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「縁(えにし)の使者の獣医さん」第5話


「マザー」

 僕は、今日も先生のところにやってきた。
花壇に奥さんの姿はなかったが赤色のスイトピーが輝きを放つように生き生きと咲き誇っていた。
その美しさに見とれながら、僕は、するりと病院の中に入り込んだ。

 今日も病院は大賑わいだ。先生たちも本当に忙しそうだ。
次々に飼い主さんを引き連れて、病気の動物たちがやってくる。
 病院全体が忙しい雰囲気だからなのか、入院中の動物たちも今日はなんだか、そわそわして落ち着かない様子だ。

 そんな中、玄関のドアをあけて一人の人が入ってきた。
待合室の空気が一瞬にして変わった。
 その人はまるで色とりどりのお花に身を包んだようにカラフルな身なりをしている。
深紅の髪、極彩色のワンピースとブーツに身を包み、まるで全身が虹色のオーラに包まれているようだ。大きな真っ黒のサングラスをかけ真っ赤な口紅を差した小さな口元が微笑を湛えている。
 
 グレーのプードルを連れたその人は、ゆっくりと待合室に入ってきた。 その瞬間、時間が止まったかのように病院中の動物たちが一瞬、息をのんで沈黙した。 
 そして次の瞬間、病院中の動物たちが一斉にその人に向かってしゃべり始めた。
 先ほどまでソワソワしていた入院中の病室の動物たち、飼い主さんに連れてこられている動物たち、おそらく直接その人を見ることができるはずもない2階の病室に入院している動物たちもしゃべりかけている声が聞こえる。
 待合に置かれた水槽で優雅に泳いでいたベタでさえもその人にしゃべりかけている。

 その人は、みんなから「マザー」と呼ばれていた。
みんな、口々にマザーにしゃべりかけている。
 待合で順番待ちしているコーギーは
「やあ。マザー。またお会いできて光栄です。昨日、久しぶりのお天気でお散歩の時、はしゃぎ過ぎてしまいましてね。どうも腰のヘルニアを再発させてしまったようです。痛くてね」と言っている。
 その隣で飼い主さんの膝の上のケージに入ったアメリカンショートヘアは「マザー。お噂はかねがね。お目にかかれて今日は本当にラッキーです。あたしは今日は健診。たべすぎて太り過ぎちゃって、きっと、先生にやせるように言われちゃうだろうな。おやつが好きだから、つらいわ」と言っている。
 水槽のベタは「マザー。良いところに来てくださいました。最近、餌の量が少なくてお腹が減るんですよ。もう少し量を増やしてもらえるよう言ってもらえないですかね」と必死に美しいコバルトブルーのひれを動かしながらマザーにそう訴えている。
 入院中の病室からは「今日は特に体調が悪くて。この2,3日、誰もお見舞いに来てくれなくて。だから元気出ないんです。」、「マザー、私も早く帰りたいのです。先生に伝えてもらえないでしょうか。」、「マザー、昨日、面会に来てくれたパパが『しばらく俺も手術のために入院することになってしまった。しばらく会いに来れないけれどがんばれよ。俺もがんばるからな』と言っていたんです。パパは大丈夫でしょうか」などなど、みんな口々にマザーに病状報告をしたり、入院中の寂しさを訴えていたり飼い主さんのことをマザーに相談したりしている。
 僕はしばらくの間、何が起こっているのか理解できないでいた。

