「縁(えにし)の使者の獣医さん」第6話
「追慕」
次の日、僕は先生のところにやってきた。
今日も花壇に奥さんの姿はなかった。
昨日は目に入らなかったけれど、藍色のアガパンサスがナナからのメッセージのように思えるほど豪奢に気高く咲き誇っていた。
その藍色に心を惹かれながら僕は病院にするりと入り込んだ。
今日の先生は、泣き腫らしたように瞼が腫れぼったい以外はいつも通りの先生だ。
「いつまでも悲しんでいる暇はない」と、まるで自分に言い聞かせるように先生は治療に没頭しているように思えた。
そんな思いに応えるように、今日も病院は大賑わいだ。
先生たちも本当に忙しそうだ。次々に飼い主さんを引き連れて、病気の動物たちがやってくる。
そんな中、おじいさんに肩を抱かれて一人のおばあさんが診察室に入ってきた。
見たところ、動物を連れずに二人はやってきたようだ。
おばあさんは少し足取りがおぼつかない様子でおじいさんにもたれかかるようにしながら診察室に入ってきた。
「先生、お忙しいのにすみません。レオが死んでしまって2週間たちます。この2週間、レオが私たちのそばにはもういないという現実を受け入れようと努力しました。けれど悲しくて悲しくて何にも手につかない。
何をしてもレオとの楽しかった生活が思い出されて、そのたびに悲しくて悲しくて、胸がはりさけそうになるのです。
夜も眠れず、もう生きていく気力がありません。」おじいさんに支えられながら倒れこむようにやっとのことで椅子に座ったおばあさんは、泣き腫らした目をふせたまま先生に消え入りそうな声でそう言った。
「妻は2週間の間に、こんなにやつれてしまって。心配しているんですが、こればっかりはどうにもしてやれなくて。レオの元気だった頃の思い出話が先生とできたら妻も少しは元気が出るんじゃないかと藁にもすがる思いでご迷惑を承知で二人でやってきたのです。」と申し訳なさそうに憔悴しきった表情でおじいさんがそう言った。
おじいさん自身も眠れていないのか、ひどく顔色も悪く見える。
僕はその二人に見覚えがあった。
半月ほど前、僕はいつものように先生のところにやってきた。
その日も病院は大賑わいだった。先生たちも本当に忙しそうにしていた。
そんな中、ちょうど、1匹のミニチュアダックスが昔、僕がいた病室に入院するところに出くわした。
その犬は相当、呼吸が苦いのか目を閉じたまま体中で息をしている感じだった。
レオは17歳の高齢犬だ。
もともとレオは今の飼い主さんたちの娘さんの犬だった。
娘さんは、以前、先生の病院で看護師さんとして働いていた人だ。
彼女が結婚のために家を出たことをきっかけに今の飼い主さんたちが引き続きレオと暮らすことになった。
おじいさんとおばあさんはレオが可愛くて可愛くてしかたなかった。
娘さんがいた時からすでに、娘さん以上に二人はレオを大切に育ててきた。 だから娘さんが嫁ぐ時も当然、レオは引き続きおじいさんたちと一緒に暮らすことになったのだ。
娘さんが動物看護師であることで、レオの健康管理は確実にされてきたため、これまでレオは大きな病気は何一つないほど元気に暮らしてきた。
ただ、レオは人間でいえば80歳。
徐々に体力が落ち食欲もおちてきた。
おじいさんたちは心配になり病院に連れてこようかどうか迷っている中、レオが咳をするようになってきた。
そのうち散歩も嫌がるようになり、しんどそうに眼を閉じてハアハアと浅くて早い呼吸をしていることが多くなった。
おじいさんは娘さんにレオを先生の病院に連れていってくれるよう頼んだ。
おじいさんは車の運転ができないので、レオの予防接種や健康管理のための通院はこれまでもいつも娘さんの役目だった。
「肺炎だろうね」深刻な顔つきで先生は彼女にそう言った。
「やっぱりそうですか」と彼女は答えた。さすが、もと動物看護師さんだ。 7年間、先生とともに働いていただけのことはある。
様々な検査結果を前に、二人の表情は非常に険しかった。
高齢で、しかも肺炎であれば治療はとても難しいものになる。おまけにレオの衰弱状態は想像以上に進んでいて、より手厚い全身状態の管理、とりわけ呼吸管理が必要な状態であると思われた。
「両親が本当に鬱になるくらい落ち込んで心配しているので、それが気がかりです。ましてや肺炎ということになると、病名を両親に伝えるのも躊躇してしまいます」と彼女は心細げにそう言った。
「とにかく入院させて熱を下げたり酸素を投与したり、できる限りの治療をしてみるよ。状態が落ち着いてくれたらいいのだけれど。」と先生は彼女にそう言った。
そして先生は、苦しそうに肩呼吸するレオの背中に手を添えて「レオ。苦しいな。俺がなんとか楽にしてやるからな!ちょっと、辛抱するんだぜ」と労わるように優しい目でレオを見つめてそう言った。
早速、レオの集中治療が始まった。
レオの肺炎が落ち着き、呼吸が楽になるようにありとあらゆる治療のあの手この手を駆使して、先生はそれから丸3日間、夜中もつきっきりで治療をしていた。
3日目には、その先生の懸命でひたむきな治療のおかげで、レオの肺炎は小康状態となった。
熱が下がり呼吸も楽になり、全身状態が落ち着いた様子に見えた。
ただ、まだ食欲が出るほどの回復状態ではないようで、昼間、看護師さんがレオにご飯をあげた時、レオはご飯に見向きもしなかった。
「やっぱり、まだ食べられないようです」と看護師さんは先生にそう報告していた。
先生は、「そうか。まだ無理なのかな」と少し悲しそうにそうつぶやいた。
だけど夜遅くになって、今度は先生自身がレオにご飯をあげようとしていた。
不思議なことに、なんだか先生はうれしそうな顔をしてイソイソとご飯の準備をしている。
