方法がなかったんだよ。すまん。ベア」
先生の涙で僕の身体がびしょびしょになるまで、先生は僕を抱きしめて、そう繰り返して泣き続けた。
そんなことはあり得ないけれど、先生の涙の温かさが、まるで光の道にいる僕に伝わるように感じた。
そう、先生は、ずっと、これまでも僕を温かく包んでくれる人だった。
「先生、違うよ。僕はもう、神さまのところに還る時が来ただけなんだ。」そう伝えてあげたかった。
「僕は先生と過ごせて幸せだったんだ。名前も本当に気に入ってた。
先生は精一杯、僕を助けようと治療してくれた。本当にありがとう。
だから、先生、泣かなくていいんだよ。僕は神さまのところに還るだけなんだから」そう伝えてあげたくなるほど、先生は打ちひしがれて、震えながら泣き叫び続けた。
「ベア。すまん。ごめん。ベア・・」
いつまでもいつまでも、先生は僕の身体を抱きしめて僕に謝り続けた。
そして、先生の叫びがようやく嗚咽に変わった頃、それまで先生のそばでその様子を見ていた奥さんが、片方の手を先生の背中にあて、もう片方の手を僕の身体に乗せて
「ベアは本当によく頑張ったね。本当に強い子だったね。ベア。よく頑張ったよ。」と言ってくれた。
奥さんの声も手も涙で震えていたけれど、とても温かくて心地よいのが伝わってくるように感じた。
先生はようやく、その奥さんの一言で僕の身体に押し付けた涙だらけの顔を離して僕にこう言ってくれた。
「うん。本当に、ベアはよく頑張ったよ。名前の通り、強い子だった。偉かったな!」と。
僕は本当に自分が誇らしくなった。
「生まれてきて、先生に出会えて、僕は幸せだったな。」そう思えた。
それから、先生は先生の涙でぐしょぐしょになった僕の身体を大切に大切に両手で包むように洗い場に連れていき温かいシャワーで身体を洗ってくれた。
その前に、僕が病気と闘った証拠とも言える身体に入っていたたくさんの管や絆創膏などを「よく頑張ったな。きれいにしてやるからな」と丁寧にすべて取り去ってくれた。
いい匂いのシャンプーで僕の身体を先生は優しく洗い流しドライヤーで濡れた身体を乾かしてくれた。
僕はきれいなふわふわの黒猫の姿に戻った。
もうその身体に戻ることはできないけれど、なんだか、とてもうれしかった。
そして先生は大切そうに、僕を抱き上げ、白いきれいな箱の中にふわふわの毛布を入れて寝かせてくれた。
でも、その間、先生はずっと「ベア。ごめんな。ごめんな」と再び泣き続けていた。先生の顔は涙でぐしょぐしょに濡れていた。
「先生、泣かなくていいんだよ。」
僕はそう叫ぶのだけれど、先生にはその声は届かなくて、先生はずっと僕を助けることができなかった自分を責め続けているように感じた。
先生はこれからもずっと、ずっと泣き続けるかもしれない。
僕はとてもそれが心配になった。先生の悲しみがあまりにも大きすぎて、僕は心配で心配で、このまま光の道を進んでいくのは後ろ髪が引かれるようで、その場から進めずにいたんだ。
その時、奥さんがきれいな花束を持って部屋に入ってきた。
色とりどりのお花がとってもきれいで、かわいいブーケのようにまとめられている。
中でも僕の金色の目と同じように光り輝くような色をした花がひときわ美しい。それを僕の枕元にそっと置いてくれた。
「ベア。きれいにしてもらって気持ちよくなったね。もう、痛い思いも苦しい思いもしなくていいんだよ。安心してゆっくりおやすみなさい。あなたへの手向けにふさわしい花をすべて摘んできたわ。ベア。私たちはあなたを誇りに思いますよ。」奥さんは僕の身体をやわらかく撫でながらそう言ってくれた。
それを見て先生は涙を拭い、「きれいだな。よくこの時期に、そんなにたくさんの花が咲いていたね。よかった。ベアも喜んでいる。」と言った。
なんだか、絶妙なタイミングで先生の涙と悲しみを奥さんが止めて和らげてくれている、それがわかって、僕は安心した。
「先生はきっと大丈夫。奥さんが先生を助けてくれる。僕が天国に還っても大丈夫だ。」そう思えた。
その時、もう一度、「もうそろそろ還っておいで」という神さまの声が聞こえた。
「先生、ありがとう。僕は先生と出会えて幸せだったよ。」
色とりどりの花束の傍らで横たわる僕をいつまでもいつまでも愛おしそうに見つめる先生にそう言い残して、僕は、天国に還っていったんだ。
第3話 https://editor.note.com/notes/n6e6622f0412e/edit/