 マザーはグレーのゴージャスな毛並みが美しいエレガントなプードルを連れて、ゆっくりと待合室を通り抜けながら、マザーに声をかけるすべての動物たちに瞬時に同時にメッセージを発信していく。
 「そうなのね。もう年だからはしゃぎ過ぎはよくないわよ。昨日、散歩した公園のあの階段を降りる時はこれからはゆっくり降りるようにしてね。」、「おいしい低カロリーのお菓子を先生なら教えてくれるから心配しないで。これ以上太ると、隣のわんちゃんのように腰にダメージが来るから気を付けてね」、「わかった。確かに餌の量が少ないわね。先生に言っておいてあげる」、「飼い主さんたちも大変な時期なのだから、もう少しの我慢よ。がんばろう。」などなど、まさしく瞬時に同時にみんなとお話している。
 直接、声に出してお話しているわけではない。小さく口を動かしながら呪文のような「言葉」でみんなと話している。
 それを聞いて、それぞれの動物たちは納得したり、ほっとしたり、明るい表情になったり、なんだか一斉にみんなが元気な気持ちになったのが手に取るようにわかった。

 けれど、僕は一体、何が起こっているのか、ワケが分からず、ただただその不思議な光景を見つめていた。
 そんな僕に「あら、あなたは新顔ね。というより魂のまま、ここに来れているのね。あなたは特別な子なのね」とマザーが突然、声をかけてくれた。 僕が見えるの?僕が分かるの?
あまりの驚きに何も言えない僕に対して、マザーは微笑みながら「先生が好きだから戻ってきたのね」と言った。
 なんて不思議な人だ。
「透明な魂」である僕が見えたり、僕の思いを知っていたり、一体、マザーはどういう人なんだろう。

 僕が呆気に取られている間にマザーの順番が来て、マザーとプードルが診察室に呼び込まれた。
僕はマザーの後を追うように診察室に入っていった。
 
 診察室の中でマザーは、先生とのあいさつが終わるや否や「気の毒に。ベタがお腹をすかせているようですよ」と笑いながら先生に言った。
「あっ。そうなんですね。」と驚いたように先生は言った。
「最近、水槽の汚れがひどくてペットショップの店員さんにどうしたらいいか聞いたら、餌の量を控えるようにいわれたので、最近少なくしていたのです。そうでしたか。それはかわいそうなことをしましたね。教えて頂いてありがとうございます」と先生はマザーにお礼を言った。
 僕はまたまた驚いた。
先生はマザーの口を借りた「ベタの訴え」を疑うことなく、ごくごく当たり前のように聞き入れたのだ。
 先生はマザーが動物たちと話ができるということを知っているんだと僕は確信した。
そして、僕は、ますます、マザーのことが知りたくなった。

 「ところで、今日はどうされましたか」という先生の問いにマザーは診察台の上に載せられたプードルを見ながら、それまでの微笑をかき消して悲しそうに顔色を曇らせた。
「先生、ナナの子宮がおかしいのです。3日前から急に子宮に腫瘍ができて、どんどん大きくなってきています。痛みも強く何も食べることができなくなっています。オペが必要かもしれません。」とマザーは言った。
「そうですか。オペが必要になるかどうか、とにかく検査してみましょうね」と言う先生の表情はいつになく険しかった。
 けれど「ナナ。ちょっと検査させてくれよ」とナナに話しかける先生は、いつもどおりの優しいまなざしに戻っていた。

 いろんな検査の結果、まさにマザーの言った通りだった。
「ナナの子宮には大きな腫瘍ができています。おそらく悪性のものだと思うので手術が必要だと思います。」と検査した画像やデータを指さしながら先生はそう説明した。
「やはり、そうですよね。わかりました。先生、よろしくお願いします。ナナ、ごめんなさいね。やはり手術が必要になってしまった。」とマザーは悲しそうな表情でナナの目をのぞき込むようにそう言った。
 ナナはただ黙って覚悟をきめたようにマザーの目を見つめ返していた。

 ナナの手術は2日後に決まった。
ナナは痛みがひどく、何も食べたり飲んだりできなくなっているため、そのまま入院となった。
 ナナの病室は2階だ。
僕はマザーのことが知りたくて、点滴などの治療が終わり病室で寝ているナナに話しかけに行った。
 