そして先生はワクワクしたような顔でレオの病室に行くと
「さあ、レオ。うまいぞ!一口、食べてみろよ!」
そう言ってレオの口元にご飯を差し出した。
すると、レオがパクっと一口食べた。
そして、パクっ、もう一口食べた。そしてもう一口。
「おおっ!よかった!!なっ?!レオ!うまいだろ!!よかった。食べれるようになったんだな、お前!!よかった!よく頑張ったな!」
先生は満面の笑顔でレオが食べている姿を見つめている。
そしてその目は涙で潤んでいるようにも見えた。
今夜、先生がレオのために用意したのは、とびっきり高級で特上のスペシャルフード。ウエットフードの中でも超極上品だ。
実は先生にとっては、このフードは「切り札」なのだ。
食欲がない、けれど回復のためには、しっかりカロリーのあるものを食べたほうがよい動物のために、先生が使う「とっておきのフード」だ。
普通では滅多に処方はしないし、普通のご飯としては決して使わないフードだ。
なにせ、とても高級らしい。
とてもおいしくて、これを食べない動物は本当に弱り切った重篤な状態の動物くらいで、回復期にある動物なら必ず食べるというスゴ技のフードらしい。
このフードをレオが食べたことでレオが確実に回復してきたことが立証できた。それが先生には何よりうれしいのだ。
先生はお金のことには無頓着だ。特に動物が元気になるなら、なんだってする。
本当は、治療なんだからレオが食べたスペシャルフードだって飼い主さんの支払いになるはずだが、きっと先生はその支払いを求めずにレオが普通のご飯をしっかり食べるようになるまでスペシャルフードを食べさせ続けるはずだ。
とにかくレオさえ元気に回復すればお金などどうでもいいのだ。
それが証拠に、次の朝には先生は看護師さんに「フードはスペシャルフードにしてくれ。あれなら必ず食べるから。でも飼い主さんに請求はしなくていいから。とにかく食べるだけ食べさせてやってくれ」と指示を出していた。
先生は本当に動物のことだけを考えてくれている。全身全霊、先生は動物の味方なのだ。
一方、今朝のレオは、昨夜、先生のスペシャルフードを食べたせいか、呼吸も穏やかで身体を起こすだけの力を取り戻していた。
僕は、そっと「今日は少し身体が楽になったようでよかったですね。」とレオに話しかけた。
「ああ。先生のおかげで今日は気分がいいよ。熱もないし本当に呼吸が楽になった。ご飯も食べることができるようになったから少しは力も出てきたようだ。」とレオは教えてくれた。
レオは小さい時から動物看護師の娘さんが一緒にこの病院に連れて来て、仕事が終わるまでずっとここで過ごしていたそうだ。
先生や他の看護師さんたちと遊んだり、ご飯をもらったり、お昼寝したり、先生やスタッフのみんなと一緒に長い時間を過ごしてきた。
「とにかく、食べることができるようにまでなったのだから本当によかったですね」と僕が言うと、レオは「ふふふ」と笑った。
「あのフードは魔法のフードさ。先生の想いがぎゅっと詰まった元気の源フードだよ。あれを食べない動物は、きっといないよ」とレオが教えてくれた。
今までこの病院で長い時間を過ごしてきたレオだから知っていることがたくさんある。
先生は入院している動物たち、とくに衰弱状態から少し回復期に入った動物にはあのスペシャルフードをごちそうするのが大好きだ。
看護師さんたちから「まだご飯は食べません」と残念な報告を受けても先生はめげない。
病院が終わり、スタッフのみんなが帰ってから、ワクワクしながら、あのスペシャルフードを準備して動物に食べさせるのだ。
獣医師として動物にどれだけ食欲等の回復力が出てきているか、それを先生自身が確認する目的もあるのだろうが、それよりなにより、ただただ、その子においしいご飯を食べてもらいたいのだ。
だから、その子が一口食べた時の先生の笑顔といったら、うれしさといたわりと愛情いっぱいに満ち溢れた満面の笑顔になる。
昨夜、レオに見せた笑顔のように。
うれしくてうれしく仕方ない純粋な子どものような笑顔だ。
そして先生のその笑顔がまた動物たちにも喜びと力をあたえてくれる。
そのよい連鎖が動物をより快方に向かわせる原動力になっていく。
ただ、その反面、飼い主さんには困ったことが起こることになる。
退院後に今まで食べていたフードをあんまり食べなくなるのだ。
「ここに入院させてもらっている間はご飯もよく食べたそうですが、退院したら今までのご飯を喜んで食べなくなりました」という相談を受けて、いつも先生は「いやあ、それは環境が変わったせいでしょう。また徐々に食べてくれるようになりますよ」と苦笑いしながら誤魔化していることが多い。
飼い主さんたちは誰も、先生が動物たちにふるまう愛情たっぷりのスペシャルフードのすごさを知らないのだから仕方ない。
だから動物たちはこの病院が大好きだ。
他の病院では獣医さんに全く身体を触らせないほど吠えたてたり、怒ってしまう動物でも、なぜか先生には従う。
飼い主さんたちが不思議に思うくらいだ。
実は動物たち同士の会話や噂で先生のスペシャルフードの噂は広く伝わっているから、みんな、先生には興味津々だ。
スペシャルフードだけでなく、そもそも先生は動物たちに甘すぎる。
先生は飼い主さんたちに「あまりお菓子はあげてはいけない」と指導するのに、先生は飼い主さんやスタッフの隙を見て、おいしいと評判の動物用ミルクビスケットやら絶妙においしいはみがきガムなど、動物が喜ぶ姿を見たくて、こっそり与えては一人で喜んでいる。
だから先生に診察されるのをみんな心待ちにするのだ。
おいしいお菓子目当てで!
