オスマン帝国の興廃どの一戦にある?
こんにちは、hakuroです。
今回は、歴史チャレンジです。
オスマン帝国について考えてみたいと思います。中東は紛争が多い。そのイメージがありますが、昔々からずっとそうだった、というわけではありません。そこにはスンニ派イスラム大国として人々をまとめあげる国。その名も
巨大なオスマン帝国がありました。
ネオ・オスマン主義
現代アメリカの社会学者の中でも、オスマン帝国を復活させると中東が安定する。という説を唱えている人がいるほどです。(ネオ・オスマン主義)このネオ・オスマン主義が面白そうだったので歴史を調べています。本当に?本当に現代に適用できる?
そんな気持ちです。
たとえば、日本人が「徳川幕府の政治は優れていた。」と話すことがあります。だから、江戸時代の方式で鎖国しながらやっていった方が幸せだ。という言説さえもあります。新オスマン主義は、トルコのエルドアン大統領も自国民の誇りを取り戻してほしいという思いで言っているのではと考えていますが…。まさか、帝国を再度作りたいとは…思ってないですよね?
できるだけ、現在の紛争、ウクライナやパレスチナに触れずに話してゆけたらと思っています。
生成AIの力を借りつつも、基本となるのは以下の著書です。
とってもわかりやすいですね、お勉強のためにはこういう文体を目指すべきです。
中世オスマン帝国のイメージ
吸血鬼ドラキュラ、といえば、そのモデルとなったことで有名な、ルーマニアのヴラド・ツェペシュ。
オスマン帝国は強大で容赦がなく、他宗教に非寛容で、残忍である。
というイメージが、多くの物語の中で描かれます。気のせいかもしれません。
参考・ベルセルクのクシャーン。インド感もありますが。
それでなくとも、近年のイスラム関連ニュースによれば、野蛮で残忍なイメージはつきまとうものでしょう。
今回は、できるだけそういったイメージを忘れて読んでもらえるように意識します。
平和!大好き!
では早速、なりたちから見ていきましょう!
帝国の成立と成長 (1299年 - 1453年)
オスマン1世 (1299年 - 1326年)
オスマン1世がアナトリア半島北西部のビザンツ帝国辺境で部族を率い、周囲のトルコ系諸族を統合し、オスマン帝国を創設しました。この頃、帝国はまだ小規模な勢力でしたが、ビザンツ帝国の弱体化により次第に領土を広げました。モンゴルの傀儡政権と化していたルーム・セルジューク朝から独立を宣言しました。
オルハン1世 (1326年 - 1362年)
ブルサを占領し首都に定めました。また、ビザンツ帝国の土地を攻略しながら領土を広げます。まだ遊牧民と農民だけの集団だった先代にかわって、国家の統治機構を整えました。
ムラト1世 (1362年 - 1389年)
バルカン半島に進出し、コソボの戦いでセルビア軍を破りました。彼の統治下で帝国はバルカンとアナトリア両地域で領土を拡大しました。
バヤズィト1世 (1389年 - 1402年)
ニコポリスの戦い(1396年)でヨーロッパ諸国の連合軍に勝利し、一時的にバルカン半島での支配を強化しましたが・・・
1402年のアンカラの戦いでティムール帝国に敗北
これで、帝国は一時分裂しました。
アンカラ、現在のトルコ首都ですね。厳しい敗北です。
ムラト2世(1404年6月 - 1451年2月3日)
ヴァルナの戦い(1444)で、バルカン半島制覇間近。ハンガリーのヴァルナ十字軍を倒す。
ビザンツ帝国は、この後滅ぶが、ある時期オスマン帝国と協力しながら統治したのではないか。と思わせる箇所もある。一言では言いがたい経緯がありそうです。
帝国の再建と全盛期 (1453年 - 1606年)
メフメト2世 (1444年 - 1446年、1451年 - 1481年)
「征服王」メフメト2世は1453年にコンスタンティノープルを陥落させ、東ローマ帝国を滅ぼしました。コンスタンティノープルはイスタンブールと改称され、新たな首都となり、オスマン帝国は真の大帝国へと成長しました。
(グラド・ツェペシュと戦ったのはこの人)メフメト2世は残忍かつ狂信的と言われる一方、文学と芸術に理解を示した人物としても知られる。学芸と異文化に強い関心を持っていた。メフメトは東ローマ帝国が所蔵していたキリスト教の聖遺物を保管していたとも伝えられている。
スルタン=カリフなのなこの人から。
メフメト2世没後、ジェム、ジハンギル、バヤズィト2世によるオスマン帝国の後継者争いがありました。バタズィト2世は兄弟を倒してスルタンとなります。
しかし、バタズィト2世自身、息子たちの後継者争いに際し、セリム1世によるクーデターにより廃位することになります。これで平和な国といえるか?
