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花子の物語(祖母の記憶)昭和の代5

昭和19年春、世の中は戦時色が強くなっておりました。
小農民は、貧しさを打開するために、開拓の夢を抱いて満州へ。
本国に残っている成年男子は戦争へ、次々と送り込まれていきました。
残っている者は、自分たちの生活はもちろん、日本軍の兵糧や軍備品、軍費を捻出するために、働かなければなりません。
農作業や公共事業は共同で助け合うために、青年会や婦人会が強化され、
学生生徒でさえも、動員されていました。
学生生徒たちは、さらに本土決戦に備え、兵士としての訓練にも励みます。
小学生の手旗信号、中高生ではの長刀や、射撃など、運動会の競技としても盛んに行われていました。

当時の村社会は、とても共同意識が強い世界だったようです。

ユタカさんは3度目の出兵をし、娘2人と伯母宅の離れに身を寄せた花子。
花子は会津の言葉も使えるし、出生兵の家族ということで、さほど村人の風当たりは強くありませんでした。
けれど村の小学校へ行った娘のセツは、東京生まれで会津の方言がわからず、「疎開、疎開」とイジメられることとなりました。

その頃ユタカさんは、東京東部第3部隊隊員として台湾に、その後フィリピンのルソン島マニラに赴任、コレヒドール島の戦場にありました。

花子は、伯母宅での生活が落ち着くと、妹や母、留吉の様子を見に行くこともありました。
妹のシマは、この年4人目の子どもを産みましたが、妊娠中から体調がすぐれず、母子共に病弱になっていきました。
シマの夫から、シマと3人の子供の世話をどうするか相談を受けた花子は、
母スカを訪ねます。
母スカは、夫が亡くなり、元々仲が悪い継子との生活に苦労していました。
花子とも昔から、相性が悪いスカの婚家の継子でした。
実母でもない老女をこの先看るのかと、花子が直談判したところ、引き渡してくれました。
花子は、引き取った母スカをシマの所へ連れて行き、シマとシマの子供たちの日々の世話をスカに手伝ってもらうことにしました。

8月になると、東京から集団疎開の子供たちが大勢やって来ました。
おかげで、セツのイジメは解消され、花子も一段落したのですが。
ユタカさんは、戦地でマラリアに罹患し戦地から、福岡県の小倉陸軍病院に送還されたとの連絡を受けました。
当時マラリアは死亡率の高い病でした。
死を覚悟したユタカさんは、「どうせ死ぬならもう一度戦線へ出て、戦死した方が国の為、家族の為」と手紙を出しました。
花子は、死んだら離縁するから、闘病に専念してほしいと返事をしました。

その後ユタカさんは戦地に行くことは無く、11月には世田谷の第4陸軍病院へ転院してきました。花子は娘達を連れて、会いにいきました。
この日が、ユタカさんと花子親子が過ごした最後の日となりました。
後ろ髪を引かれるように、花子と娘達はユタカさんを病院に残し、帰郷しました。

その数日後、B29は東京爆撃を開始しました。

花子たちが伯母宅に戻ると、伯母が臥せっておりました。
食料も医薬品も燃料も、何もかもが不足しておりましたので、数日後にはあっけなく亡くなってしまいました。
衛生状態も悪く、生存は運と体力勝負のような時代でした。

昭和20年も年が明けると、本土決戦に向けての動きが強くなってきました。
2月には、硫黄島での戦闘が始まりました。

3月、硫黄島での戦闘も劣勢になり、東京も大空襲を受けます。
そんな中、ユタカさんの訃報が届きました。
東京大空襲の一週間後のことです。
花子は、セツと2人で世田谷へ向かいました。トミは妹の家に預けて。
この時に見た焼野原を、セツは決して忘れなかったようです。

ユタカさんの遺骨は、ユタカさんの長兄が引き取りました。
この時、花子には家もなければ、墓を建てる余裕もなかったから。
花子は、いずれ家を持ち、墓を作る決心をしました。
花子36歳のことでした。(ゆえに、ユタカさんは享年36歳です)


この後、戦争は悲惨さを増して、沖縄決戦、原爆投下の末、終戦にたどりついたのでした。



今回は、終戦までのお話でした。
続きは、また次回です。

おばあの実話をもとに、憶測や妄想などでつないで書いています。
ただの想像作品ということで、ゆる~く、お許しください。


貴重なお時間を費やして、ここまで読んでくださり、誠にありがとうございます。



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妄想竹
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