「動物たちはみんな、先生の愛情マジックにかかりたくて仕方ないんだよ。そういう僕も昨夜はじめて、スペシャルフードを食べてみて、先生のあの笑顔を見て、先生の愛情パワーが実感できた。やっぱり先生はすごい人だよ」とレオは心から感嘆してそう言った。
そこまで言ってから、ふいにレオは遠くを見るような目をして言った。「僕は、先生からもらったパワーで、できることなら元気になって、もう一度、おうちに帰りたい。そのために先生のところに来たんだ。無理を承知で先生を頼ってきたんだ。だって、このまま僕が死んでしまったら、おじいさんたちが壊れてしまうから」。
おじいさんたちはこれまで、レオを大切に想い育ててくれていた。
娘さんが嫁いだ頃、つまりレオが14歳になった頃から、おじいさんたちはレオに「レオが自分たちより先に天国に逝ってしまうことはわかっているけれど、本当にその時がきたら自分たちも一緒にレオとあの世に逝きたいよ」とよく言うようになった。
自分たちを信じきった健気でいたいけな澄み切った瞳でレオに見つめられると、おじいさんたちは、どんなつらいことも悲しいことも嘘のように消えゆき心が癒され満たされていくのを感じる。
朝起きてから、身支度、朝ごはん、朝のお散歩、おそうじ、おやつタイム、お昼ごはん、お昼ね&ひなたぼっこ、テレビの時間、夕方のお散歩、夕ご飯、終い支度、そして寝るまで、自分たちの視界の中にレオの姿さえあれば二人は癒され、心が落ち着くのだった。
レオがいない生活は想像するだけでも、あまりにも空虚すぎて二人とも生きる張り合いをなくしてしまいそうだと二人は思っている。
年老いた二人にもその命を終える時がまもなくやってくるだろう。
レオの命はそれ以上に早く終えることになるのは必然だ。
避けがたい必然だ。それは充分わかっている。
けれど、その運命に抗いたい気持ちが沸々と湧き上がる。
レオだけは失いたくない、その思いが日に日に二人の心を覆っていく。
レオと過ごすその日一日が穏やかで幸せであればあるほど、その叶わぬ思いは無情にも募ってしまうのだ。
おばあさんが特にそう強く思っているようだ。
夜眠る時、レオはおじいさんとおばあさんの二人のお布団の間に敷かれたレオ専用のふかふか毛布の寝床で眠っている。
最近、おばあさんが目覚めた時に、横で眠っているレオを見て「ああ。よかった。レオは今日も生きてる。」とつぶやくのをよく聞くようになった。 おばあさんが特にレオを失うことに強い不安と怖れを抱いているのをレオは日に日に強く感じるようになっていった。
「レオ、元気でいておくれよ。お前は私の心の拠りどころなんだよ。」
おばあさんはレオを膝に抱き、そっと頭をなでながらそうささやく。
レオはおじいさんたちがこんなにも自分を大切に想ってくれることをこの上なく幸せだと思っている。
反面、もし自分が死んでしまったら、おじいさんたちは大丈夫なのだろうかと心を痛めるようになった。
レオが死んだらおじいさんたちも一緒にあの世に逝きたいだなんて、とんでもないことだ。
そんな心配をしているさなか、レオは肺炎で病床についてしまったのだ。
そして、もうそこにレオの宿命の終着点が来ていることをレオ自身は感じ取っていた。
「うわあ、レオ。少し元気になったのね。起き上がれるようになって。よかった。」
レオと僕の会話は、面会にやってきた看護師の娘さんの歓喜の声で突然中断された。
うれしさと安堵で泣き出しそうな娘さんの笑顔がレオには眩しくうれしかった。
「少しは状態が落ち着いたようでよかったよ。ご飯も少しずつだが食べてくれているよ」と先生が娘さんの背後からレオを見ながら声をかけた。
「このまま、元気になってくれたらいいのだけれど」そう付け加えた先生の言葉に娘さんの表情が陰った。
「そうですよね。肺炎は手ごわいから。うちの両親がすっかり気落ちしてしまって二人とも病人のように落ち込んでしまって、レオより二人の方が危ないって感じで困ったものです」と娘さんがため息交じりにそう言った。
やはりレオが病に倒れたことでレオが心配していたとおりのことが起こっていた。
おじいさんもおばあさんもレオの病名を聞き、絶望のあまり食事もろくにのどを通らなくなり夜も眠れなくなってしまった。
夜、ひとまず床につくのだが、いつも隣ですやすやと眠っていたレオがいない現実に胸が締め付けられるようになる。
こうしている今もレオは肺炎で苦しんでいる、そして、このまま帰ってこないかもしれないと思うと、この先の人生が暗澹たるものに思えて二人は絶望の淵に追いやられたような思いに駆られているそうだ。
「今日はこれから両親のところに行って、レオの落ち着いた姿を見せてきます。この写真を見たらきっと元気になると思います。」と娘さんはレオの写真を撮って明るい声でそう言った。
レオさえこのまま元気になってくれたら。。と僕は祈るような思いでレオを見た。
レオは思い詰めたような表情でじっと娘さんと先生の話に聞き入っていた。そして、そのまま静かに目を閉じた。
その夜、先生は遅くまで病院にいた。
夜診のあとに時間外でてんかん発作を起こした急患が運び込まれ、その治療に思いのほか、時間を要したからだ。
前日まで先生はレオのために泊まり込みで3日間治療にあたっていたから、先生も随分疲れがたまっているはずだが、先生はその疲れも見せずにレオの病室にやってきた。
「レオ。今日は、ちゃんとご飯が食べられたそうだな。よかったよ」
そう言って今日は絶品と称されるミルクビスケットをうれしそうにレオに差し出した。
レオはそのビスケットを口にした。
まさに絶品!噂どおり、おいしいのだ!