いつからか、皇子たちはカフェス「籠」と呼ばれる幽閉された場所で育てられるようになるのでした。
セリム1世 (1512年 - 1520年)
父を殺して(疑惑)スルタンとなったセリム1世、
中東地域に進出し、チャルディラーンの戦い(1514)で鉄砲と大砲を多用し、サファヴィー朝ペルシャを抑え、さらに1517年にエジプト遠征。マムルーク朝を打倒しエジプト、アラビア半島、メッカ、メディナを支配下に置きました。これにより、スンニ派イスラム世界の盟主となりました。
セリム1世は「冷酷者(ヤヴズ、Yavuz)」と呼ばれましたが、文芸を愛し、詩を詠む文人としての一面もありました。ヤヴズには厳格で冷酷であるがために優れた者というニュアンスがあり、「卓越者」とも訳されるようです。
この時代が「古典期」とされます。
鉄砲強い。大砲強い。新技術こそが世界を統べる手段ですね。
スレイマン1世 (1520年 - 1566年)
「壮麗王」として知られるスレイマン1世の治世に、オスマン帝国はその最大領土を達成しました。彼の治世ではハンガリー(モハーチの戦い)、北アフリカ、メソポタミア、アラビア半島の一部などが併合され、帝国はヨーロッパ、アジア、アフリカに広がる広大な領土を有しました。また、法制度を整備し、建築、文化、教育の発展が促進され、帝国は文化的にも繁栄しました。
ヨーロッパで、神聖ローマ皇帝が「俺こそがビザンツ帝国の末裔である」と宣言することに対して、スレイマン1世はそれを滅ぼそうとウィーンを包囲。あまりの寒さに撤退しますが、第一次ウィーン包囲(1529)として記されています。
プレヴェザの海戦(1538)での勝利により、地中海での制海権も握ります。
すごいぞ!我らのオスマン帝国!
インド航路も抑えて、大航海時代なんていらないんだ!
スレイマン1世の愛妾の一人ロクセラーナ、彼女は奴隷の身分からスレイマン1世の寵愛をうけて子をたくさん成すが……。
良いキャラですね。彼女の登場から、ハレムの住人が政治軍事に口を出し始めるのです。ヴァリーデ・スルタン(スルタンの母后)と呼ばれる。セリム2世は過酷な後継者争いを生き残り、次代のスルタンとなるのでした。
衰退の始まりと不安定な時代 (1606年 - 1800年)
スレイマン1世のあと、セリム2世は、ロシアと対峙し、神聖ローマ帝国と友好関係を築き、海賊退治にキプロス島を攻めたりと、外征を控えて国内を整えていきます。
1569年に、セリム2世はフランス王シャルル9世にカピチュレーション(外交特権)を授与します。
このカピチュレーションによって、オスマン帝国がフランスの臣民にかけられる関税は5%に制限され、オスマン領内に駐在するフランス大使・領事に領事裁判権などの保護が与えられました。これが後の世界での不平等条約のもととなります。
従来スレイマンがフランス王フランソワ1世に授与したと考えられていたこのカピチュレーションは、1559年にフランソワ2世に授与されたものが最初だとする説が近年有力になっています。
レパントの海戦(1571年)の敗北
セリム2世にキプロス島を奪われたヴェネツィア共和国はキリスト圏の国々と協力してオスマン帝国艦隊をレパントで倒します。これによりオスマン帝国は地中海での動きが制限されることになります。
しかし、その後のセリム2世、その後継者ムラト3世は、大宰相ソコルとともに国の立て直しに奔走しながらも、ペルシャとの闘争にあけくれ、国が疲弊してゆくのでした。
ムラト3世の次代メフメト3世は、即位と同時に、決め事に従い、自分の兄弟を全て殺害しました。後継者争いを防ぐためですが、ひどいですね。しかし、即位式で運ばれる19体の棺の列を見て人々は嘆き悲しみ、メフメト3世自身もとても悲しんだため、この悲劇はその後二度と行われませんでした。
