牛久沼と女城主
○牛久沼のほとりに女城主がいた!
牛久沼周辺には多くの城址が残る。最大の城は牛久沼の北東岸にある牛久城である。
戦国時代末期、牛久城周辺は関東制覇をもくろむ小田原の北条氏と反北条勢力の激戦地であった。
北条方の岡見氏が牛久城に拠点を置き、反北条方の多賀谷氏が攻めて来た。その戦いは20年に渡り断続的に続いた。(1570年〜90年)
上の写真で紹介されているうち、八崎城だけが反北条方の城になる。
北条氏が滅び、関東の戦乱が収まったとき、牛久城に女城主が誕生した。
妙印尼(みょういんに)、由良国繁の母である。
しかも天下人豊臣秀吉が城主として任命している。
いったい彼女はなぜ城主になったのだろうか?
新田金山城(群馬県太田市)を本拠とする由良氏は、もともと今の群馬県東毛地方を支配していた若松氏の家宰で横瀬氏を名乗っていたが、国繁の父成繁のときに、若松氏から自立し由良氏を名乗った。
その由良成繁に赤井氏から嫁いだのが妙印尼(本名は輝子という説もあるが根拠が薄いため、便宜上出家後の名とする)である。父は赤井重秀(館林城主)または赤井家堅と言われる。(※)
○上州かかあ天下は戦国時代から?
上州は関東内陸の要である。北は越後の上杉、西は武田、南は北条、東からは反北条勢力の佐竹がやってきて、度々争いを起こしていた。
由良氏も北条勢力、反北条勢力が入り乱れる中で巧みに動く。上杉謙信にも度々攻められたが堅城として知られる金山城で守り切った。
北条氏と上杉氏の越相同盟の仲介も果たすなど小勢力ながら存在感を示した。
しかし、由良国繁(金山)と弟の長尾顕長(館林)の代になると親北条勢力となりながら、一方で反北条勢力の盟主常陸の佐竹義重とも連絡を取っていた。
この信頼できない兄弟を、北条氏直は騙して呼び出し小田原に監禁してしまい、名将北条氏照を派遣して金山城を攻撃させる。(1584年)
この時、妙印尼は71歳だったが金山城に三千の兵ととも籠城して自ら指揮をとり北条軍と戦った。
息子達を磔にすると脅された時には、敵に大砲を放ったという逸話が残る。攻めあぐんだ北条側は講和に応じて、金山城、館林城2城を北条氏に明け渡すかわりに、由良国繁と長尾顕長が解放された。
居城を失った由良国繁は桐生城に、長尾顕長は足利城に入り、1587年にはついに佐竹氏ら反北条勢力と組んで北条氏直に対抗するが翌年敗北して降伏、2人とも再び小田原城に連行されてしまう。
1590年、豊臣秀吉の小田原の役では、由良国繁と長尾顕長は北条軍に協力を強いられ秀吉と戦うことになった。
この時、桐生にいた妙印尼は、国繁の子貞繁を由良氏の当主とすると、77歳の高齢にも関わらず自ら軍勢を率いて、秀吉が派遣した北国軍(前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら)に参加し松井田城ほかで北条勢力と戦う。その戦いぶりは前田利家が「古今無双の後家」と称賛し、秀吉の知るところとなった。
息子達のだらし無さを補う母の強さ。上州のかかあ天下はこの時代からあったのだろうか。
小田原開城後、豊臣秀吉により由良国繁らは許され、その母である妙印尼には常陸国牛久に5400石の領地が与えられて牛久城主となった。
なおこの戦いのとき、忍城で奮戦したとされる甲斐姫は妙印尼の孫にあたる。
妙印尼は牛久城主の座をすぐ息子の由良国繁に譲り、大手門すぐ近くに隠居のための庵を築いた。
文禄3(1594)年に81歳で世を去った。庵跡は得月院として今も残る。また妙印尼の墓である五輪塔が残っており牛久市の史跡となっている。
牛久において妙印尼は、元の上州の領地と牛久領内での戦乱における犠牲者を弔うため、牛久周辺七か所に観音堂を、八か所に薬師堂を作った。(七観音八薬師)
由良国繁は関ヶ原の戦いで功績があり、今の龍ケ崎市川原代(元々は下総国相馬郡)に1800石加増され7000石余りとなった。
牛久城が築かれたのは、偶然にも由良国繁が産まれた1550年頃とされている。由良国繁が世を去った(1611年)あと1621年に由良氏除封に伴い廃城となった。
由良氏は新田氏の流れを汲む名家のため、高家として遇され明治維新まで続いた。
牛久城跡地はその後牛久領15000石で山口氏(中国地方の名門大内氏の末裔)がこの地を治めると、外郭に陣屋を作りもとの城下町は残された。
※赤井家堅は丹波(今の京都府)から来て由良成繁と親交があったといわれ『寛長寺赤井氏系図』に名が出てくるが同書の信頼度は低いとされる。また館林城を築いた赤井照光説もあるが館林の赤井氏については記録が少ないためわからないことが多く、照光も実在しなかった可能性が高いとされる。