先生はレオの様子をみて、もう一つ、うれしそうにビスケットを差し出した。
レオは二つ目も完食!先生も満面の笑みだ。
「なあ、レオ。お前、自分のことより飼い主さんたちのことを心配しているんじゃないのか。今日、そんな顔をしていたぞ。お前の気持ちもわかるが、まずはお前自身が肺炎を克服して長生きしてやることが一番の方法だと思うぜ。」先生はレオの心の中を見透かしたようにそう言った。
レオは黙ったまま、じっと先生の目を見つめて先生の言うことを聞いている。
「でもな、レオ。命あるものはいつかは終わる。俺もお前も、この世に生まれたものはすべてだ。その運命には抗えない。悲しいけれど。限りあるからこそ生きているうちにどれだけ一生懸命、今日を生き切るか、それが大切なことなんだよ。一緒にいられる時間をどれだけ大切に生き切るか、それがすべてなんだと思うよ。お前の飼い主さんたちもそれを受け入れてくれたら、お前の苦悩も軽減されて少しは気持ちが楽になるはずなんだが。」
先生は本当に動物の心を理解してくれている。
先生にはレオが心を痛めている要因が手に取るようにわかっているんだ。
「そうだ。明日かあさって、飼い主さんを呼んで、ひとまず元気になったお前の姿を見てもらうことにしよう。飼い主さんたちも元気でいてもらわないとな!」先生はレオにそう提案した。
レオはうれしそうに尻尾を振って先生の提案に賛成の意を表した。
僕も大いに賛成だ!僕は安心して、その場を離れた。
「魂の残り火」
次の日、僕は再びレオのところにやってきた。
なんだかレオの様子がおかしい。
昨日までと違い、レオの呼吸が荒いのだ。
レオは肩で呼吸をしながら蹲って座っていた。寝転がるより座る方が楽なのかもしれない。
レオは声をかけるのも憚られるほど苦悶の表情をうかべていた。
レオの急変に対応すべく先生たちも慌ただしく走り回っているのが見えた。
すでに酸素吸入や点滴などの治療も再開されているようで、レオの病室は集中治療室と化していた。
先生が恐れていた通り、肺炎がまた増悪したのだ。
せっかくのスペシャルフードの朝食を食べないことからレオの異変が発覚した。その時、すでにレオは再び呼吸が荒くなっていて軽度、発熱していた。肺炎の再燃だった。
先生は看護師の娘さんに連絡を入れ、彼女一人が面会にやってきた。
「やっぱり再燃ですね。せっかく先生のお陰であれだけ回復できたのに。両親も私も大喜びしていたのにショックです。」と彼女は言った。
「レオはとてもしんどそうですが、持ち直してくれるでしょうか。今日、両親を一緒に連れてくる予定でしたのに、どうしたらいいですか」と不安に声を震わせながら彼女は矢継ぎ早に質問した。
「本当に厳しい状態だと思う。レオの体力がどれだけもってくれるか。今夜がヤマかもしれない」先生は険しい表情でそう告げた。
「ううっ。」彼女は両手で顔を覆い、言葉を詰まらせこみ上げてくる悲しみの涙をとどめようとするが、後から後からとめどもなく涙があふれだしてきた。
しばらくの間、先生は彼女の涙が落ち着くのを静かに待っていた。
そして「ご両親を連れてきてあげてください。」と厳粛な口調で先生はそう告げた。
彼女が帰ってからもレオに対する懸命な治療が続けられていた。
けれど時間を追うごとにレオが衰弱していくのが傍で見ていても手に取るようにわかった。
それにつれて先生の表情もどんどん険しくなっていく。
速迫するレオの呼吸が心配で、先生がレオに顔を近づけて聴診しようとしたその時、それまで固く目を閉じていたレオが目を開いて先生を見た。
一瞬、先生とレオの視線がぶつかりあい、その後レオは再び目を固く閉じた。
先生には、もうレオの命の終着点がそこに来ているということがその時わかったようだった。
先生はその温かい大きな手でレオの身体をなでながら、「レオ、もうすぐおじいさんたちに会えるぞ。よかったな。もう少しの辛抱だぞ」とささやいた。
その時の先生は、いつもの優しいまなざしの先生に戻っていた。
夜診が始まる頃にようやく、おじいさんとおばあさんが娘さんに連れられて病院に到着した。
二人をここに連れてくるには大変な手間を要したようだ。
娘さんの疲れ切った表情からそれが容易に伺えた。
娘さんからレオ急変の報告を聞いて、二人は昨日の喜びが一転し、一挙に地獄の底に突き落とされたような絶望に打ちひしがれた。
その二人をなだめて言い含めてここまで連れてくるのに相当の時間を要したため、娘さんは到着後、「遅くなってしまってすみません」と先生に謝った。
先生はまず、彼女の労をねぎらい、そして、おじいさんたちには今のレオの状態を丁寧に説明した。
「大変厳しい状態です。今のレオは意識も朦朧としているかもしれませんが、今、会っておいて頂いた方がよいと思います。」と先生が言うと、それまで黙りこくっていたおじいさんとおばあさんが
「レオに会わせてください」と小さな声でそう言った。
その声は聞き取れそうで聞き取れないような本当にかすかな小さな声だった。
そして二人は、先生に案内されてレオの病室のある部屋に足を踏み入れた。
その瞬間、みんなが自分の目を疑った。
レオが立ち上がっていたのだ。
呼吸は荒いままだったが、尻尾を振って、おじいさんとおばあさんを見つめている。
