かっこいいフレーズpart4「アナキズム的思考へ」
「かっこいいフレーズ」をまた集めようとしたら、話が少しおおげさになってしまった。
●ジョセフ・ド・メストル(1753-1821)
・「人間は生まれながらに奴隷である。」
・「人間は権力を欲して飽くことをしらない。人間はその欲望において幼児の如くであり、つねに、持っているものに不満を抱き、持っていないものしか愛さない。」
・「この世においては暴力しかない。悪はすべてのものを汚染し、なにものも適切な場所にいないゆえに、全くの真の意味で『すべてが悪である』にもかかわらず、我々は『すべてが善である』と教えてきた現代哲学によって堕落させられている。」(Wikipediaより)
●「悪と闘うことはできない」
・「ストイシズムは悪があたかも存在しないかのように装い、ヒロイズムは悪をすべて人間の力でねじ伏せようとし、審美化は悪を転倒させ、神意への従属は悪を善の道具に仕立てようとしている。」
・「クインツィオによれば、これらのいずれをもってしても悪と闘うことはできない。解消も還元も美化も正当化もできないもの、それこそが悪(罪、苦痛、死)なのである。」
・「それゆえにわたしたちは、全面的な救済、十全にして完璧な救いなるものを望むことはできない。せいぜい望みうるのは、みじめな救済、貧しい救済のみなのだ。」
・「たとえば、苦痛を一掃するというテクノロジーの驕り、悪の根源を絶つという政治や司法の矜持、それらがさらに大きな悪を招く結果になりかねないもとは、歴史と現実が証言することである。」
・「全面的な救済というユートピア的スローガンは、差異を抹消する権力と暴力にたやすく転倒する危険性をはらんでいる。」
・「有限なるものを自覚した貧しい救済こそ、他者への暴力を回避できる道なのだ。」
(岡田温司「イタリア現代思想への招待」2008年)
●カール・シュミット(1888-1985)
・「敵は常に存在するという現実を認めた方がかえって、戦争を抑制し、地政学的な勢力均衡にねざした「秩序」を保てる。」
(仲正昌樹「カールシュミット入門講義」)
ネーションを否定し世界連邦を作ろうとするような企てこそが、かえって暴力を喚起する。しかも、〈敵〉の存在を否定しようとすることこそが、逆に絶滅論を、ジェノサイドを誘発するのである。
かつては戦争は、支配層どうしの勢力争いだから、決闘のルールにしたがって絶滅までは至らなかった。しかし、インディオを殺戮したカソリックや、インディアンを虐殺してきた米国や、ユダヤ人に対するヒトラーのような、〈敵〉の存在を許容できない不寛容な普遍思想が、人類の世界平和の名のもとに敵を消滅させる国連という仕組みを作った。(いまは徹底的に機能不全だが。)理想主義の危険性といえよう。
「悪」とか「敵」を否定し排除しようとする全面的な救済論や普遍的な思想が、かえって暴力や絶滅への道を開く。
「悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある。」とヘーゲルもいっている。たやすく「全面性」や「普遍性」に陥る原因が、進歩主義であり合理主義であり、以下にサイードも指摘しているように、西欧中心主義なのだ。
●エドワード・W・サイード(1935-2003)
・「(フーコーのような)強力で黙示録的なビジョンの力によって、多大な影響をあたえるこのような理論はすべて、近代の西欧社会に存在するのがすべての本質であり、普遍的なものであるかのように祭り上げるはたらきをしている。それゆえこうした理論を、ヨーロッパ中心的で帝国主義的であると呼ぶには、あながち誇張ではあるまい。」
・「なにしろ、こうした理論は、詳細きわまりない分節化と、自己反省的(でありながら、かつそれゆえに)自己中心性と、不可避主義と、美的悲観主義との結合という点で、どれもが似たりよったりのものとなり、西欧的なパターンからの脱出口や、それを変更する選択肢といったものをいっさい提示しないのである。」
フーコーの、華麗な分析の果てに、すべてが内なる権力と制度にからめとられているという絶望的な結論を読むたびに、結局、頭の良さを何も役立てていないと思ってしまうのだ。あるいは、頭の良さをひけらかすためだけの、さっそうとした分析。
真理だから役立つのではなく、とりあえず役立つ知恵を真理と呼んだらどうか。私はそんなプラグマティズムの立場に立っているから、もう緻密な世界分析と壮大な理論を振り回すような哲学などに、惑わされることはない。
サイードもこういっている。
・「これまで、こうした大がかりなこじつけや、概念のインフレ現象、大言壮語のために、多大の犠牲を支払わされてきた。」
(サイード:「音楽のエラボレーション」)
●フーコーについて
フーコーは、たんねんに規律=訓練社会の支配を記述し、それに対する異議申し立て、逸脱とか非行とか犯罪行為というあらゆる侵犯形式も、結局は制度に吸収されて、権力の揺るがない様子を確証させ、制度そのものの断罪、非人間性の証明も、それが制度の不可避性を証明してしまうというのである。
フーコーについて、強いてポジティブに語るなら、1969年神谷美恵子による、次のようなコメントを、結局のところ現在においても、越えるものはなかったのではないだろうか。すなわち:
・「少なくともフーコーの構造主義は、いままでのところ、主義というよりは『問い』である、という方が正しくはないだろうか。」
・「フーコーは現代を救う道をしめしているわけではない。彼が喚起するのは『ことばともの』で言っているとおり、現代人の認識というものに対する『醒めた、不安な認識』なのである。」(神谷美恵子・著作集5「旅の手帖より」)
神谷美恵子は1963年、華々しい構造主義での登場前夜のフーコーに出会い、「臨床医学の誕生」を翻訳した。
