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『 同行二人 』 (どうぎょう ににん) . 2

以前一度紹介した事があるのですが、陶工 河井寛次郎氏の詩 をここで再度紹介したいと思います。と言うのも 物を創る人は勿論のこと、あらゆる創作活動をする人、ひいてはあらゆる仕事をしている方々にとって、大変大きな示唆を与えてくれるものがある様に思われるのです。
詩を読んでもらえば誰でも分かる通り、仕事というものを二人称で表現しています。自分が仕事というものに向かい合って、そしてそれを確かに認識している、理解している、そんな表現になっているのです。しかし仕事をしているのは自分に違いありません。これこそ前回書いた『一にして二、二にして一』、『 同行二人(どうぎょうににん)』、『本来の働き』の当体の直説そのままです。そしてそれを簡単な誰にでも分かる言葉で、これ等のものについての全てを言い尽くしてくれている様に思うのです。

仕事が仕事をしてゐます
仕事は毎日元気です
出来ない事のない仕事
どんな事でも仕事はします
いやな事でも進んでします
進むことしか知らない仕事
びっくりする程力出す
知らない事のない仕事
聞けば何でも教えます
頼めば何でもはたします
仕事の一番すきなのは
苦しむ事がすきなのだ
苦しい事は仕事にまかせ
さあさ吾等は楽しみませう

河井寛次郎.(1953).『火の誓い』.「いのちの窓」.pp223.朝日新聞社.


仕事が仕事をしてゐます

私はこの言葉に学生の頃から親しんでいるのですが、考えれば考える程 不思議な表現です。と言うのも 仕事をする主体が居ないのです。仕事をしているのは自分に決まっているのに、その自分がどこにも居ないのです。仕事をしているのは誰なのでしょうか?自分ならざる者が仕事をしているのでしょうか?
この表現は、以前記事の『禅』.2「無意識裡の自覚」で書いたように、日本人の母親が日常的に使っている「ご飯ができましたよ」、「お風呂が沸きましたよ」の表現も同じで、同じように 行為の主体が居ないのです。まるで自然発生的に成ったような表現をするのです。それについての文章を抜き出してみます。

「人は毎日動き、働き、活動しているが、自分がしている行為は、同時に表面的な自分ではない『自分の中の背後にある大きな働き』がしているのだという『無意識裡の自覚』こそ「ご飯ができましたよ」と言わしている者の当体ではないでしょうか?そして人は、はっきりとは分からないまでも、何となくそれを知っている、分かっているのではないでしょうか?この『無意識裡の自覚』が多くの人の裏にあるからこそ、日本人なら誰でも無意識に使っている「お風呂が沸きましたよ」などの常套句になっているのではないかと思うのです。」

『弓と禅』の著者である、ドイツの哲学者 オイゲン.ヘリゲルが日本で師事した、弓道の世界では弓聖と言われた阿波研造氏は、矢を射る時は、自分ではなく『 それ 』が射る、と言っていたそうですが、『 それ 』とは何なのでしょう?
『 それ 』とは、表面的な自分ではない、自分の中の『本来の働き』と考えると筋が通りはしないでしょうか?
同様に河井寛次郎氏の言う『仕事が仕事をする』と言うのは
仕事をするのは自分ではあるが、同時に自分ではない。自分の中の『 本来の働き 』が働いているのだと考えると合点がいくのではないでしょうか?