おじいさんとおばあさんはレオに駆け寄って「レオ、レオ!お前、しんどいのに、頑張って元気な姿を見せてくれているんだね。よしよし!いい子だね。レオ。よかった。よかった。もう私たちの事もわからないかもしれないと思うと、怖くて、会いに来るのをためらっていたんだよ。ごめんね。待たせたね。でもよかった。元気だ!元気だ!いい子だね、レオ」
おじいさんとおばあさんはレオを抱きしめ、頭をなで、頬ずりし、うれしさのあまり、どうしたらよいかわからないくらい、レオを二人で抱擁した。 レオはうれしそうに、本当にうれしそうに、されるがままにまかせて尻尾を元気に振り続けていた。
その間、先生は終始、言葉を失ったままだった。
先生にはとても信じられない光景だった。
あれほど意識が混濁していたレオが立ち上がり、尻尾を振っておじいさんたちの抱擁を受けていることが。
「こんなことがあるのか」と先生は思わずつぶやいたのだった。
待合で二人の小さな声がした途端、意識が朦朧とする中でも、レオの鼓膜はそれを聞き逃すことはなかった。
その声を聞きとるや否や、レオの耳がピンと立ち上がった。
そしてレオはあらん限りの魂の残り火を燃やして、立ち上がり、尻尾まで振って二人を迎えた。
僕にはその瞬間、レオの魂の残り火が燃え出すのがはっきりと見えた。
それは痛々しいくらいに強く熱く燃え盛っていた。
しばらくの間、レオとおじいさんたちの抱擁の時間が続いた後、二人はレオに「レオ、また来るからね。早く元気になるんだよ」と言葉をかけ、先生に向かって「先生、どうか、どうか、レオをよろしくお願いいたします」と深々と二人そろって頭をさげた。
そして最後にレオに笑顔で手を振ってその部屋を出ていった。
レオは、スックと立ったままの姿でその二人の様子を見つめていた。
そして、そのまま、崩れ落ちるようにレオは倒れた。
今まで二人を見つめていた目は白目をむいて、その網膜に映すものはもはや何もなかった。
今まで二人の抱擁にうれしそうな吐息を吐き出していたその肺はもう息を吐き出すことも吸い込むこともやめてひっそりと息を止めていた。
僕にはレオの魂の残り火が揺蕩うように揺れうごきながら、小さくなっていくのが見えた。
突然、「よく頑張ったね。さあ、もう、還っておいで。」という声が聞こえた。
神さまの声だった。
そして、レオの身体の中で弱々しく鳴り響いていた心臓の鼓動は、急に聞こえなくなった。
その途端、あたりが眩いばかりの光に包まれた。そして、まっすぐ天国につづく「光の道」が目の前に広がった。
レオの魂がふわふわと空中に浮かびあがった。ナナの時と同じように背中には羽根が生えている。
レオはうれしそうに「光の道」を進みながら、僕を見て、
「僕はもう逝くよ。君も虹の橋でいつも待っているんだろう?!僕もそこでおじいさんたちを待つよ。また会おう」
そう言い残して、軽やかに「光の道」を駆け上がっていく。
「虹の橋」??虹の橋って何だろう。
僕はレオの言葉の意味がわからないまま、レオの後姿を見送った。
その時、「先生、大変です。レオが!」看護師さんがレオの異変に気付き、玄関先までおじいさんたちを見送りに出ていた先生のところに慌てふためいて走っていった。
先生は、「やっぱりか」とレオの急変を予期していたかのように言い放って、レオの病室に向かって駆け出した。
おじいさんたちも先生に続いてレオのところに駆けつけたが、目の前に静かに横たわるレオの姿に、一体、この2,3分の間に何が起こったのか理解できないといった表情で二人とも呆然と立ち尽くすのみだった。
先生はレオにはもはや蘇生処置が必要とは思っていなかった。
それよりも、レオの姿を見た瞬間、レオが満足げに微笑んでいるかのように感じた。
「レオ、よくがんばったな。お前はスゴイ奴だ。最期の力を振り絞って、おじいさんたちに心配させまいとしたんだな。本当によくがんばったな」とレオの身体を優しくなでながら、レオがおじいさんたちを愛し抜いて、燃え尽きて逝ったことを褒め称えた。
先生の目にはレオの雄姿に対する感涙が浮かんでいた。
そして「あとは俺がちゃんとするからな。安心して、ゆっくり眠れよ」とレオに優しくささやきかけた。
その頃、待合室ではある儀式が行われていた。
先生の病院では動物が亡くなるとグリーフキャンドルが待合室で静かに灯される。
その瞬間、院内は静謐(せいひつ)を湛えた異空間となる。
そしてグリーフキャンドルの厳かにゆらめく炎と香りにいざなわれて、レオの魂は更に「光の道」を駆け上がっていく。
魂は動物の体の中に宿って、心の働きをつかさどるものだ。
魂は、この世で「自分の宿命」を全うするために毎日を生き切っていく。
宿命は魂自らがひとまず選ぶことができるが、最終的にはその魂の宿命は神さまがお決めになる。
その宿命を背負い、魂はこの世に生まれ落ちる。
この世は魂の修行の場となる。与えられた宿命にいかに対峙して宿命を全うするか、それが試されることになる。
そしてその修行が終わった時、魂は神さまのもとに還ることができる。
まさにレオの魂が今、その時を迎えたのだ。
院内の動物たちは憧れに満ちた眼で、神さまのもとに還るレオの「魂の儀式」を静かに仰ぎ見上げていた。
「レオは最期にお二人を力づけるため、すべての力を出し尽くして亡くなっていったんだと思います。レオが立ち上がって尻尾を振るなんて普通では考えられない病状だったので、私も未だに信じられないくらいです。
