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"もう一つの利根川"物語
千葉県我孫子市布佐から、利根川の栄橋を渡ると茨城県北相馬郡利根町に入る。
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そのまま県道を北上して龍ケ崎方面に向かうと、程なくしてこのような名前の川が現れる。
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新利根川…別な読み方があるわけではなく、紛れもなく"しんとねがわ"である。
新しい利根川と大胆にも名乗っている以上、どれだけ立派な川かと思ったら…
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近所の川のほうがよほど立派だぞと思わず突っ込んでしまう小さな川…
この川がなぜ「新」利根川なのだろう
ずっと前からそう思いながら、結局何もせずただこの川を渡ること無数。
そしてようやく調べた結果、意外な事実がわかった。
この川はある目的のために作られた人工の川である。
人工の川はまあ全国に普通に存在する。
しかし"新利根川"というネーミングはやはり只事ではない。
そもそもこの川はなぜ新利根川と呼ばれるのか。
その川が作られた裏側には、あるとんでもない"大計画"があった。
さて舞台は新利根川と全く関係ない場所に移る。
守谷市"がまんの渡し場跡"
利根川と鬼怒川の合流点近くにある。
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利根川はかつて今の埼玉県東部を流れて江戸の近くで海に注いでいた。
徳川家康が銚子に流れるように瀬替えしたことはよく知られている。(利根川東遷事業は家康の死後に開始されたという説もある)
ただしここに家康が来た1615年頃はまだ利根川と常陸川(今の千葉県茨城県境の利根川部分の前身)が繋がっていなかったため、常陸川の一部であり、鬼怒川もここにはなかった。
狩の帰りに川が増水したが、家康は船頭に"がまんして渡れ"と無理やり渡ってしまったと伝えられる。
家康は自分が命じたとされる利根川東遷事業の完成を見ずに世を去ったが、もし生きていたらその変貌ぶりに驚いたかもしれない。
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家康の利根川東遷工事をきっかけに、関東平野の多くの河川は大規模に流れを変えられた。
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(奥が江戸川、手前が利根川)
利根川東遷前までほぼ江戸川のルートで渡良瀬川(太日川)が江戸湾に向かって流れていた
たとえばかつて利根川と合流していた荒川が、1629(寛永6)年に入間川と合流するように瀬替えされたのはよく知られる。(下流は隅田川)
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元来は入間川の下流部だが江戸時代から荒川の本流とされた
小貝川と途中で合流して一緒に流れていた鬼怒川が、小貝川と完全に分離したのは同じ1629(寛永6)年で、この時に鬼怒川はがまんの渡し付近で利根川(当時は常陸川)と合流するようになった。
(小貝川の歴史は下記参照)
現在、栄橋がある茨城県利根町布川と千葉県我孫子市布佐の間を開鑿して、常陸川(今の利根川の前身)を通したのは1630(寛永7)年、同時に小貝川も今の龍ケ崎市高須町で大きく流れを変えて羽根野地区を経由し、現在の合流地点に流れを変えさせられた。
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左側は布川地区
この辺りも人工的に作られた流路である
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本来は写真右側の車の先にみえる田園を流れていたが
江戸時代にこの付近でむりやり曲げた
江戸幕府の利根川東遷事業は江戸を水害から守るなど様々な理由が述べられているが、やはり一番の目的は"新田開発"だった。利根川下流、今の茨城県稲敷郡河内町から稲敷市、千葉県香取市などに十六島と呼ばれる広大な新田が造られている。
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(茨城県稲敷郡河内町)
利根川東遷事業は大規模だったことから、家康一代では終わらず、孫の家光の時代である1654(承応3)年に一応完成をみる。
しかしその後すぐに、大きな開発可能地を幕府は見つけてしまった。
江戸に近い広大な天然の沼である下総国の手賀沼と印旛沼。
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現在は干拓により2つに分けられている
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この2つの沼を干拓したら広大な水田地帯が出来上がる。今の千葉県北部にあたる下総国はさらに豊かになるだろう。(もちろん幕府の収入も増える)
手賀沼も印旛沼も今より遥かに広く、現代においてもこの規模の沼ふたつを同時に干拓するとしたら大事業である。
というわけで、当時としては相当野心的な手賀沼、印旛沼の干拓計画が持ち上がり、両沼の水を抜くためにせっかく作った利根川をまた移す必要が出てきた。
だから新しい利根川本流の起点は、手賀沼と利根川の合流点より上流にしないといけない。
冒頭の栄橋付近はちょうど高台が両岸から迫り、今でも利根川下流域ではもっとも川幅が狭い。
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1630(寛永7)年にここへ前身の常陸川の流れを変えた
全長273m
同じ利根川の前後の橋が500mを超えることを考えると
川幅がかなり狭いことがわかる
裏を返せば堰き止めしやすい場所なので、利根川本流を今の栄橋手前で塞いで流れを変えることにした。
新しい利根川本流は、今の利根町押付新田の小貝川合流点を起点に、稲敷市内で霞ヶ浦に注ぐ約30kmのルートで1662(寛文2)年に起工、1666(寛文6)年に完成した。
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(茨城県北相馬郡利根町)
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新利根川は右側の湿地帯に埋もれる
左奥に利根川(小貝川合流点付近)の堤防がみえる
現在分岐点付近は流れが変わり昔の姿は見られない
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稲敷市上須田の新利根川大橋より
水門の向こう側が霞ヶ浦
しかし、沼沢地を結んで作ったため浅く、さらに真っ直ぐ作ったため、流れが早くて船が遡れない有様だった。
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真っ直ぐに流れていることがわかる
また、新しく川を引いたためこの辺りは水害が起こるようになってしまう。
一方、肝心の手賀沼印旛沼の水位は下がらず、干拓は失敗に終わった。
新しい利根川を作ってみたものの、これでは完全な失敗というしかない。
結局、1669(寛文9)年小貝川利根川合流点側を塞いで流れを止めてしまい、元の河道に本流を戻すことになった。
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(稲敷市上須田)
その間僅か3年。
そうこの川が利根川だったのはたった3年しかなかったのだ。
三日天下の明智光秀よりはマシだけど、束の間の利根川本流であった。
"新"利根川という名前が相応しくないほど、もう本来の目的で使われなくなった古い川、それがこの川の正体である。
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ほぼ自然に埋め立てられ湿地化している
新利根川のその後は1670(寛文10)年に灌漑用水として再利用され、今に至る。
起点は当初小貝川羽根野に水門を設置、江戸時代後期に小貝川豊田堰に変えられた。
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左側が利根町羽根野地区
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現在の新利根川は利根町内では自然に埋め立てが進み大半が湿地帯に、ところどころ沼のようにかつての川の一部が見えるだけになっている。
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時々新利根川の"名残"が見られる
稲敷郡河内町以東は川幅が広がり、往時を偲ばせる。
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かつての利根川本流だったころを偲ばせる
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新利根川はほぼ直線で国道125号のすぐ傍を流れる
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江戸時代の土木技術はまだ未熟であり、特に平野部は高低差僅か数十センチのミスでも致命的なので、工事は困難をきわめた。
また干拓事業も平野部の沼沢では、水をうまく排出できる方法が確立していなかった。そのためここ以外にもたくさんの失敗を重ねてきた。
新利根川の場合、急いで作ったために水深が十分でない上、直線に流れるようにしてしまった。
川が曲がりくねっているのには理由があるのだが、それすら無視したのが長く使われなかった理由である。
ただ直線の水路は灌漑には向いているため、灌漑用水として長い余生を送ることになった。