 ナナはお腹をかばうように丸くなって目を閉じていた。
 「大丈夫ですか?」おずおずと僕はナナに声をかけた。
 ナナは目を開けて僕を見ると「先生のおかけで、随分痛みがとれた。身体も楽になった。この3日間、痛みがひどくてつらかったから本当にうれしい。それより、さっき、ずっと見ていたね。私が診察されてた時。」と寝たままの姿勢でそう言った。
 「今、話しかけてもいいですか?マザーは不思議な人ですね。動物たちとお話できるし、しかも僕のことも見えている。マザーは、一体、どういう人なんですか?」と僕は聞いた。
 「マザーは『神のお告げの使者』なの。神さまのお告げを司る使命を与えられたシャーマン。
動物たちと話すことも魂が見えることもマザーにとっては当たり前のことなの。さっきのように、動物たちには本能的にマザーの力がわかるので人間に伝わらない自分たちの思いを必死でマザーに訴えかけてくるのよ。」
 ナナは寝ころんだまま、マザーのことをいろいろ教えてくれた。
ナナは病気じゃなければ意外とおしゃべりなのかもしれない。

 ナナはマザーを「闇の力」から守るために神さまから使命を与えられた犬だ。ナナのような神犬たちがマザーの家には15匹暮らしている。
 闇の力は、通常、人間の「心」に忍び込む。
闇に忍び込まれたその人の心には怒りや憎悪や虚無などその人の身を亡ぼすマイナスの力が生まれ増殖していく。
 マザーは、それらの人を救う「神のお告げ」を司る人だ。
それらの人を神のお告げによって救おうとすると、救われては困る闇が激しく抗い、マザーを亡き者にしようと攻撃してくる。
 マザーは絶えず闇との死闘を搔い潜って人を救っているから、マザーには絶えず命の危険が伴う。
 闇は、隙があれば神のお告げを葬り去ろうと虎視眈々とマザーに攻撃しダメージを与えようとする。
だから神さまはナナ達のような神犬をマザーのもとに遣わし、守ることを命じている。
 「ついに、私がマザーをお守りする時がきたの」
ナナはしゃべり疲れたのか、そう言いながら長く深い息を吐いて目を伏せた。
僕はそっとナナのそばを離れた。


 

「宿命の出会い」

 次の日、僕は再びナナのところにやってきた。
今日のナナは見違えるように元気になったように見える。
 輝くようなグレーの毛並みがクルクルと美しいカーブを描いていてスラリと立ち上がった姿にはエレガントな風格が漂っている。
「またやってきたのね」とナナは笑った。
「今日は調子がよさそうで安心しました」と僕が言うと、「ええ。本当にすっかり痛みも取れて調子がいい。明日は手術ができそうだと先生も喜んでくれていたわ」とナナは答えた。
「で?今日は何が聞きたいの?」とナナは言った。
 僕は、昨日の先生とマザーとの不思議な会話から、先生とマザーのことを聞きたかった。

 マザーは10年ほど前に、この地に移り住んだ。
そしてマザーは神犬たちを救い守ってくれる獣医さんを探した。
 マザーが神のお告げの使者であることを信じることができる、魂のきれいな、そして動物たちの命をこよなく愛することができる獣医さん、そんな人がマザーには必要だった。
 神犬たちはマザーを闇の攻撃から守るために自らの身体を投げ出す。
マザーに襲いかかる闇の力を自分たちが身代わりとなり、そのダメージを自分の身体に受けてゆく。
神犬たちは一夜にして眼球が真っ白になったり、失明したりすることも多く、また一夜にして重い糖尿病を発症することもある。身体のあちこちに急に腫瘍がひろがることもある。
 神犬たちは短命だ。通常の医療では起こりえないことが神犬には起こる。その現状を理解して、治療してくれる、そんな獣医さんが必要だった。
いろいろな獣医さんに出会う中で、マザーはようやく先生を見つけた。