レオはすごい子でした。お二人のことを気にかけ、お二人に最後に元気な姿を見せようと力を振り絞ったんだと思います。どうか、レオを褒めてやってください」先生は二人にレオの想いを代弁してそう言った。
二人はただただ呆然として座り込んだまま、きれいにシャンプーされて花束に埋め尽くされて横たわるレオを無言で見つめるばかりだった。
それでも先生は言葉を続けた。
「先ほどまであんなに元気なレオを見たすぐ後にレオを失ったお二人の絶望感は言葉には言い表せないほど大きいと思います。察して余りあります。けれど、現実として受け止めてやってください。レオは、お二人が壊れてしまうようなことを決して望んではいませんから」と、まるでレオがしゃべっているかのように切々と先生は二人に語り続けた。
先生はどれだけ長い時間がかかっても、二人が「わかりました」と言うまで、レオの想いを二人に伝え続けようと思っているようだった。レオとの約束を果たすためにも、先生は途中で投げ出すわけにはいかないと固く決心しているように見えた。
けれど、二人が「わかりました」という言葉を発することは無く、終始、二人とも固く口を閉ざして虚空を見つめ黙りこくったままだった。
ついに看護師の娘さんが、その時間に終止符をうつ役目を果たすために口を開いた。
「先生、これ以上、ご迷惑をおかけすることはできません。長時間ありがとうございました。レオはよくがんばったと思います。私も先生のおっしゃることに同感です。レオは両親を励ますために最期の力を振り絞って逝ったのです。レオの容態を私もずっとみてきたので、レオが立ち上がるなんて先生同様、今でも信じられない思いです。そのレオの想いは、私が両親にちゃんと理解させます。これでも動物看護師の『はしくれ』です。自分の両親の精神的なグリーフケアは私がやります。」と先生に申し出た。
「そうですね。その方がご両親の想いにもちゃんと寄り添うことができてレオの想いが伝わるに違いない。どうかよろしくお願いします。」と先生がそう答えた。
その後、来る時以上に多大な労力を費やして娘さんは両親とレオを連れて帰っていった。
黙りこくったまま、石のように固まってしまったかのような二人をつれて帰るのは、それはそれで大変な大仕事だ。
けれど、彼女は昔、きっとよい看護師さんだったと思う。
レオの気持ちを先生同様、よく理解してくれているように僕には思えた。
だから、レオの望み通り、レオのいない生活であっても二人が寂しさに押しつぶされず、元気に笑って過ごせるように、きっとサポートしてくれると僕は思った。
それよりも、僕はレオが最後に言った「虹の橋」のことが気になっていた。
「虹の橋」って何なのだろう。そこで待つ?そして、またレオと僕がその場所で会うってどういうことなんだろう。さっぱりわからなかった。
けれど、なぜだかその時、マザーの顔が思い浮かんだ。
そして、きっとマザーなら知っているはずだと思った。
いつかまたマザーには会える気がしていた。その時に聞いてみようと僕は思い、僕は病院をあとにした。
「虹の縁(えにし)」
そうだ、あの人たちだ。
今、先生を訪ねてきた憔悴しきった二人の老夫婦は、あの時のレオの飼い主さんだ。
随分、印象が違って見える。
レオが天国に還った直後は能面のような顔の印象だったが、今は心もからだも悲しみと寂しさでボロボロになっているような感じをうける。
あの時、娘さんが申し出た二人のグリーフケアは、どうやら失敗に終わったようだ。
というより、それほどに二人がレオを失った絶望と喪失感は底なし沼のように果てしなく深く暗いということを意味する。
まさにレオが「二人が壊れてしまう」と心配していたとおりのことが現実に起こっているようだ。
「お二人にとっては、本当につらい2週間でしたね。私もレオが亡くなって以降、なんだか、心にぽっかりと大きな穴が開いたようになっています。レオとは小さい頃からずっとこの病院で一緒に過ごしてきましたからね。
お二人とも随分お痩せになりましたね。顔色も悪いから体の調子もよくないのではないですか?」
先生はすっかり憔悴しきった二人を見て、二人の気持ちとこれまでの2週間の暮らしぶりが手に取るように容易に想像できるがゆえに、自分の想いを重ねながらそう言った。
あれから2週間、娘さんの誠心誠意の励ましも、慰めも、二人の心を癒すにはあまりにもレオの喪失感は大きすぎて、娘さんの努力は徒労に終わったようだった。
それどころか、日に日に二人の喪失感や絶望感は大きくなる一方だった。お葬式をあげる時はさすがに二人とも、泣きながらもレオを見送るために手を合わせ亡骸に冥福を祈ったりしていたが、レオの身体が煙になって天高く昇っていってしまってからは、特におばあさんの落ち込み様は尋常ではなかった。
おばあさんにとってレオの存在は自分の命以上に大切なものだった。
レオのあの自分を信じ切った幼気でつぶらな瞳、愛おしい寝顔、甘える時の声、おいしそうにご飯を食べる姿、快活な足音、勇ましい鳴き声、お日様のような匂い、心まで癒してくれるぬくもり、空気のようにいつもいつも風景の中に、生活の中にレオの姿、息遣い、ぬくもりが当たり前にあった。
それはこの上ない幸せだった。
けれど今はどこを探しても愛おしいレオの姿はもうない。