彼も宰相に多くの権利を委譲し、この宰相は私腹を肥やし国を疲弊させます。
また、長期にわたるハプスブルク家との闘争は、砦を取り合う争奪戦に変わっていきました。
メフメト3世の次代アフメト1世では、国が少し立ち直ります。彼は非常に幼かったので、母后キョセム・スルタンが口を出し、実権を握ろうとします。
彼はロシアのコサックと戦います。コサックたちは黒海で船を襲ったようです。
皇帝直属部隊イェニチェリによる皇帝暗殺
皇帝直属部隊イェニチェリそれはスルタン=カリフに忠誠を誓う、絶大な力を持つ集団でしたが、時のスルタンオスマン2世は、新しい時代に合わせるべく、軍の再編を検討していました。しかしそのイェニチェリによってオスマン2世は暗殺されます(1622)。
これに不満を持った将軍がアナトリア半島東側で反乱を起こし、イスタンブールは混乱におちいる、1628年まで続くのです。
第二次ウィーン包囲の失敗(1683年)大トルコ戦争の敗北
大宰相カラ=ムスタファが、若きスルタン、まだ7歳のメフメト4世の代理として15万の大軍を率いてオーストリアを攻略し、そのまま友好国であるフランスまで進むつもりでいたのですが、救援に来たポーランド王国軍と、神聖ローマ諸侯によって敗走させられました。
ここから大トルコ戦争に発展します。
ロシア帝国も、この機に乗じてクリミア・ハン国に侵攻します。
友好国であるフランス以外の多くの国が参加し、バルカン半島を攻め、フランスはフランスで、ネーデルランド、イタリアに進軍する戦争を始めています(大同盟戦争)。
カルロヴィッツ条約 (1699年)
この大トルコ戦争敗北後、オスマン帝国はハンガリーとトランシルヴァニアをオーストリアに割譲することを余儀なくされ、1699年のカルロヴィッツ条約で領土の割譲を正式に認めました。これは初めて帝国がヨーロッパに対して領土を失った条約であり、衰退の兆しとされています。
内部腐敗と改革の試み
スルタンや高官の贅沢や汚職が進行し、行政機構が弱体化していきました。一方で、帝国の衰退を食い止めるため、18世紀以降にはトルコ近代化運動(タンズィマート)や、軍事、財政改革が試みられましたが、十分な効果を上げられませんでした。この近代化運動は、
近代化運動と列強との戦争 (1800年 - 1909年)
ムハンマド・アリーの反乱 (1805年 - 1848年)
エジプトの総督ムハンマド・アリーが独立色を強め、半ば独立状態となりました。この影響で、オスマン帝国はその統治力を失い始めました。
クリミア戦争 (1853年 - 1856年)
ロシアが帝国内の正教徒保護を口実に南下政策を強め、オスマン帝国はイギリスやフランスと同盟しロシアと対峙しました。この戦争は一時的に帝国の崩壊を食い止めたものの、経済的には大きな負担となりました。
タンジマート改革 (1839年 - 1876年)
ヨーロッパの技術と制度を導入する近代化政策が行われました。司法、教育、軍事などの改革が行われました。1876年12月はミドハト憲法が成立しましたが、各地での反発や財政難により、十分な成果は得られませんでした。
アブデュルハミト2世と専制政治 (1876年 - 1909年)
アブデュルハミト2世は露土戦争 (1877年-1878年) が始まると、宰相ミドハトを追放し、1878年ミドハト憲法を停止し、再び専制政治を行いましたが、民族主義や独立運動の高まりは進行しました。
※露土戦争 は数が多いので、わかりにくいですね!