 マザーは犬たちの健康診断のため、「マザーハウス」への往診を先生に依頼した。
それが先生とマザーとの出会いだった。
 マザーハウスには15匹の神犬のほか、マザーが神事で使う大きな大きな水晶玉やアメジスト、レッドジャスパー、ラピスラズリなどのありとあらゆるパワーストーンがごろごろと至る所に転がっていたり、たくさんの小部屋の中には仮面が壁一面に飾られている部屋もあったりする。
 先生は本当に驚いているようだった。というより気味悪がっていたのかもしれない。
 通常、マザーハウスに普通の人が入ってくることは滅多にない。
入ってくるのは「闇の力」に心と身体を蝕まれ、マザーの力と神のお告げに救いを求めにくる人だけだ。
 マザーが神のお告げによりその人を浄化する場所、それがマザーハウスだ。

 マザーのこともマザーハウスのことも何も知らない先生は、初めは、ただ、こわごわ、周囲を見渡して「なんだかすごい家ですね。いろんな物が置いてありますね」となるべく差しさわりのない言葉で心の動揺や怖れに似た思いを紛らわそうとしているようだった。 
 けれど、ひとたび、先生が神犬に向き合い診察を始めると、マザー以外、誰にも懐かぬ15匹の神犬は従順に先生に従い、されるがままになっていく。
 マザーはその光景を見てうれしそうに「先生、これからは、うちの犬たちの主治医になって下さいね」と言った。

 この出会いから1ヶ月ほどたったある日、突然、先生の奥さんからマザーに連絡が入った。
「主人からあなたのお噂を聞いております。とても不思議な方だと。非常にぶしつけで申し訳ございませんが、主人の相談に乗っていただけないでしょうか。
 実は、今朝、主人が起きたら右顔面がマヒしていて右顔面半分が垂れ下がった状態です。
病院ではベル麻痺と言われ、内服とリハビリが始まりましたが、普通のベル麻痺ではないように思います。どうか、一度、主人を診て頂けないでしょうか」というものだった。
 その日の夜、先生の奥さんが先生を連れてマザーハウスにやってきた。
先生は、奥さんがベル麻痺の事をマザーに相談しマザーハウスに先生を連れてきたことに納得がいかない気持ちを持っているようだった。
 申し訳なさそうに、けれど少し不機嫌な様子で「なんだか、妻が急にご無理を言ったようですみません」と先生はマザーにそう言った。

 「確かに、生霊ですね。最近、猫の手術とか、事故に合った猫の治療をしませんでしたか」といきなりマザーは先生にそう聞いた。
「えっ?えっ?あっ。はい。おととい、交通事故にあった猫が運び込まれて手術しましたが亡くなりました」という先生の答えが終わらないうちに「その猫の飼い主の生霊です。助けてもらえなかった思いが昂じて先生に乗っかってきたのね」とマザーは言った。
 そしてマザーは先生を水晶やレッドジャスパーなどが並べられた祭壇の前の椅子に座らせ、呪文を唱え生霊を先生から引き離す儀式を始めた。
 ほどなく呪文が祈りに変わった。
そして先生の身体から生霊は空中へと離れていった。
 その瞬間、マザーハウスのあちこちから犬の遠吠えが響きわたり、その後マザーハウスは静寂に包まれた。
 その翌日、先生の右顔面には筋力が戻り、まだ少し右のまぶたと右の口角に筋肉と神経のマヒは残っているようだが、一見するだけではマヒがあるとは思えないほど病状は回復していた。

 「こんな風にして先生とマザーの縁がつながったのよ」とナナは言った。「先生は、マザーの使命を知っているし、マザーの力をちゃんと信じて理解してくれている。先生はそれ以降、普通の医学では考えられないようなことが動物に起こった時に、マザーの力を借りたりするようになった。
 逆に、マザーハウスの神犬たちの健康管理や闇にやられた時の治療も行ってマザーを助けてくれているのよ。」とも話してくれた。
 先生は動物を守るために、マザーのように神さまから何か特別な使命と力を与えられた獣医さんなのかもしれない。
 そんな風に僕が考えた時、「魂の縁(えにし)」とナナがつぶやいた。