ここで、これが  概念的に自分を見つめる様な静的なアプローチではなく、活活と活動する、働く、動的なものだと言う事に注目したいと思います。
さらに動的に働いている当事者でありながらも『仕事が仕事をしている』と明らかにそれを見つめ、認識している点にさらに注目すべきだと思います。彼はそれを働きながら、その働き自身を自覚しているのです。彼は主体であると同時に客体である所にこの間の問題の全ての鍵があります。ここが『一にして二、二にして一』の場であり同行二人(どうぎょうににん)の場です。

仕事は毎日元気です
できない事のない仕事
どんな事でも仕事はします
いやな事でも進んでします
進む事しか知らない仕事
びっくりする程力出す

「本来の働き」が働き出す時、それは表面的な自分から離れる時の様に思うのです。仕事を始める時、「これは大変だぞ〜」とか「どうすればいいんだろう?」、
「こんな事出来るんだろうか?」と思う事がよくあります。ところが仕事が始まってしまうと、そんな思いとは関係なく大変な作業もガンガン進め始めたり、又、そんな大変な作業が不思議と何の苦労も無く すんなり出来てしまうという様な事がよくあります。それがどうしてなのかは未だによくわかりません。とにかく自分としては、仕事に任していけば全ては良い方向に、良い結果に辿り着くと思っているのです。
それは、ひょっとすると 表面的なつまらない 自己の中の思んぱかり や 欲 や願望、作為 を離れる所から生じる、個人的なものから離れた『自ずから然り』の働きなのかもしれません。
何かをきっかけに、この自分の中の「本来の働き」の歯車が回り出すと、もう勝手に回転を始め、勝手に仕事を進めてくれる ー そんな感じがしているのです。
仕事を始め出す時とは、この「本来の働き」の歯車が回転し出すのを待つーと言う事かも知れません。これは誰でもそうでしょう、勉強や仕事に取り掛かれなくて、昔なら、とりあえず鉛筆を削り出したり、掃除を始め出したりしたのもその準備段階の行動なのでしょう。
スポーツ選手が行うルーティンというのも、結局はそんな状態に入るための準備段階と考えると合点がいくのではないでしょうか?

知らない事のない仕事
きけば何でも教えます
たのめば何でもはたします

これらの句は、まるで何でも仕事がやってくれるという様に読めます。もちろんそれで間違いは無いのですが、それは向こう側から見ての話で、こちら側から見た時、それとは別の情景が見えてきます。
別の所で河井寛次郎氏は『思いがあれば技術は後からついてくる』と言っています。これは技術が自然と身について来るという様な、自分を離れた淡々とした表現をしているのですが、そのような自然発生的なものではなく、あらゆる試行錯誤の結果なのです。
河井寛次郎氏は天才的な技術の持ち主でしたが、英国のスリップウェアーという陶器を初めて見た時 その素晴らしさに驚き、その技法の追求を始めます。そしてあらゆる試行錯誤の結果 その技法を身につけます。その過程を表した文章が残っていますが、それを読むといかに情熱を持ってその技法を追求したかが分かります。
河井寛次郎氏の言っているのは、強い思いがあったならば、それはどんな事をしてでもそれを表現する手段、技術を見つけ出さずにはおかないーという強い意味と捉えるべきでしょう。それを向こう側から見ると「知らない事のない仕事」「きけば何でも教えます」「たのめば何でもはたします」となるのではないでしょうか?
聞くのも尋ねるのも教えるのも実は自分なのです。これを表面的な自分と自分の中の「本来の働き」との会話と捉えると、このあたりの実相が見えてくるように思うのです。同行二人(どうぎょうににん)の真面目がここに表れています。

仕事の一番すきなのは
くるしむ事がすきなのだ
苦しい事は仕事にまかせ
さあさ吾等は楽しみませう

これは、苦しい事を逃れた楽しいばかりの所では無い事に留意しなければなりません。それは苦しい事をやっているのも、楽しんでいるのも同時に自分という事です。以前に書いた、良寛の言葉の「災難に逢う時節は災難に逢うがよく候、これはこれ災難を逃るる妙法にて候」と同様で、災難に逢っているのも逃れているのも同時であり、かつ 同じ自分なのです。苦しみと楽しみ、災難に逢うのと逃れる、この絶対的に矛盾なものが そのまま同存する所の場、これを鈴木大拙氏『即非』西田幾多郎氏は『絶対矛盾的自己同一』と呼んでいます。『一にして二、二にして一』の場です。「同行二人」(どうぎょうににん)」の場です。ここにして初めて本当の自由が得られると言います。どちらかだけでは常に反対の存在に対する相対的なものでしかなく、苦しみから逃れた楽しみだけでは常に苦しみの影を意識した状態から離れられない事になります。ここで何かしら、両端を離れた、いつもの自分を離れた状態を経験しなければなりません。

