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上野のモノレール
月刊「鉄道模型趣味」別冊「高級モデル・ノート(1959年発行)」に、松坂屋模型部の広告が載っています。
鉄道模型は、出典不詳ながら、King of hobbyなどと称されることがあり、日本では、1970年代まで、デパートの売場と相性が良かったのです。
同書に掲載された広告31本のうち10本が、外形上はデパートの広告です。
松坂屋の広告は名刺大の小ささですが、あしらわれたイラスト、モノレールのペン画が目を引きます。
このページの他の広告には、写真はなく、絵はなく、活字ばかりだったからでもあります。
59年当時、日本に鉄道路線としてのモノレールは、上野動物園にしかありませんでした。
松坂屋は、上野広小路に東京の旗艦店があるので、その絵をアイキャッチに取り上げたのでしょう。
57年に開業した正式名称「上野懸垂線」の初代車両H型は、当時類例のなかったアルミ合金製でした。
白銀眩いボディー、高価だった曲面ガラスを奢った流線型の前頭部の、なんという美しさ。
緩やかなカーブを描く、見たこともない腕に抱かれて、優雅に宙を浮いて滑るのは、窓とサッシュだけで構成された車体。
あたかも、当時、上野動物園の付帯施設だった水族館の水槽が、そのまま、空を滑っていくかのようです。
ジュラルミンの機体を輝かせる飛行機のような、金属地肌を無塗装にした車体の採用は、東急5200型や国鉄サロ95-900(58年)より早く、連続窓は名鉄パノラマカー(61年)より早く、前頭部曲面ガラスは小田急ロマンスカーNSE(63年)に先んじていました。
なにもかもが最先端、最新鋭で、博覧会の展示品のようです。
前頭部上方に一対備えた、でんでんむしの角のような物が気になります。
終点で停止する際に、車体の衝突を回避する保安装置、緩衝器ではないでしょうか。
明治・大正時代の鉄道車両には、連結器の両側に一対の大きな丸い物体が備えられていました。あれと似た役目を、細い二本のアンテナのような棒が果たしたのだろうと思います。
上野モノレールは、遊園地のおとぎ電車めいた存在ながら、いや、だからこそ却って、あたかも未来から飛来したかのような、lunaticな、ワクワク感を湛えた乗り物でした。
後に「団塊の世代」と呼ばれた子供たちが、そこここに溢れかえり、モノレールに乗りたければ、いつだって、長い行列に並ぶ辛抱が要りました。
この車体のデザインのお手本は、情報の乏しかった時代でしたが、欧米にちらほら見かけます。
ことに、スペインのタルゴⅡ(50年)の最後尾の造形は、灯具を除けばそっくり。
銀の地肌に赤のコンビネーション、という配色もタルゴと同じです。
タルゴの流れを汲む、ドイツのVT10.5セネター(54年)や、GMのエアロトレイン(56年)もまた然り。
57年当時、よくぞ、欧米最新の流行をなぞったものだ、と思います。
カラー写真の印刷物すら、入手困難だった遠い時代のお話です。
遊園地のおとぎ電車どころではなく、地下鉄と並ぶ、将来の都市交通の主役となる可能性を秘めた存在だったからこそ、これほどの力作になったのだろうと思います。
ところで、円谷プロのウルトラマン(66年)の配色もまた、このタルゴ・上野モノレールの流れを汲むもののように思われます。
実際はどうだったのでしょうか。
モノレールH型車両は、その後、製造元の日本車両に保存されました。公式サイトを見る限りでは、理由は不明ながら、帯色は青のようです。
この車両が、現存するのかどうか、知りません。
私の記憶では、上野時代の帯色は紛れもなく赤でした。
新聞記事を検索すると、「車体は銀色窓わくを赤色塗りにしたスマートなもの(読売57年9月28日)」と、記憶を裏打ちする記事が見つかりました。
開業日12月17日の同紙夕刊は、一番乗りマニアの女優、飯田蝶子の姿があったと書いています。
お婆さん女優として印象に深い彼女は、当時60歳。
女性の鉄道ファンのパイオニアの一人として、忘れてはならない人かも知れません。
彼女は61年から10年間にわたり、東宝の「若大将シリーズ」に、主人公の祖母役としてレギュラー出演しました。
主人公の若大将、加山雄三も鉄道好きで「鉄道模型趣味」の古い定期購読者だったことを、同誌編集長が明かしています。
若大将シリーズは、64年の新幹線開業に重なっています。
祖母役の飯田蝶子と、孫息子役の加山雄三が、撮影現場で、鉄道興隆の話題に興じることがあったかも知れません。
飯田蝶子は1897年、浅草の生まれ。上野高等女学校に進み、十代で上野松坂屋に就職し、広告部に籍を置いて絵を習い、女優になる前に、その技能で生計を立てようとした時期もあったようです。
上野はいわば、彼女のふるさと。
動物園は庭のごときものだったことでしょう。
名優に、60有余年の昔、モノレールの一番乗りを堪能したあとで、古巣、松坂屋の、模型部の広告図案を描いてほしかった、と徒な妄想に止め処がありません。