根底にある理性信仰の合理主義については;
●理性信仰の危険性について
・「想像は狂気を生まない。狂気を生むのは理性なのだ。」(チェスタトン)
・「真実がふたつ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、その矛盾をひっくるめ、ふたつの真実をそのまま受け入れること。そういう理性的な不可知論がある。」
・「心の中のわだかまりを無視して、論理的な整合性だけで推し進めていく進歩的思潮をこそ、狂気とよべる。狂気の理論家は、あらゆるものを明快にしようとして、かえってあらゆるものを不可能にしてしまう。」
(ギルバート・K・チェスタトン(1874-1936)「正統とは何か」書評:ブログ「ものろぎやそりてえる」2009年ごろ)
・「知的な人は常に何が正解かはわからないと考える。何かに強い確信を持つのは、いつも知的でない人のほうだ。」
(ジャルド・ダイヤモンド:ほぼ日20130308:糸井重里との対談において)
普遍的な思想とか哲学を言い始めた時点で、ちょっと「狂気」を疑い始めたほうがいいかもしれない。
それではどうすればよいのか。
●これからのアナキズム
さしあたっての「有限なるものを自覚したうえでの貧しい救済」という方向には、アナキズム的思考が考えられるだろう。
ミシマ社ブログ20200617「これからのアナキズム」の話(松村圭一郎+三島邦弘)によれば:
・「アナキズムとは『権力』による強制なしに、人間がたがいに助け合って生きていくことを理想とする社会である。」(鶴見俊輔 1970)
ただしフーコーによれば
・「『権力』とは国家権力ではなく、あらゆる関係の内側にある」から、
・「私の信念自体が私を縛る権力になるのだから、そのことに自覚的になることが、アナキズムの一歩」
と認識しながら、尊重し合う個人による組織づくりについての議論が展開していくのである。
・「組織って『誰もが組織のために動きはじめると組織自体が動かなくなる』という矛盾を抱えている。」
・「個々が組織を超えた自分の信念や価値観を持ちながら、反組織的に動ける組織ほど柔軟性があって、危機に対応できる。」
・「『自立』と『助け合う』が同時に起きる必要がある。一人で動けないから仲間をつくるわけですが、その組織自体にみんなの目が向くと忖度し合ってみんなの足がとまってしまう。」
2020年当時、コロナ感染が爆発して、政府も打つ手が見当たらないような状況下で、いかにみんなで助け合ってその場の状況を打開していこうかが問われていたので、こうした、身近な組織づくりについての丁寧な議論がなされていたことはじゅうぶん了解できる。
だけれども、ほんらいアナキズムというのは、やっぱり、身近なところを超えた、ぶっとんだ地平を見させてくれるようなものであるべきと思うのだ。
●大杉栄(1885-1923)
「他者への暴力を回避した貧しい救済」のため、ある種の自主管理的な組織をローカルに立ち上げて、その場所で、それなりのレベル、フェーズで自立していくというイメージとは、思想史的に言えば、いわゆるアナルコサンディカリズム(アナーキー的な組合主義)であろう。日本におけるその運動家が大杉栄だった。かれは成立当時のソ連においてはやくも共産党独裁の危険性を感知し、ソ連=コミンテルンからの援助をもとに日本共産党を立ち上げようとするボルシェビキ派と対立した。彼は、運動のための目的とか組織とかを議論する前に、まず行動せよと訴えた。
・「われわれはより善き将来を夢見る事もなく、ただ闘いの楽しみのために闘う。」
・「運動には方向はある。しかしいわゆる最後の目的はない。理想は常にその運動と伴い、その運動とともに進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動そのものの中にあるのだ。」
・「自由と創造とは、われわれの外に、また将来にあるのではない。我々の中に、現に、あるのだ。」
(大杉栄評論集)
1906年、アメリカから帰ってきた幸徳秋水は、「議会否認・直接行動一本鎗」を主張してゼネストを呼びかけた。組合などほとんどない状態での呼びかけであったが、不思議なことに、造船所、炭鉱、鉱山など主要産業で大規模なストライキが続出し騒然となった。階級意識の高まりから組織組合を作って行動を起こすのとは逆に、ストライキを起こすことによって意識が高まり組織化が進んだ。大杉栄の直接行動論もまた、日本のプロレタリアートを信頼し、かれらの自然発生的ー本能的欲求を支持することによって、一挙に議会主義の枠を粉砕しようと試みたのである。(花田清輝・著作集V「日本における知識人の役割」より)
自分の信念にすら自分を縛る権力を見てしまうような、ナイーブな心優しい視線では、自己責任をすぐに引き受けてしまって、けっきょく権力につけこまれてしまう。正義とは、なにやらサンデルのいうような、生ぬるい「共同体的正義感情」なんぞではなく、単純に「不正の処罰」なのだ。
ブランキにとって、革命とは、将来の理想社会のためでなく、ただ現状の抑圧と弾圧を一掃することそれだけであった。先のことはその時考えればよいのだ。
「悪」「救済」「理想主義批判」、紆余曲折と混乱をきわめたこの文章も、とりあえず大杉栄の名調子で締めくくることにします。
・「今や生の拡充は、ただ反逆によってのみ達せられる。新生活、新社会の創造はただ反逆によるのみである。」
・「生の拡充の中に至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊との中にのみ今日生の至上の美を見る。征服の事実がその頂上に達した今日においては、諧調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。諧調は偽りである。真はただ乱調にある。」