
業務連絡
雨が降っている。
市営バス運転手の狩野清次郎は、いつもどおり、駅から営業所までの道を運転していた。
田舎の夜は街灯もなく、ただバスの光だけが道を照らしていた。
5つ目のバス停に人影が見えた。
乗ってきたのは老婆だった。
こんな夜遅くにバスを利用する人は珍しかった。ついつい老婆に声をかけた。
「おばあちゃん、どうしたのこんな夜中に、何か用事かい?」
最近は老人が徘徊して、家に帰れなくなってしまう事件もある。老婆がある程度の目的があるなら、きっと大丈夫だろうと狩野は考えた。
「あぁ、人に会いに行くんだ」
「こんな夜中にかい?」
「そうさ、会いたいって言うから会いに行かなきゃかわいそうだろう」
「うーん。それにしたって遅い時間だから心配だなぁ」
老婆は口を大きく開けて笑った。
「心配されても、ワシは行く。めったにないことだからな。あの人がワシを呼ぶなんて」
「そうかい。どこまで行くんだい」
「南夜光の灯台までさ。あの人が呼ぶところはいつもあそこしかない」
「このバスは営業所行きで南夜光まで行かないんです。今夜はもうバスもない。諦めて帰りな」
狩野はこれで老婆も諦めて帰るだろうと思っていた。実際に狩野のバス以降にもうバスはない。しかし、狩野の言葉に老婆はひるまなかった。
「そうかい。なら、あんたが南夜光まで送ってくれよ」
「何言ってんだ。ダイヤってもんがあるんだよ。おばあちゃんひとりのために変えられないの。降りてくれ」
「ワシは後先ないんだ。老婆の頼みを少し聞いても罰は当たらないと思うがね。じゃあ、もしこの先に誰も乗ってこなかったら、ワシを南夜光まで乗せてくれよ」
狩野はこれ以上話を続けても無意味だと思った。それにここで乗せなければ、歩いてでも行きそうな雰囲気に押されてしまった。
「ハイハイ。もうわかった。乗ってくれ。」
老婆は満足したように、歯を見せて笑った。
「ありがとう」
狩野は何故こんな夜中にそんなに必死になって南夜光に行きたがるのか気になった。ミラーに映る老婆と目があった。
「何だい。何か言いたいことがあるなら言っておきな。こんな年寄り、いつ死ぬかわからんぞ」
「おばあちゃんは何でそんな遅くに必死に南夜光に行きたがるんだい?明日じゃだめなのかい」
「あぁ、もう後悔したくないからな。ワシはあの人を待たせすぎた」
「あの人って言うと旦那さんかなんかかい?」
「近いもんだといいがね。そんな甘い関係じゃないよ」
ふうん、狩野は生返事をした。少しロマンティックだと思った。南夜光は夜景が綺麗な名所の1つである。そんなところで待ち合わせとは、どこかドラマのラストシーンのようである。
「おばあちゃん、お名前なんていうの」
「名前なんて聞いてどうするんだい」
「無断で進路を変えるのは厄介なんだ。一応報告しないと」
「あんたも真面目だねぇ。大森春子だよ。覚えときな」
「大森さん。まだ南夜光までは時間がかかる。その人との話聞かせてよ」
「別に大した話じゃないよ」
「眠気覚ましにさ」
狩野がそう言うと、大森は笑って話し始めた。
「ワシの家は代々旅館を経営していてな。ワシが16の時にあの人と出会ったんだ。ワシより4つ年上で板前としてやって来たんだ。」
「へぇ、板前ねぇ。」
「あぁ、仕事はうまかったけど人間関係はからっきし駄目な人だったなぁ」
「出会ったばっかりのとき、あの人には彼女がいてね。仕事優先のあの人に怒って、彼女が宿に来たこともあった」
狩野が笑うと、「笑いごとじゃなかったんだぞ。あのときは」と大森も笑いだした。
「でもね、仕事一本で不器用なところが好きになっちゃったんだなぁ。」
「かわいいね。」
「若さゆえさ」
「大森さんは好きになってどうしたんだい?猛アタックしたの?」
「そんなことできなかったさ。もしあの時ワシが積極的だったらもっと違ったことになったかもしれないね」
「まあそれでも運よくあの人と恋仲にはなったんだがね」
狩野がヒューと口笛を吹くと、大森は「夜に口笛を吹いたら蛇が出るよ」と注意した。
「なんだかんだアプローチはしたんじゃないか」
「ワシはただ遠くから見つめることしかできなかったよ」
「またまた、でも、関係性は順調に進んでるんだね。」
「旅館が廃れてきてね。旅館の場所に別の建物を建てたいって会社が出てきてね。」
「その会社の息子が視察のときに、ワシに惚れたらしくてな」
「若い頃は綺麗だったんですね」
「あぁ若い頃はねえ、それでその息子と結婚すれば、旅館を商業施設に組み込む形で残すことって話になったんだ」
「それでワシはその話に応じた」
「板前さんがいたのに?」
「あの人がいたからこそ、あの人の居場所を失うようなことはできなかったんだ。あの人はあそこしか居場所がなかったんだからな。あの人だって、そのほうが幸せだと言ったんだ」
「形だけの結婚式が終わってから、あの人から手紙が来たんだ。南夜光で待ってるとな」
「ロマンティックだね」
「あの人は不器用で、無骨なのにそういうところはロマンティックなんだよ。」
「じゃあ思い出の場所なんですね」
「ワシはあの日あの人のところには行けなかった」
「なんで」
「旦那が止めたんだ。結婚式の日に他の男のところに行くっていうのはどういうことだってな」
「うーん」
「結局、約束は果たせなかった」
「その後、板前さんとはどうなったんです?」
「あの後、あの人はいなくなってね」
「仕事場にも来なくなった。部屋に荷物を残したままね。ああ、もう南夜光だね」
狩野がバス停に停めると、大森はバスを降りた。
もう雨は止んでいた。草木に雨粒が光ってイルミネーションのようだった。
「迷惑かけたね」
「本当ですよ。でもお話聞けて良かったです。ドラマみたいでしたね」
「そんな綺麗なもんじゃないよ」
「あの人はここで身投げしたんだ」
狩野が言葉を失っていると、大森は歯を見せて笑った。
「運転手さん。惚れたほうが責任を持たなきゃいけないだ。ワシは約束を破って、のうのうと70年も生きてしまった。あの人が待っている」
狩野はバスから降りて、大森を引き留めようとした。
◎
「…かの…狩野さーん、起きてください」
「うーん」
狩野が目を覚ますと、そこは営業所だった。
「あれ」
「あれじゃないですよ。営業所ついてから報告もなしにバスで寝るって職務怠慢問題ですよ。」
事務の桃井さんが頬を膨らませている。
「すみません」
「早く、報告しに行ってください。」
急かされて、営業所に入るとラジオが着いていた。
「狩野、おはよう。昨日の報告していってから帰ってくれな。」
「すみません。」
狩野が報告書を書いていると、聞き覚えのある名前が耳に入った。
『新宿区で行方不明事件が発生しました。先週から大森春子さんが行方不明になっています。大森さんは先週東京の老人ホームから抜け出したことがわかっており、交通機関を使ってどこかに移動している可能性があります。』
「徘徊かねえ。老人ホームにいても、そんなことが起こるんじゃあ大変だな」
「そうですね」
狩野は震える手で報告を書き始めた。