「縁が深いか、浅いかはそれぞれ違うけれど、魂の縁は確かに存在する。
先生は『魂の縁の使者』なの。だから、みんな、魂の縁に何かが起こった時、先生の元にやってくる。
 縁を紡ぐため、または縁を断つため、みんなこの場所に先生の元に集まってくるの。
 先生が手術した猫はもう飼い主との魂の縁を切るべき時にあった。
けれど、どんなことをしても飼い主はその猫との縁を切ろうとしなかった。 猫との縁を断たれたことを受け入れられない飼い主の念が昂じて、縁を断った先生に取り憑いてきたのでしょうね。」とナナは教えてくれた。

 その事件以来、先生とマザーは助けたり、助けられたりしながら不思議なお付き合いを今日まで続けてきているそうだ。
そんな関係だからベタがお腹をすかせているという不思議な会話が二人の間では成り立つのだ。
「魂の縁の使者」。
そうか。だから、僕も先生のところにやってきた。
先生との魂の縁を紡ぎたいから、きっと僕はやってきたんだと思う。

 先生は特別な人だ。
この病院には先生の他に獣医さんはいるが、先生の診療日には、わんさか、動物たちがやってくる。
 特に魂の縁に不具合が発生した動物はどんなに遠くの土地からでも「魂の縁の使者」の元に「飼い主を引き連れて」やってくる。
先生は魂にとって、特に動物たちにとっては、かけがえのない大切な人なんだということがナナの話でよくわかった。

「少し疲れたわ」とナナが言った。
「いよいよ明日、手術ですね。僕も成功を祈っています」と僕が言うと、昨夜と同じように「ついに、私がマザーをお守りする時がきたの」ナナは、そう言いながら長く深い息を吐いて目を伏せた。
僕はまた、そっとナナのそばを離れた。

「魂の献身」

 次の日、僕はまたナナのところにやってきた。
そろそろ手術が終わった頃だろうか。
手術は無事終わったに違いない。きっと、大丈夫だ。先生は必ずナナを助けてくれる。

 なんだか待合室が騒がしい。
きっとマザーがいるのだ。病院内の動物たちの話し声が聞こえる。
 ベタは「マザー、本当にありがとうございました。久々に昨日からはお腹がいっぱいになるくらい餌を入れてもらえるようになりました。ありがとう!」と感謝のあまりコバルトブルーのヒレで津波を起こすかと思われるほど、激しくヒレを振って喜びを体現していた。
 他の動物たちも口々に感謝や訴えや相談事を口にしていて待合室は本当ににぎやかだった。  
 今日は、マザーは待合室でナナの手術が終わるのを待っていたようだ。

 先生はマザーに、「ひとまず腫瘍は全部取り切りましたし、さっきナナの顔を見て安心してくださったと思いますが、術後の状態も落ち着いたのでもう大丈夫だと思います」と言ってマザーを送り出すところだった。
 よかった。無事、手術は終わったのだ。
先生とマザーの会話を聞いて僕は急いでナナのところに向かった。
「ナナ、無事、手術が成功してよかったですね」
喜びを伝えようと用意していたその言葉が、その瞬間、凍り付いた。

 そこには信じられない光景が広がっていた。
おびただしい量の血の海と化した病室の床にナナは横たわっていた。
 ナナは半目を開いたまま虚空を見つめ、息も絶え絶えに身体中で荒く浅い呼吸を繰り返していた。
 ナナのお腹から何かが飛び出している。
よく見るとそれは腸だった。
手術できれいに確実に縫合されたはずのお腹の傷あとから、どす黒い色をした細長い腸が力なく延びきって広がっていた。
 しかも、その腸はナナ自身の美しい四本の足によって無惨にも再起不能なほどにひどく踏み荒らされていた。
 