レオのぬくもり、息遣い、足音、鳴き声、それらがすべて消え去ってしまった。
何を見ても、何をしていても、いつもそこにいてくれたレオが、今はもういない。
どこを探しても、どうやっても、レオの姿を見たり、気配を感じたり抱きしめることは二度とできない。そう思うと呼吸ができなくなるほど胸が締め付けられる。
胸の奥の方からレオを亡くした喪失感が大きなしこりとなって、おばあさんの胸を締め付けるのだ。
切ない、苦しい、心が痛い、むなしい、さみしい、悲しい、そんな絶望ばかりがおばあさんの心に積みあがる。
「レオがいない人生なら生きている意味がない」とさえ思い込むようになっていた。
レオを失ったことで、もうおばあさんは「明日」へ向かって生きる支えを失ったように感じていた。
生きていくための気力も失い、おばあさんの魂はどんどん深く暗い底知れぬ闇の中への落ちていくようだった。
おばあさんは一日中部屋に閉じこもり、ついには食べ物さえも一口も受け付けなくなってしまった。
おじいさんも最初はおばあさん同様に打ちひしがれてはいたものの、おばあさんのふさぎ込み様がただごとではないと気が付くことによって、かろうじて正気を取り戻すことができたようだった。
おばあさんは、部屋の中、一人閉じこもってレオの写真を見てはずっと泣いている。
そして「レオ。レオ。どうしてお前はいなくなってしまったの」とレオの写真に語りかけ、リードなどレオの愛用品を抱きしめては、また嘆き悲しむのだ。
おじいさんが、ご飯を食べるように声をかけても、よいお天気だから散歩に連れ出して気晴らしさせようと声をかけても、おばあさんは首を横にふるだけ、そんな生活がこの一週間続いた。
おじいさんは、とうとう見るに見かねて娘さんに相談した。
娘さんは当初のグリーフケアが徒労に終わってしまったため、二人の事が気にはなっていたが、時の流れに二人の気持ちの整理を任せるしかないと思っていた。
だから、おじいさんからの相談を受けて、娘さんはおばあさんの状態にひどくショックを受けた。
これほど、おばあさんが憔悴しきって、ひどいふさぎ込み様になっているとは思いもよらなかったのだ。
娘さんは自分自身に対して、動物看護師でありながら、両親のグリーフケアさえもできない無力感を感じ、レオや先生や両親への罪悪感に苛まれた。
結局、レオが一番望まない状態に3人が3人とも陥ってしまっていたのだった。
彼らにとって、レオの存在はそれほど大切でかけがえのない命だった。
それを失うということは、遺された者にとってはまさに、これ以上ない過酷で残酷な人生最大の悲劇となる。
言い換えれば、ペットロスは飼い主の人生を揺るがす酷烈な試練なのかもしれない。
レオはそのことを予測していたんだと僕は思った。
そして、おじいさんたちがペットロスになって試練を乗り越えられずに「壊れてしまう」ことを何よりも怖れた。
だから最期にせめて自分の元気な姿をおじいさんたちの記憶に焼き付けておいてもらって、その姿を胸に前向きに生きてもらおうと、命の残り火を燃やして最後の力をふり絞り立ち上がったのだと僕は理解した。
そんなせっかくのレオの想いが、願いが、このままでは台無しになってしまう。僕は心配になった。
「私はなんとか正気を取り戻しましたが、妻だけでなく娘まで落ち込んでしまって。本当にどうやってこれから生きていけばいいかわからなくなりました。」とおじいさんは途方に暮れた表情でそう言いながら、一つ、深いため息をついた。
「自分たちにとって、大切な命が、かけがえのない命が消えてゆくほど、つらいことはないですね。遺されたものはただただ、オロオロと戸惑い、嘆き悲しみ、絶望の淵をさまようしかありません。
正直、今の私自身がそうなのです。
獣医である私自身ですらそうなのですから、全く情けないことです。
お二人を励ますことも慰めることも今の自分には到底できそうにありません。」と先生は、ため息交じりにそうつぶやいた。
そして、先生は大きく一つ息を吸い込んでから「けれど、レオの最期の姿を看取った以上、私にはレオとの約束を果たす責任があります」とうなだれたままの二人に重々しい口調で語りかけた。
「レオは本当にお二人を大切に想っていました。お二人の事を心から心配していました。最期の最期まで、お二人がこんなふうになってしまわないことだけを祈っていました。だからこそ、最後の力を振り絞って、立てるはずのない状態でありながら、お二人に立ち上がった元気な姿を見せて死んでいったのです。
そのレオの想いを、お二人が飼い主であるのなら、ちゃんと受け止める責任があるのです。」先生は二人を正面から見据えて淡々と二人に語りかけた。
「お二人は、こんな風に悲しみに打ちひしがれていてはダメです。それではせっかくのレオの最期の想い、最期の願いでさえも無にしてしまうことになるのです。お二人がレオを本当に愛しているのなら、お二人は前を向いて最後まで、命尽きるまで、レオのように懸命に生きていかなければなりません。」
先生は二人を見つめたまま、そう言葉を続けた。
けれど二人はうなだれたままで、先生の言葉を聞いているのかいないのか、微動だにしなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、
