断章 days ー 冬の散歩道ー
師走の公園は、公孫樹の葉の、分厚い絨毯で覆われていた。
この時期の公孫樹は、乾いたような、湿ったような匂いがする。
乾いた、と思う気持ちには、harvest、稔りの感触がある。
湿った、と感じるのは、実を踏み潰すときの、果肉の脂っこさと、あの鼻を衝く臭いのせいだ。
落ち葉もまた、指に摘まんで2枚を擦り合わせると脂っこく湿っている。
そこに、公孫樹という樹のエロスが宿っている。
植物のくせに、雌だの雄だの、そんな生臭い話題が出るのは、身近ではこの樹くらいではないだろうか。
東京の真冬の、快晴の真昼の、蒼穹にかかる低い陽の日差しが、踏み心地やさしい、公孫樹の葉の金色のさざ波の中で燥いでいる。
―ほら、見て、パパ。あの子、大発見するところよ!
ほどなく4歳になる娘が、20メートルほど先を歩く男の子を指さした。
よちよち歩きの、小さなその子は、公孫樹のカーペットの途中に、淡く赤い花びらの堆積に目を留めて、おそらく訝しんだのだろう。ついっと、立ち止まった。
頭上には5メートルほどの高さに、花盛りの山茶花が、こんもりと枝を広げていた。
桜であれば、散り際には、ひらひらと小止みなく花びらが舞う。
幼子の眼にも、空の枝に残る花と、地面に散り敷いた花びらとの因果を、理会するのは容易だろう。
しかし、山茶花の花は、そう都合よくタイミングよく、天から地へ、ぽとりと落ちてはくれない。
無粋な花なのだ。
男の子は、地面の紅色を目に入れたのち、頭を大きく反らして、蒼穹に架かる花枝を見た。
ゆっくりとその仕草を繰り返し、因果関係に納得したのか、しなかったのか、それとも飽きてしまったのか、またよちよちと歩きはじめた。
男の子のすぐ後ろに迫っていた娘は、
ーどうだったのかな?
という眼差しで、私を振り返った。
傍らにいた貧相な若い男が、たぶん男の子の父親だったろう。
公孫樹の絨毯に重なる山茶花の豪奢はもとより、わが子が今し「大発見」の機会に臨んでいることすら、気づく様子もない。
猫背のまま、ただ阿保面を晒して、「スマホ」をいじくっているばかりなのであった。