 その時、ナナの様子を見に看護師さんがやってきた。
「キャーッ」
 すさまじい悲鳴が病院内に響き渡った。
 1階の先生たちにも聞こえたのか、先生があわててナナの病室にやってきた。
ひとめ、この光景を見るや否や、
「なんで?何がおこったんだ。ナナ。一体、どうしたんだっ!」と先生は悲鳴にも似た声をあげた。
そして、血の海に横たわるナナの身体に何が起こったのかを理解した時、「ウソだろ?ナナ。どうして?!どうして?こんなことがあるのか」と絶望に似たうめき声をあげた。
 次の瞬間、我に返って先生は「飼い主さんを呼び戻してくれ」とスタッフに叫んだ。

 帰路についていたマザーが病院に戻ってくる間、先生はナナに蘇生処置を懸命に行っていた。
そして、すでに虫の息のナナのお腹に血を洗い流した腸を丁寧に大切に戻したところにマザーが戻ってきた。
 マザーの顔を見るなり先生は「こんなことになって申し訳ありません。信じられません。どうやらナナが先ほど手術をした縫合部から自分で腸を引き出し踏みつけたようです。ナナはもう蘇生が難しい状態になっています。」と、この異常な事態を先生自身が未だ受け入れられないまま、マザーに状況を説明した。

 マザーはただ静かにその説明を聞いていた。
そして「ナナ。本当にありがとう。もう苦しくはないよ。さあ、還ろう」
そう言って、そっとナナの顔とお腹にその手をあてた。
 突然、「よく頑張ったね。さあ、もう、還っておいで。」という声が聞こえた。
神さまの声だった。
そして、ナナの身体の中で弱々しく鳴り響いていた心臓の鼓動は急に聞こえなくなった。
 その途端、あたりが眩いばかりの光に包まれた。そして、まっすぐ天国につづく「光の道」が目の前に広がった。
ナナの魂がふわふわと空中に浮かびあがった。背中には羽根が生えている。
マザーはナナに優しく微笑みかけ、ナナもエレガントで美しい笑顔でマザーに微笑み返している。
 ナナは僕に気づいて「ついに、私がマザーをお守りする時がきたの。そして、その役目も終わった。神さまの元に還ります。」そう言ってマザーの笑顔に見送られて「光の道」を軽やかに駆け上がっていった。

 「今、お亡くなりになりました。すみませんでした。」
先生はすっかり打ちひしがれてナナの臨終をマザーに告げた。
「言い訳に聞こえるかもしれませんが手術は完璧に成功していました。簡単に縫合部が開くことはありえません。けれど、どうして、あんなことになったのか。ありえない。けれど現実にあんなことが起こってしまった。縫合部が完全に閉じられていなかったとしか原因は考えられない。すべては私のミスです。申し訳ありません。」先生は大きな体を二つ折りにするように、頭を下げたまま「申し訳ありません」の言葉を繰り返した。

 「先生。もういいのです。ごめんなさいね。先生には本当につらい思いをさせましたね。信じられないはずです。普通なら起こるはずのないことが起こったのですから。
先生の手術は完璧でした。ミスなんかは全くありませんでしたよ。
 でもね、こうなることを私はわかっていたの。きっとナナもね。
ナナは私の身代わりになってくれたのです。私に襲いかかる闇の力があまりにも大きくて、ナナが私の身代わりになってくれなければ私が死んでいたはずなのです。
 神事では信じられないことが起こるのです。そして、冷たいと思われるかもしれないけど私はナナが死んで悲しくはないのです。
 ナナは立派に使命を果たして、今、光の道を駆け上がっていった。
そして神さまに労いの言葉をかけてもらいうれしそうに微笑んでいるのが見えるからです。
 先生、先生には本当にショックだったと思います。でも先生にしか頼めない手術だったのです。どうか許してくださいね」。
マザーは打ちひしがれている先生に向かって諭すように、けれど淡々と語りかけた。