「レオが待っているのですよ」先生は、かすかに微笑みながらそう言った。
二人は壊れていたねじ巻きのロボットが動き出すように、ぎこちなく、ゆっくりと顔をあげて先生を見た。
二人には、先生の言っている意味がわからなかった。
不思議なものを見るような目をしてキョトンとした顔で先生を見つめている。
そんな二人に先生は一冊の絵本を差し出した。
二人はしばらくその本を手に取るかどうか迷っているようだったが、恐る恐るその絵本を手に取った。
その絵本の表紙に描かれているのは、きれいな色の大きな虹の絵だった。僕はその虹に見覚えがあった。
その虹は天国の入り口にある、あの場所にかかっている虹の絵だった。
その場所では、いつもたくさんの動物たちが元気に遊んで走り回っている。その虹を越えてしまえば「幸せの国」が待っているから早く虹を越えればいいのに、その動物たちは、ずっと、そこにいる、というより何かをずっと待っているようだった。
絵本を手に取った二人は顔を見合わせてから、ゆっくりとページをめくっていく。
1ページめくるたびに二人の目からは大粒の涙がボロボロとあふれ出す。
ボロボロ、ボロボロ。
ページをめくるたび、堰を切ったようにあふれ出す。
ボロボロ、ボロボロ。
最後のページが閉じられるまで、その涙が留まることはなかった。
1ページ進むごとに二人の身体が小刻みに震え、本を持つ手も震えだした。
けれども二人は読むのをやめることはなく、涙がポタポタッと音をたてて二人の前にある診察台に滴り落ちていることさえも気づかないまま、一心不乱に最後のページまで一気に読み進めていく。
おかげで、診察台には涙の池ができたほどだ。
先生は、震えながら涙しながら絵本を読み進めている二人の姿を静かにずっと見守っていた。
絵本を読み終えて、二人は再び、お互いの目をじっと見つめあった。
その後、おばあさんは、ぎゅっと絵本を抱きしめながら、
「先生、レオがここで待っているのですね」
と涙をぬぐうことなく、先生に向かってそう言った。
先生も目に涙をためて
「はい。レオが待っています。この虹の橋で。だから、お二人は最期まで生き抜かねばならない。しかもレオのように前向きにそれぞれの使命を果たして、最期まで心を燃やして生き抜かねばならないのです。
それができて初めて、虹の橋で待ってくれているレオに会える資格ができるのです。
だから、お二人は今のままではダメなのです。悲しみに打ちひしがれて生きていてはダメなのです。今のこの試練に負けていてはダメなのです。」と先生はまるで自分自身にも言い聞かせるかのようにそう言った。
再び、3人の間に沈黙が流れたあと、
「先生の言葉、なんだか、レオに言われているような気がします。レオが最期の力をふり絞り、あんなに私たちのために頑張ってくれたのに、私たちがこんな風ではレオが悲しみますね。実に面目ない。」とおじいさんが言った。
「レオが待ってくれているのですね。私たちが最後まで前向きに生きた先に、レオと再び会えるのですね」とおばあさんが絵本を胸に抱いたまま、そう言った。
「はい。お二人が懸命に生き抜いた先に、この虹の橋でレオは必ず待ってくれていますよ」と先生は穏やかな優しい目をして、そう答えた。
「それならば、私たちは、しっかりと前を向いてレオが待つ場所に向かって最期まで生き抜いていきます。落ち込んでいる余裕はありません。今まで落ち込んでいた分、頑張って取り戻して前に進まなくっちゃ!ねっ?おじいさん!」とおばあさんがおじいさんに向かってそう言った。
そして、3人はうれしそうな楽しそうな笑顔を浮かべ微笑みあった。
「先生、この絵本、しばらくお借りしてもよろしいですか?娘にも読ませたいので」とおじいさんが言った。
「ええ。どうぞ。彼女もつらい思いをしているはずですから、この虹の橋のことを教えてあげてください。彼女なら、きっとすぐにこのメッセージが理解できると思います。」と先生は答え、その後、二人は、しっかりとその絵本を抱きしめて、来た時とは別人のような晴れやかな顔と足取りで病院を後にした。
先生はレオとの最期の約束をちゃんと果たしたんだ。
レオが逝ったことでおじいさんたちの心にぽっかりとあいてしまった大きな底知れぬ心の闇の穴に、先生はちゃんと「虹の橋」をかけて、二人がしっかりと前をむいて生き抜くことを可能にしたのだ。
先生がちゃんとレオとの約束を果たしたことは、レオはすでに感じているのかもしれない。
すでに虹の橋にたどりついて、レオはうれしそうに元気に走り回っているのが僕には見える。
先生はやっぱり動物たちの味方だ。
レオとおじいさんたちの「魂の縁」が先生のおかげで再びつながったのだ。レオが望んだとおりに。
先生は、やっぱり「魂の縁の使者」なのだ。
そして僕は理解した。虹の橋のことを。
レオは天国の入り口にある、あの虹のことを言っていたのだ。
あの場所でレオはおじいさんたちを待っている。そして再び会えたあと、あの橋を渡り、天国で再び一緒に幸せに暮らすんだ。
先生にあの虹の橋が見えるはずがないけれど、先生はちゃんと虹の橋のことを知っている。しかも絵本まで持っている。
やはり、先生は、神さまの使命を受けた特別な人なんだと僕は思った。
第7話:https://editor.note.com/notes/n55e9bde7430d/edit/