しかし、私はこれが何か特別なものであり、偉大な人物にしか得られないーと言った特殊なものでは無い様に思えるのです。誰でもやっている、経験している当たり前のことだとさえ思っているのです。
今、家内はピアノでベートーヴェンの大曲を毎日必死で練習していますが、「指は動かないし、間違ってばかりで頭にくる!」と言いながら、別に発表会があるわけでも、人に聴かせる予定がある訳でも無いのにずっと何か月も弾き続けているのです。「それでも弾くんだ?」と聞くと「楽しいんだ!」との返事。こんな身近な所にも「同行二人」(どうぎょうににん)」の働きを垣間見る事ができるように思っているのです。

しかし、どうして苦しみの中から歓びが出てくるのか?それは今の私にはよく分かりません。ここから歓びが出て来るという事実より他はよく分からないのです。
しかし、どうもこれがあるから今までずっと続けて来れたように思います。そしてこれは誰でも同じでしょう。他のものでは代えられない歓びがあるから続けられているのではないでしょうか?



これまでの河井寛次郎氏の詩の中に読めるもの(自分でやっていながら、同時にやっているのは自分では無い、自分の中の背後にある大きな働きがしている)ーと言う所、これを昔ながらの表現を使えば、他力と言う事も出来るかもしれません。民藝運動の中心的人物であり、河井寛次郎氏の盟友であった柳宗悦氏は、河井寛次郎氏に『作家における他力の道』を創ってもらえないものかーと考えていたそうですが、この言葉は河井寛次郎氏の仕事の全てを貫く言葉のような気がするのです。



仕事をして行くと、私の様な才能の無い者は進んで行くたびに、あらゆる障害に突き当たります。その都度 その障害を乗り越えようと奮闘する事になります。そのたびに「こうしたらどうか?」「ああしたらどうだ?」「さあどうする?」と時事刻々、自分との真剣な、中々に厳しい質疑応答をしなければなりませんが、その刻苦の中での切羽詰まった所の混沌とした、訳の分からない所から出てくる『本来の働き』、これが自分の仕事をしているものの正体だと思っています。
しかし、さらにはこの働きは、特別な状態から出て来るものでも、特別な物でも無く、誰でも持っている、経験している、現実に毎日行っている所の日常茶飯底のものに違いないと信じているのです。


本当の悟りというのは、(中略)日々我々が何のことなしに動いている、働いている、行動してをるという所にあらわれてくる。(中略)動いてをる所に、ものをいうてをる所に、どうしてゐる所に、こうしてゐる所に悟りなるものが動いてをる。

鈴木大拙.(1970).『鈴木大拙全集第20巻』.「叩けよ開かれん」.pp.93.岩波書店.

例え小さい質であっても自質を體得し其質より起る聲を純に發するならば、質は小さくとも質のいゝ畫が其處には現はれるに相違ない。或種の人の云う様に、繪の眞などゝ云ふものが何か特種の深い、高い、遠いところに横はってでも居る様には思へない、眞と云ふ様な感じの境地只其事丈ならば極めて平凡な何處にでもあるものとしか思へない。

坂本繁二郎.(1970).『坂本繁二郎文集』.「畫の質」.pp.105.中央公論社.


鈴木大拙
氏はある所で『人は、どうもこの世には本当のものがあるらしいーと知っただけで、この厳しい人生を生き抜く事ができる。』と言っています。
先人の心に残った数々の文章を紹介する事で、その一助にでもなれたら幸いです。


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