 神犬たちは短命だ。ナナは7歳。まだ若すぎる命の壮絶な最期だった。
こうして、ナナは使命を全うしてマザーを守り抜いて神さまのところに還っていったのだ。
 魂が神さまの元に還った「ナナ」の身体は、きれいにきれいにシャンプーされて、クルクルにカールした美しいグレーの毛並みに戻った。
本当にナナの毛並みは美しい。
 そして、あれほど広い範囲で飛び出していた腸もきれいにお腹の中に納められ、ナナはすやすやと眠っているかのように白い箱の中で穏やかに横たわっていた。
大切な使命を見事に果たして安心しきったような誇り高い姿だった。
 ナナの枕元には、色とりどりに咲き誇った香しい花々のブーケが添えられたことはいうまでもない。

「本当に申し訳ありませんでした」。
先生はナナの亡骸を前に、もう一度、マザーにそう言って頭を下げた。
 マザーは「先生。本当にありがとうございました。なかなか今回起こったことを、私が言うことを、そのまま受け入れることは難しいと思いますが、どうか、思い詰めたりしないでほしいのです。こうなるしか仕方がなかった、その現実を、ゆっくりでいいので受け止める努力をしてください。
 なぜなら、先生はまだまだこれから、これと同じような経験を幾度となく繰り返していく運命なのですから。それが先生の使命なのですから。」と静かにそう言った。
それはまるで「神のお告げ」のように聞こえた。

 「ほら、ナナも先生に『ありがとう』と言っています。『先生がこっそり私にくれたミルクビスケットはおいしかったよ』と言っていますよ。」マザーが笑いながらそう言うと、弾かれたように先生は顔を上げてマザーとナナの顔を交互に見比べた。
それから、一つ大きくため息をついて「それはよかった」と言って小さく笑った。

 マザーとナナが先生たちに見送られて帰っていく直前、マザーが突然、僕を見て「先生はきっとこの後もナナの事を悔やみ続けるかもしれない。けれど仕方がないことなの」と悲しそうにそうつぶやいた。
 マザーは先生を巻き込むしかなかった今回の闇の力の大きさを振り返り、自分自身を宥め、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
マザーも苦しいんだ。
「魂に関わる者たち」の宿命の厳しさがほんの少しわかったような気がした。

 その夜、僕は先生が心配で再び病院にやってきた。 
病院の中はひっそりとしていて先生の姿はなかった。
きっとお家だ。そのままお家に向かった。
やはり、先生は、夜遅く、一人で泣いていた。
「ナナ。ごめんな。助けてやれなくて。痛かったろう。つらかったろう。どうしてあんなむごいことをしなければならなかったんだ?!。あんな風にしなければマザーの身代わりになれなかったのか?!。君の使命だったのかもしれないけれど、俺は君を助けたかったよ。本当に助けたかったよ。」繰り返し、そう言って泣き続けていた。

 その時、奥さんが曳きたての珈琲の入ったマグカップを手にして部屋に入ってきた。
「おいしいコーヒーが入りましたよ」。
奥さんはそう言って、そっと先生の前に薫りたつコーヒーを置いた。
「ああ、いい香りだ。」
先生は芳しいコーヒーの薫りに誘われるように、涙をぬぐってそう言った。
 なんだか、いつも絶妙なタイミングで先生の涙と悲しみを奥さんが止めて和らげてくれている、僕はそう思って安心した。