崩壊への道と第一次世界大戦 (1909年 - 1922年)
青年トルコ人革命 (1908年)
ミドハト追放とともに、憲法復活を望む者たちが運動を繰り返していたが、アブデュルハミト2世によって弾圧されていた。しかし日本が日露戦争で勝利したこと、などから、国外ではなく国内に憲政復活を目指す組織が再建されはじめるようになりました。
鎮圧に動いた兵たちさえ寝返るという状況の中、青年トルコ人革命によりアブデュルハミト2世が退位し、憲政が復活しました。しかしこれにより帝国の分裂が加速しました。中央集権派と地方分権派で分裂するなど、足並みが揃わなかったのです。
混乱の中、ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビアのバルカン同盟との、バルカン戦争(1912年 - 1913年)でバルカン半島のほとんどを失いました。
第一次世界大戦と敗北 (1914年 - 1918年)
オーストリアの皇太子がサラエボで撃たれるという事件に端を発し、第一次世界大戦がはじまります。
オスマン帝国はドイツ側に立って参戦しましたが、敗北し、セーヴル条約(1920年)で領土のほとんどを割譲することとなりました。この条約によりオスマン帝国の解体が進み、アラブ地域の多くがヨーロッパの列強の支配下に置かれました。
このときの分割が、今でも尾を引く災いのタネになっています。
サイクス・ピコ協定
第一次世界大戦中の1916年に英仏露3国が、オスマン帝国領土の分割を定めた秘密協定。アラブ人が多く住む土地を分割して支配しようと約束しました。この協定を背景に、アラブ人とユダヤ人は中東地域をめぐって激しく対立しました。ユダヤ人の土地をイスラエルに置くと約束したためです。
セーブル条約
第一次世界大戦後の1920年に連合国とオスマン帝国の間に結ばれた講和条約。サイクス・ピコ協定の背景となる条約。
アタテュルクとトルコ共和国の成立 (1922年)
ムスタファ・ケマル・アタテュルク
セーヴル条約に反発したムスタファ・ケマル・アタテュルクがトルコ独立戦争(1919年 - 1923年)を指導し、侵攻してきたギリシャ軍を打ち破り、トルコの独立を勝ち取りました。
1923年にローザンヌ条約が締結され、アナトリアと東トラキアのトルコ領が認められ、オスマン帝国は正式に解体。1923年10月29日にトルコ共和国が成立し、アタテュルクが初代大統領に就任しました。彼は政教分離や西欧化政策を導入し、現代トルコの基礎を築きました。
オスマン帝国は約600年にわたる歴史を経て、一時は3大陸に広がる広大な領土を持つ大帝国として栄えましたが、内外の圧力と改革の限界により最終的に解体されました。そして、トルコ共和国が誕生し、新たな時代が幕を開けました。
まとめ
ネオ・オスマン主義がうまくいくだろうか。
私の感想だけで言えば、ネオ・オスマン主義を推し進めることは、バルカン半島だけでも、うまくいかないと感じます。外征を繰り返して国を潤すビジネスモデルは、破綻します。
帝国の歴史を振り返っても、ローマ帝国の最後を看取ったオスマン帝国が、ローマ帝国の歴史から何も学ばずに欧米から切り取られたのは苦しいことでした。
もしも「現在の中東産油国が紛争を起こすことなく一枚岩で、スルタン=カリフ制のもと統一されていたらどうだろうか。」という想像は楽しいですが、楽しいだけの都市伝説レベルの主張でしょうね。
お読みいただきありがとうございました。
気が向いたら、この記事にもAIで挿絵を付けたいと思います。
ではまた、別の記事で。