「今、マザーと電話をしていたの。」と奥さんが言った。
「『先生には本当につらい思いをさせてしまって申し訳なかった。先生の手術は完璧だったし、ミスなんかは全くなかった』と繰り返し言ってくださっていたわ。あなたが落ち込んだり、思い詰めたりしないようにと心配してくださっていた。
 でも今回は、神事には普通では考えられないことが起こる事ということをイヤと言うほど思い知らされたわね。
 ナナのような神犬は、ただただ、純粋に忠実に神さまの使命を果たすことにひたむきに自分の命さえ掛けてやり抜いてゆく。その敬虔な想いには頭が下がる。けれど、獣医のあなたには本当につらいことだったわね」と奥さんは言った。
「ああ、そのとおりだ。俺はやっぱり獣医なんだ。マザーの言うことを理解しようと思うし、仕方のないことと思い切ることにしようとも思うが、やっぱり俺はナナを助けたかった。マザーも助けたいけれど、俺はやっぱりナナを救いたかったよ」と、こみ上げる思いをぶつけるように先生はそう言った。

 「俺は、人間も動物もその魂の価値や命の重さは同じだと思っている。動物の宿命や動物に与えられた神さまからの使命が『飼い主を守ること』であったとしても、俺は動物たちが飼い主の犠牲になるなんて、たまらないし、やるせないんだ。」先生は叫ぶようにそう言った。
「飼い主は、動物に守ってもらうのではなく、飼い主こそが物言わぬ健気な愛しい動物の想いや心を推し量って動物を守ってやる、それが飼い主としての使命だと俺は思う。どうしてナナが、せっかく助かった命を自らが絶たなきゃいけないんだ。しかも自分の腹を引き裂いて腸を引き出し自分の足であんなに踏みつけるなんて正気のさたじゃない。想像を絶する耐えがたい痛みのはずだ。耐えがたい苦しみのはずだ。到底、言葉にならないよ。」
先生は絞り出すようにそう言って頭を抱えた。
 「そのとおりだわ。私もそう思う。ナナの健気で一途な想いがあまりにも壮絶で哀れで悲しすぎる。」奥さんは先生の背中にそっと手を置いて静かにそう言った。
奥さんの目にも涙があふれていた。しばらく二人は、そのままナナを想って涙を流し続けた。
 
 僕は先生たちの想いがとてもうれしかった。
動物の心や想いをこんなにも大切に考えてくれる先生に出会えたこと、それがなによりうれしかった。
 一方で僕は先生が心配だった。
先生は言葉には出していないけれど、「手術は成功したと思っていたが完全に傷を縫合できていなかったんじゃないのか。その隙間に偶発的にナナの足先が入るきっかけを作ったのではないか。結局、ナナの最期は自分のミスだったのではないか」そんな疑心暗鬼に先生が苦しんでいるように思えた。
 
 先生のそんな思いを知ってか知らずか、ふいに奥さんが口を開いた。
「けれど、やはり、魂の領域のことは私たちにはわからない。ナナの声は、ナナの想いはマザーにしか聞こえない。だから私たちはマザーを信じるしかないんじゃないのかな。ナナが今は神さまのところに還って幸せに笑っているという言葉を信じるしかないんじゃないかな。」そう言って奥さんは深く息を吸い込んだ。
 それから奥さんは、うなだれたままの先生の横顔を見つめて
「そして、私は、あなたを信じている。手術にミスは何一つなかった。
いつもどおり、真摯に丁寧に誠実にそして確実に、あなたは手術を成功させたわ。そのことを私は固く信じているわ。」そう言った。
 先生は驚いたように顔をあげて奥さんの顔を見た。
まるで自分の心の中が見透かされているのかといったような不思議な表情だった。
「ありがとう」先生はそう言って、二人は微笑みあった。
 
 よかった。本当によかった。
僕はマザーがいうとおり、ナナの今の幸せな姿を知っている。
だから先生にはナナの最期のことで苦しんだり、自分を責めたりしてほしくなかった。
 先生がマザーのようにナナの姿が見えるなら一番いいのだけれど、それはできないことだ。
でも奥さんがいるから先生はきっと大丈夫だ。そう思えた。

第6話:https://editor.note.com/notes/n4526b7675df5/edit/


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